形而上学的なこと 【2】浜辺の砂


[2023/8/15]

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浜辺にて

ようやく、"浜辺の砂"の写真と相成りました。

"浜辺の砂"と"もう一つのこと"が、写真表現について、私が長い間気にかけてきたものです。"もう一つのこと"は、いずれ取り上げたいと思っています。

"浜辺の砂"は、海岸にごく近いところで生まれ、育った私にとって、きわめて身近なものでした。


次の写真は、日立市の河原子海岸(細かく言うと南浜と呼ばれるところ)で、片手でざくっとすくって持ち帰った砂を、自宅の室内で撮影したものです。

浜辺の砂

写真1 浜辺の砂

最初は、実際の浜辺で、直接撮影しようとしたのですが、マクロレンズを使っての等倍に近い拡大撮影は、私にとって、特別な準備をしない状況では、うまくいきませんでした。

写真撮影に関して、最近までの6年間、ほとんどブランクといっていい状態であり、また慣れ親しんだニコンのカメラからキヤノンのカメラに変えたこと、同時に一眼レフからミラーレスへ、というように変化したことなど、いろいろな要因によるものです。このあたりの事情は別の記事で触れました。

それで、持ち帰った砂を、自宅で、ある程度の機材の準備をして撮影したものです。

写真1は、6000x4000(pixel)の画像を600x400(pixel)に解像度を落として掲載しています。トリミングはありません。全画面を掲載しています。シャープ化処理を加えています。

等倍撮影ですから、画面の水平方向は約23.6mm垂直方向は15.6mmになります。

次に、画像処理ソフトを利用して、画像の中央部の左右・上下ともに30%(面積では1/9の部分)をトリミングしてみました。

浜辺の砂

写真2 中央の左右・上下ともに1/3のトリミング

これを見ると、砂というより石ですね。これに比べると、写真1はまだ砂らしい感じがあります。

そして実に様々な種類の物が写っています。

砂浜を直接眺めると、全体的に"ちょっと薄めのの茶色"という印象でしたが、このクローズアップした写真を見ると、色の印象がかなり異なります。

白、黒、茶、透明。

透明、あるいは半透明のものが結構あるものです。

大きさも実にさまざまです。砂なので、同じなような大きさの粒々があるのだと思っていましたがまるで違います。

角がとがったところや、縁が鋭くなっている所は見られません。川の上流から浜辺まで運ばれ、さらに長い時間にわたって砂浜で波にもまれて互いにこすり合ったたためでしょう。

山から流れてきたものだけではなく、たとえば海岸にある岩石が、波の浸食で崩れて砂になったものもあるでしょう。

貝の殻が砕けたものもありそうで、これはもともと海岸で作られたものです。

人工物もあっておかしくはないですね。ガラスのかけらとかプラスチックの破片とか。

あくまでも私の想像なのですが、外国の内陸の砂漠の砂は、もう少し均一な物ではないでしょうか。昔、砂漠で撮影したカメラマンが、微細な砂粒がカメラの隙間に入りこみ、苦労をした、ということを何かの記事に書いていたのを覚えています。

ここに上げたものは、特別の物ではない海岸の砂浜であり、一言で"砂粒"と言ってしまいますが、大きさ、形、色、材質などにおいて、こんなにバリエーションがあるとは全くの驚きです。

この砂浜を深く掘り下げると、おそらく、1mや2m下でも同じ状態なのでしょうね。浜辺の表面は波で洗われて絶えず変化しているのに対し、1mや2m下にある砂は、何百年とか何千年という長い間、ほとんど変化がないのかもしれません。

それぞれの由来

一つ一つの"かけら"には、それ固有の歴史があります。

一つ一つが全く独立した歴史を持っています。

もしかすると、大きな岩が砕かれたとき、隣同士の"かけら"がくっついて川に落ちたのかもしれません。しかし、川を下るに従い、川の水の流れにもまれて、すぐにばらばらになるでしょう。

