日本語のあれこれ日記【39】

原始日本語の手がかりを探る[30]―数量詞 ひとつ ふたつ …

[2018/8/27]


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動詞のリストからひとまず離れて、ひとつ、ふたつ、…という数量詞について考えてみました。

古い日本語が残っている可能性があると思ったからです。

ひとつ、ふたつ、というとき、これを数量詞、その構造としては数詞(ひと、ふた)+助数詞(ここでは"つ")、というのが一般的な呼び方であると思われますので、これに基づきます。

どういうものがあるか

ひとつ、ふたつ、の他に、ついたち、ふつか、とか、ひとたび、ふたたび、が挙げられます。

種類としてはいくらでもある、といっても過言ではないでしょう。

刀は一振り、二振り、…、箪笥は一さお、二さお、…、など。

ひとり、ふたり、…も候補として良いでしょうが、以下のことが気になります。

日本国語大辞典精選版(以下では精選と略記) "たり"の項の語誌欄

(前略)五人を意味する「いつたり」という語は中世以後にしか見えず、古くは「いとり」といったらしい。平安時代以前に六人以上の人数について「たり」をつけた言い方があったのかどうかは不明であるが、近世の文学作品には「むたり」「ななたり」「やたり」などの形も見える。

4まで、というのでは数が少なくて規則性を推測する助けにはなりません。それで今回は参考までに挙げておく、ということにとどめます。

ひ、ふ、み、よ…というのは、ひとつ、ふたつの先頭の文字を取り出しただけと思われ、これも今回は取り上げません。

表1 数量詞の例

個数 日付・日数 回数 人数
1 ひとつ ついたち/ひとひ ひとたび ひとり
2 ふたつ ふつか ふたたび ふたり
3 みつ みか みたび みたり
4 よつ ようか よたび よたり
5 いつつ いつか いつたび (いつたり)
6 むつ むゆか むたび (むたり)
7 ななつ なぬか ななたび (ななたり)
8 やつ やうか やたび (やたり)
9 ここのつ ここぬか ここのたび (ここのたり)
10 とを とをか とたび (とをたり)

"ついたち"は月の初日、"ひとひ"は日数として1日、です。"ふつか、みか"などが特定の"日にち"の意味と日数の意味を兼ねますが、ついたち/ひとひ(漢字表記は共に"一日")は別の言葉になっています。

(いつたり)、(むたり)…と括弧書きにしているのは、上記の"たり"に関する事を踏まえてのものです。

なお、日本書紀に、五人の意で"五"と書き、"いつとり"と振り仮名をしている個所がいくつか見つかりました。たとえば以下です。

其(か)の丹波國(たにはのくに)に五(いつとり)の婦人(をみな)有り。(垂仁天皇五年十月)

是の五人(いつとり)は…(景行天皇十二年十月)

("イツトリ"は古訓」という頭注あり。)

坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 日本文學大系 67 日本書紀 上 昭和49年12月 第9刷

次の例のように、"五人"と書いて"いつとり"と読む個所もあります。

是の五人(いつとり)は…(景行天皇十二年十月)

特殊な例―ついたち

"ふつか"、"みか"などに対して"ついたち"は言葉の系統が違っています。

これについては、多くの辞書で"月立ち"から来た言葉としていますので、これだけは他と異なる表現になっているものと考えます。

特殊な例―"三日"、"四日"など

"三日"、"四日"は"みか"、"よか"なのか、あるいは"みっか"、"よっか"なのかは私には分りません。促音は歴史的に書き分けることがなかったので、直接的に判断できる材料はありません。

"みつ"、"よつ"、"むつ"なのか、"みっつ"、"よっつ"、"むっつ"なのか、についても同様です。

さらに"四日"には"ようか"があり、これがやっかいです。

文例を探す場合、"三日"、"四日"などの具体的な日付あるいは日数は歌謡の世界ではちょっとそぐわない感があります。万葉集で"みか"を検索しましたが、"三日"の意味では使用例は見つかりませんでした。

