創作ことわざ
[2023/3/14]
だれにでも、人を助けたことと、人に助けてもらったことがあります。
企業が期末に決算をするように、人も人生の節目に人助けの決算をしてはどうでしょうか。
助けてもらったことの方が助けたことよりも多いまま人生を終えるとしたら、その人生は「良かった」と総括することができるでしょうか。
人を助けたことはたいていは意識してやっているので覚えています。
助けてもらったことは、よく認識できたこともあれば、誰かに助けてもらったようだ、というあいまいなレベルしか認識していないことがあります。
さらには、誰かが助けてくれたおかげで自分に起こる問題未然に防ぐことができたという場合もあります。
このような場合、問題が表れなかったので、全く気がつかなかったということもありえます。
そうなると、自分が理解している範囲で(もちろん、そうするしか方法がないわけで)、決算をしても安心はできないことになります。
未知のことがらについて評価することは不可能です。
そのような場合、人はいくつかの方法を生み出しました。
代表的なものに、マージン、あるいは余白とか"のりしろ"などどいわれる物です。
未知のことについて、一定量を付け加えるのです。
良い例が、このサイトの別のところで書きましたが、エレベーターのカゴを吊るワイヤの強度の計算です。
このワイヤの強度は、もちろん、カゴの重量と乗員の体重や持ち込む手荷物の重量に見合った値にすべきです。
ぴったりでは不安です。体重を量るわけにはいきませんから、人数で制限します。太った人が多いと困ります。
あるいは考えられないくらい重い荷物を持った人が乗り込んでくるかもしれません。
あるいは地震で建物が揺れた場合、ワイヤにかかる負荷が増えるでしょう。
どうすればいいのか。計算上の数値に、エイヤッ、とばかりに、6倍するのです。
(ずいぶん昔に聞いたことなので、今では違っているのかもしれません。)
ですが、こういうように、予測する危険、あるいは負荷を水増しするのです。
津波対策の防潮堤の高さは、過去に発生した津波の最大高さと、今後予測される津波の最大高さを合わせて考慮し、これに余裕を持たせて決めます。
こう考えると、人助けについては、助けたのと助けられたのがトントンというのは不安で仕方がないです。
"助けた" >> "助けられた" というようにしないと安心して死ぬことができません。
だって、人助けにおいて、いわば"借り"を残して人生を終えるというのは、どう考えてもカッコ悪い。
借金を残して死ぬのはどうしても避けたいと思うとともに、人助けについても"借り"があるままというのは避けたいものです。