比較的大きなかけらが、川の水の流れにもまれて砕けることもあるでしょう。砕けてできたより小さなかけらもやはりすぐにばらばらになります。


ここで、ひとつの"かけら"に注目して、それが初めてできたときから動画を撮って追跡してきた、ということを考えてみます。

現在からその動画をさかのぼって見ていくと、たとえば、長い間波にもまれて砂浜を右往左往していたのかもしれません。

やがて川の河口にいたり、さらに川を上流に向かってさかのぼり、ある所で水中から飛び上がって崖の岩の一部になります。

それ以前はかなり長い間変化がなく、やがて造山運動(時間を逆方向にたどっているので造山運動の逆方向の動きになりますが)か何かで大きな動きに巻き込まれ、やがて高温になり、別の種類の岩石になります。

さらに造山運動が起こり、海底深く沈み、岩はやがてばらばらの別の種類の岩になります。

なにせ、何十億年という時間の経過をたどっているので、動画をさかのぼって見るとしてもものすごく長い時間がかかるでしょう。

こうして地球生誕、さらには宇宙を漂い、ビックバンに至るのでしょうか。

ビックバンの直後に、いま砂浜で見ている"かけら"を構成している、たとえばケイ素の原子がどのような状態にあったのか、私の知識ではまったく見当がつきません。

しかし、いつかケイ素の原子になった時から時間を順方向にたどって先ほどの動画を見ると、「なるほど、こうなって、それからこうなって、それで今、河原子の浜辺の表面にたたずんでいるのか」と、ある意味では納得できるような気がします。

確率を考える

さて、このケイ素の原子が何十億年の昔に創られ、今、私の目の前にあるという、そのことが起こる確率はどれほどだろうか、と考えると、その小さいことは気が遠くなる、というレベルではありません。

何十億年の昔において、今からこの原子がたどる運命の変遷には、数え切れないイベントが関わります。

造山活動における岩石や、さらには雨や風の影響、火山活動の熱の高さとそれに接している時間の長さ、川岸の岩からこぼれ落ちたきっかけとなる地震、風雨の様子、川の流れの激しさ、河口に流れ着いたときの潮の満ち干、その後の潮の流れや波の動き、まれに起こる津波の影響とか、砂浜を動き回る生物の影響。

結果的にこうなっただけなのでしょうね。ただし、先ほど述べた動画の巻き戻しを想定すると、「なるべくしてなった」とも感じられそうです、

とっても小さな確率のこと

確率がどんなに小さくても、それは起きます。

私が以前にちょっと考えたことがある例を取り上げてみます。

トランプです。

ジョーカーを除いてカードが52枚あります。

我が家にあるものは、購入したときには一定の順序で並んでいましたが、すでに何百回となくシャッフルしているので、その並びがどうなっているのか全く予想できません。

今、その52枚を一列に並べるとします。

その並びの順序は、一体どれくらいの確率で起こるのか、ということを考えると、特になんと言うこともできないので、単純に52枚のカードの並びの種類は 52! だけあるので、確率と言えば、1/(52!) ということになるでしょう。

"!"は階乗を表します。3!=3x2x1=6, 4!=4x3x2x1=24ということです。

1/(52!) という値を考えるには、(52!) の値を考える必要があります。

階乗の近似値を求める公式があります。もっと安直には、Excel で計算させることができます。やってみると、約8.066E+67 となりました。(ExcelをリリースしてくれたMicrosoftさん、お世話になります。)

パソコンに標準搭載の関数電卓でやっても同じ結果ですから、間違いありません。

およそ、8x1067 です。

これがどれほど大きな値なのか、全く見当がつきません。

トランプの52枚の並びをすべて紙に書き出すとしたらどうなるでしょうか。

絵柄のダイヤ、ハート、スペード、クラブをA, B, C, Dと表すことにし、1~9までは数字を直接に、10, Jack, Queen, King は一桁の文字で表すために、たとえば、W, X, Y, Z としましょう。

ダイヤのエースはA1、スペードのキングはCZという具合です。

こうすると、カード1枚は2文字になり、52枚では104文字です。

計算を簡単にするために、A4の用紙に、1行104文字、1ページに100行書く(あるいは印刷する)ことにします。

そうすると、1ページに100通りのカードの並びを格納することができます。

500枚の用紙は表と裏で1000ページですから、これを1冊の本として製本してコンパクトに収納することにします。

この本1冊で、100x1000=105 の種類の並びを収容できます。

まだまだですね。

書棚が必要です。1段にこの本を20冊並べ、これを5段収容する書棚は、上記の本を100冊収容できます。書棚一台で107 の種類の並びを収容できます。

まだまだ足りないことが分かります。

10階建ての図書館を作り、この書棚を収容します。10階建ての図書館といえば、かなりの規模です。この図書館の1フロアには上記の書棚が100台収容できる広さがあるとします。