七日については万葉集にひとつ憶えている歌があります。

1917 春雨に衣はいたく通らめや七日し降らば七日来じとや

七日の部分の原文はやはり"七日"です。

万葉集における一日から十日

試しに、一日から十日までのそれぞれを検索してみました。

歌を詠んだ日付の記録として○日と書かれた例は多いでしょうから、歌の部分に限ります。

一日

0186 一日(ひとひ)には
0409 一日(ひとひ)には千重波しきに
0484 一日(ひとひ)こそ
0537 一日(ひとひ)だに
0947 一日(ひとひ)も君を
1629 一日(ひとひ)一夜も
2234 一日(ひとひ)には千重しくしくに
2404 一日(ひとひ)の間も
2936 一夜一日(ひとひ)も
3604 一日(ひとひ)も妹を
3652 一日(ひとひ)もおちず
3736 一日(ひとひ)一夜も
3756 一日(ひとひ)もおちず
4113 鄙に一日(ひとひ)も

二日

1621 いま二日だみ
3318 いま二日だみ(参照テキストでは"許"の文字をバカリとするが他本ではダミが多い)
4011 いま二日だみ

三日

0993 ただ三日月の眉根掻き
0994 三日月見れば一目見し人の眉引き
2461 山の端を追ふ三日月の
2464 三日月のさやにも見えず

四日

なし

五日

0320 六月の十五日(モチ)に
3005 十五日 出之月乃 望(モチ)の日に出でにし月の

六日

なし

七日

1740 七日まで 家にも来ずて(浦島太郎の伝説を歌う。七日間も家に帰らず)
1748 我が行きは七日は過ぎじ
1917 七日し降らば七日来じとや
2032 一年に七日の夜のみ逢ふ人の(七夕伝説)
2089 七月の 七日の宵は 我れも悲しも(七夕伝説)
2435 七日越え来む(七日は多数日の意)
3318 久ならば いま七日ばかり 早くあらば いま二日ばかり
4011 近くあらば いま二日だみ 遠くあらば 七日のをちは

八日

なし

九日

なし

十日

0050 五十日太尓作 筏に作り(筏(イカダ)の"イカ"に対して"五十日"と書いたもの。"イ"が"五十"に対応する)
2947 吾者五十日手寸 我れは言ひてき("言ひ(イヒ)"に対して"五十日"と書いたもの。"イ"が"五十"に対応する))


かなり明確な傾向があります。

一日、二日…たった1日、2日という表現

三日…4例のすべてが三日月

五日…十五日として現れる2例のみ

七日…長い日数として"7日間も"というニュアンス、それと七夕伝説としての七月七日

十日…2例が共に"五十日"と書いて"イ"を表す。これは五十鈴川(いすずがは)というものと同じ。

なぜか四日、六日、八日はありません。

日記文学

歌の世界を離れると、日記文学(ただし仮名文学)では出てきそうな気がします。

蜻蛉日記では"四日"に対して、底本では"ようか"と仮名書きされている個所が2個所あり、いくつかの解釈が成されています。

以下を参考にしました。それぞれ"全注釈"、"岩波文庫"、"全集"と略記します。

柿本奬 蜻蛉日記全注釈 下巻 角川書店 昭和44年12月 第3版

今西祐一郎校注 蜻蛉日記 岩波文庫 岩波店 2006年4月 第2刷

松村誠一・木村正中・井牟田経久校注・訳 土佐日記・蜻蛉日記 日本古典文学全集 小学館 1978年

"よか"の誤写である、とするのが全注釈で、その中では、さらに、源氏物語の一本(保坂本)が"ようか"としているのも誤写である、と論じています。

全集では、"ようか"は"四日"であり、誤写ではない、としています。さらに「底本の『ようか』を『やうか』(八日)とする通説は誤り。『四日』を『ようか』と書いたもの。『ようか』がもとの形と考えられるので、『よか』と直す必要は無い。」と断じています。その個所は"四日"と書き、底本の仮名書き"ようか"をその振り仮名として書いています。