1000台の書棚が1棟の図書館に入り、そこには、1010 の種類の並びを収容できます。

まだまだ足りません。日本中にこの図書館を建てるとします。日本の国土の面積は約37万平方キロと言われています。

1平方キロは1000m x 1000m = 106 (m2) ですから、日本の国土の面積は 37x104 x 106 = 3.7 x 1011 (m2) ということになります。

上記の図書館がどのくらいの面積になるかは、計算するのが面倒なので、100(m2) とします。

そうすると、日本の国土の山を削って谷を埋め、平らにして、上記の図書館を建てていくと、3.7 x 109 棟の建物を建てることができます。

トランプの並びに換算すると、3.7 x 1019 通りを記録することができます。


ここまで来ると大体見当がつくように、地球上の山を削り、海を埋め立てて平らな土地に造成し、上記の図書館を建ててもまだまだ足りません。

このように大量の文字を書く(あるいは印刷する)時に、本、図書館、などに置き換えて計算するのは、むかし読んだ「1,2,3...∞」という本(これはジョージ・ガモフという理論物理学者が書いたものです)で覚えました。

とっても小さな確率のこと―その2

次に、別の考え方をしてみます。

地球上の人間の人口は、約80億人と言われています。計算の都合上、100億人として取り扱いましょう。

一人一人にトランプを配り、よくシャッフルしてから、一列に並べます。

これを一生に10,000回繰り返してもらい、それぞれのトランプの並びを記録します。10,000回もシャッフルすれば、カードはすり切れてしまうでしょうから、これは妥当な所でしょう。

とりあえず、トランプの並びは重複が発生しないものとすると、100億人x10,000=1014 通りのパターンが発生します。

上で、「トランプの並びは重複が発生しないものとする」と書きましたが、8x1067 通りの並びのうちの1014 通りですから、重複しなくて当然、というレベルです。

まだまだ足りません。

地球上に人類が誕生したのは、500万年前というのがおおよその見解のようですから、これに対して、1世代を20年とすると、25万世代と言うことになります。

人類が誕生したとき、一度に100億人が誕生したという、とんでもない仮定をして、全員がトランプを上記のように並べてその並びを記録する、と仮定すると、2.5 x 1019 。この程度の数値にしかなりません。

人類の営みがどんなに小さいものかとあきれます。

つまり、今、トランプを持ち出して適当にシャッフルし、一列に並べたとき、目の前にあるその並びが出現したというのはいかに希少な、希有なことであるか、ということですね。

でも、どのパターンかは事前には予測できませんが、必ずどれか一つの並びが発生するということも事実です。

これは余談ですが

確率を使った笑い話のようなものを思い出しました。


一人の男がある事件の容疑者になり裁判にかけられた、という設定で、たしかイギリスの作品だったような気がします。きわめて曖昧な記憶を元に再現してみます。以下、、固有名詞その他を適当に決めています。

弁護士が次のように弁護した。

皆さん、まず最初に言っておきますが、この事件の犯人はイギリス人である、ということは、全ての皆さんと同じように私も間違いないと思います。

さて、この男は見事な赤毛です。これほどに完全な赤毛の人間はイギリスには一万人に一人もいないでしょう。

この男は、スコットランドのブリッスラーという村の出身です。この村は人口が5000人です。イギリスの人口が5000万人ほどですから、その一万分の一です、

この男がシーブリーズというパブで呑んでいたときに逮捕されたのは4月12日の夕方で、そのとき、そのパブには客が20人いたと店主が証言しています。イギリス人5000万人のうちの20人だけがそのときにそのパブで呑んでいたのです。

この男の誕生日は11月18日です。これは1年の365分の1の確率です。

ここでまとめてみます。この事件の犯人ですが、このような見事な赤毛で、ブリッスラーという人口5000人の村の出身で、4月12日の夕方にシーブリーズというパブで呑んでいて、誕生日は11月18日である、という確率は、赤毛という点で1/10、000、出身の村という点で1/10、000、パブの点で20人/5000万、誕生日の点で1/365。これらを掛け合わせると、この男がこの事件の犯人である確率は、私の計算では、1兆分の1のさらに100万分の1なのです。

そのようなとんでもなく低い確率のことが現実に起るということを、皆さん、信じることができますか。

めでたく無罪になった、という話です。

人間の場合は

話は砂粒から始まりましたが、これが人間だったらどうでしょうか。

私には親が2人、つまり父と母がいます。生物学的には必ずそうなります。

父にも母にも、それぞれ親が2人います。私から見ると父方の祖父と祖母、母方の祖父と祖母です。

つまり親子関係を一世代さかのぼると、先祖は2倍になるのです。

10世代さかのぼると先祖は1024人、24世代さかのぼると先祖は 16,777,216人になります。

昔は結婚年齢が低かったので、一世代を20年とすると、24世代では480年。つまり、今から約500年昔の時点で1600万人の人生が私の生誕に直接関わっているのです。そのうちの1人の事情が違っていたら、私という人間は生まれなかったことになります。

500年前というと戦国時代です。私の先祖の一人が戦場で、一人の相手との勝負となり、崖の上で組み討ちとなり、相手が落ち葉に足を取られてよろけて崖を転がり落ち、不運にも大岩に頭をぶつけて命を落とし、私のその先祖はそのおかげで生き残ったかもしれません。

その場合、勝負は一枚の落ち葉が決定したといえるでしょう。

その落ち葉がそこにあったのは、その年の秋の気候により落葉のタイミングが決まり、葉が枝から離れた瞬間の風の向きと強さで落ちる場所が決まり、その後の何日かの間の気象により、風によって位置を変えたり、雨でぬれて滑りやすくなったり、といういろいろな条件が重なって、その日のその時の戦いの相手の男が足を滑らすという結果につながったのかもしれません。

ほんのわずかの違いで、私の先祖の方が落ち葉に足を取られたのかもしれません。

その場合、私は存在しないのです。ですから、この記事も出現しないのです。


だからといって、その場合は世界の歴史が大きく変っていた、という可能性は大きくはないように思えます。もっとも、世界の歴史が大きく変っていた、という可能性がないわけではありません。

上に書いた戦国時代のエピソードがなくて、私が存在しなかった歴史(それがあるとして)が、現実の歴史とどのくらい違うのか、まったく見当がつきません。

江戸時代末期に大老職だった井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されましたが、上記の崖の上での戦いの時に足を滑らせたのが私の先祖の方で、相手の生き延びた人の子孫が桜田門外の変に関わって、事件を必死になってとめたとか、幕府に知らせて事前に警戒が強化され、その結果井伊直弼はその後長く大老をつとめたら、徳川幕府はもう少し長く続いたのかもしれません。

想像するなら、どのような歴史でも語れます。

ですが、井伊直弼が大老を長くつとめたにしても、日本はいずれ開国し、外国との交流が進み、世界の歴史の中に登場していくのは必定とも考えられます。


私の先祖から現在までをたどっていくと、実に様々な現象が関わり合って現在の私があり、現在の世界があるのです。それが人の数だけあるのです。


だからといって、このような事から、一人の生命が実に貴重なものである、ということを私は言うつもりはありません。

上に紹介したトランプの並びの例で見たように、この世の中は、ものすごく多数の可能性に満ち満ちています。

一人の人間であっても、浜辺の砂浜の砂粒ひとつであっても、一組のトランプのカードの並び順であっても、私の家の庭先で巣穴を掘っているアリの1匹であっても、それを見ている私の右肘を刺したヤブ蚊であっても、その瞬間に見上げたときに目に入ったバラの花の花びら一枚であっても、その背景に見える青空の中に浮かぶ入道雲であっても、それがその瞬間にそのようにあるのは、それぞれの歴史の中で、限りない可能性のバラエティの一つが表れたものです。

備考

このように書いてきましたが、内心では、計算違いをしていないか、とはらはらしています。



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