岩波文庫では同様にどちらも"四日"と書き、底本の仮名書き"ようか"をその振り仮名として書いています。解説文は特にありません。

この個所というのは、一つは「四日ばかりの物忌しきりつつなむ」という文章で、四日間の、という期間を表しています。

残りの一個所は次のような文章です。

閏二月のついたちの日…
三日、方あきぬと思ふを、音なし。
四日(ようか)もさて暮れぬるを、…
六七日、物忌ときく

"四日(ようか)"は明らかに二月四日という日付を表しています。

"精選"では四日の意味の"ようか"に付いて、上記の蜻蛉日記の最初の個所を文例の一つとしてあげています。また語誌欄では次のように書いています。

本来なら現代語でも「ようか」のはずだが、「やうか(八日)」から変化した「ようか」との混同を避けるために、「ようか」→「よか」→「よっか」と変化したか。

総合的に考えて、この"精選"の文章を採用し、四日は古くは"ようか"だったと判断します。

そのほか

"むゆか"ですが、これから現代語での"むいか"に変化した、というのも、音(おん)が似ていることから理解しやすいですね。

また"なぬか"、"ここぬか"は、"なのか"、"ここのか"より古い形、とすることも問題はなさそうです。

表1について

表1を眺めていて、何かへんだな、と感じました。

"え"の段の音(おん)が全く無いのです。"えけせてねへめYeれゑ"が出てきません。

むかし、日本語は四母音の言語で、母音の"え"がない、という事をよく目にします。

定説になっているように書かれています。

私が今ひとつ納得できないのは、手、目、毛、背などエ段の1音の言葉が多数あり、人の体の重要なパーツに対して名付けられていることです。

手とか目などはきわめて身近な言葉であり、言語ができた一番最初に使われたものだろうと思うのです。そうではないとすると、手とか目は最初はいったいどのような言葉だったんだろうか、という疑問にとらわれてしまうのです。

今回、ひとつ、ふたつ、などの言葉を並べていくと、「エ段の文字がまったく現れない」、という事は、やはり日本語ができた当初はアイウオの四母音であり、エという母音はもともと無かったのだろうか、とも思ったりします。

まだ納得が行くというものではありません。

ローマ字表記

動詞の時にやったようにローマ字で書いてみます。構造がわかりやすくなることを期待してのことです。

表2 数量詞のローマ字表記

個数 日付・日数 回数 人数
1 fito-tu tuitati/hitohi fito-tabi fito-ri
2 futa-tu futu-ka futa-tabi futa-ri
3 mi-tu mi-ka mi-tabi mi-tari
4 yo-tu you-ka yo-tabi yo-tari
5 itu-tu itu-ka itu-tabi itu-tari
6 mu-tu muyu-ka mu-tabi mu-tari
7 nana-tu nanu-ka nana-tabi nana-tari
8 ya-tu yau-ka ya-tabi ya-tari
9 kokono-tu kokonu-ka kokono-tabi kokono-tari
10 towo towo-ka to-tabi to-tari

数量詞の構造

表1と表2から、読み取れることは何でしょうか。改めて考えてみます。

数詞の部分

一つ、二つ、…に付いてみてみると、十以外は最後に"つ"がつきます。ということは"つ"は数に関する接尾語(助数詞)と見ることができるでしょう。

そうなると、接尾語を除くと、「ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここの」、が数を表している部分(数詞)になります。

数量詞=数詞+助数詞

規則性からの外れ

規則性から外れたことを思いつくままに挙げてみます。

(1) ひとつ、ふたつ、みつ、よつ、について、三人(みたり)、四人(よたり)、を考えると、一人はヒトタリ、二人はフタタリになるはず。

(2) 四日(ようか)、八日(やうか)…三日(みか)、五日(いつか)などを考えると、四日(よか)、八日(やか)になるはずで、"ウ"が挿入されるのは不可解。

母音連続を避けるのが日本語の基本で、わざわざ"ウ"を挿入するのはおかしい。

(3) 三つ(みつ)、六つ(むつ)、に対して、三日(みか)、六日(むゆか)では、ユがどこから来たのか、という不審がある。

(1)に付いてはある程度推測ができます。

ヒトタリ、フタタリのタ行音が連続するところが短縮して1音になった、ということではないでしょうか。

一人、二人は出現頻度が高く、より言いやすい音(おん)に変化しやすいと思います。

余談ですが、私が子どもの頃、大人の会話で、「○○さんがヨッタリで来た」(四人で来た)ということを聞いた事を思い出しました。「ヒトリ、フタリ」ですが、"ミタリ"というのを聞いた記憶はありません。

(2)、(3)については想像をたくましくして見ると、一つの考え方が出てきました。

数詞「ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここの」と上で書きました。

「ひと、ふた」は特別扱いとして(言葉として最初に出てくると予想され他と異なる可能性がある、出現頻度が高い、などの点で)、「み、よ、」と1音になり、その後は「いつ、む、なな、や、ここの」と続きます。「む、や」の1音(おん)がみじかすぎるという印象を受けるのです。

この部分を発音すると、「いつ、むー、なな、やー、ここの」と言う方がスムーズです。

そこで、さらに想像をたくましくすると(今まで何度か書いた、"妄想のレベル"ですね)、"む"は"むゆ"、"や"は"やWu"という考え方が出てきます。

母音連続を避ける、という原則を考えると、"ようか"(四日)も"よWuか"とも考えられます。

"むゆ"は3と6の倍数の対応から3の"み"に引きずられて"む"になり、かろうじて六日(むゆか)に"むゆ"の痕跡をとどめた。

"やWu"は4と8の倍数の対応から4の"よ"にひきずられて"や"になり、かろうじて八日(やうか)に"やWu"の痕跡をとどめた。

3(み)と6(む)、4(よ)と8(や)が対応しているとよく言われますが、このような経過でそうなったと考えることは無理ではないでしょう。もちろん根拠のない話です。

こう考えると、"う"が挿入されたのではなく、最初から四日(よう(Wu?)か)、八日(やう(Wu?か)で、ワ行とア行の融合で四日(よWuか)が"ようか"、八日(やWuか)が"やうか"になり、さらに八日(やうか)は音便で"ヨーカ"に変化する流れが起き、それに反応して四日(ようか)は"ヨカ"、さらには"ヨッカ"に変わっていった、という考えになります。

さらに進めて、古代では、"よWuつ"(四つ)、"むゆつ"(六つ)、"やWuつ"(八つ)であったか、という所までは、妄想であってもいえません。

再び規則性を追う

こうしてみると、二日、三日、…というところは、助数詞が"か"というよりはむしろ"uka"というようにも見えてきます。

数詞は子音終わりで、助数詞は母音始まりです。

このシリーズの記事で動詞の活用を扱った時に、動詞を不変化部分(語幹)と変化部分(活用部分)とに分け、不変化部分は子音終わり、変化部分は母音始まり、として統一して分析しました。

数量詞についても同じような扱い方ができるのかどうか、まだ分りませんが、その視点は残しておきたいと考えます。

もっとも、この特性は、現在のところは日付・日数だけのことです。

表3 数量詞のローマ字表記―変形

個数 日付・日数 回数 人数
1 fito-tu tuitati/hitohi fito-tabi fito-(ta)ri
2 futa-tu fut-uka futa-tabi futa-(ta)ri
3 mi-tu mi-ka mi-tabi mi-tari
4 yo-tu yow-uka yo-tabi yo-tari
5 itu-tu it-uka itu-tabi itu-tari
6 mu-tu muy-uka mu-tabi mu-tari
7 nana-tu nan-uka nana-tabi nana-tari
8 ya-tu yaw-uka ya-tabi ya-tari
9 kokono-tu kokon-uka kokono-tabi kokono-tari
10 towo towo-ka to-tabi to-tari

助数詞を"uka"と仮定すると、3 だけが例外です。

"ひとつ"と"ふたつ"について

fito、futaの二つが気になります。

これだけが他とは違っているという印象を受けます。

fito futa mi yo itu mu nana ya kokono towo

10は両手の指で数える最後の数ということで特別なのはおかしくはありません。

fito futa というのは、どちらも子音が"f,t"という続きです。そして、母音は"a,i,u,o"の4母音を使い果たしています。

1,2と3~10は別のグループの様な感じがするのです。

いつものように想像をたくましくして、次のように考えてみます。

ひとつ、ふたつ、たくさん、というたった3つの数え方のみの言語体系と、1から10までの数え方が揃った言語体系が融合した

これまた極端な飛躍です。

ひとつ、ふたつ、たくさん、というのは、ある部族での数え方がそうなっている、という事をずっと昔に耳にした記憶があるのです。

「ひとつ、ふたつ、たくさん」と「1, 2, 3, …10」という数え方が一つにまとまるとすると、「1, 2, 3, …10」に統一してしまうか、あるいは「ひとつ、ふたつ」は残し、3以上は「3, …10」を使う、という方法のどちらかでしょう。

「ひとつ、ふたつ、たくさん」の勢力の方が強い(人口が多い)のであれば、「ひとつ、ふたつ」+「3,4,…10」だろうと想像できます。

二つの言語体系が融合した、という考え方だけではなく、「ひとつ、ふたつ、たくさん」では間に合わなくなって、3 以上を追加した、という事も考えられます。

たとえば、採集生活、あるいは自家栽培の範囲では数える事はさほど重要ではないでしょう。

徐々に文明化されていき、物々交換が始まると、数えることが重要になります。

たとえば塩ひとつかみと柿の実を5個などを交換する、というようなイメージです。

柿の実を5個では足りない、7個だ、などと交渉する場面が出てくることでしょう。

後記

いつもながら、とりとめの無い文章になってしまいました。なお、念のためですが、日にち、日数に助数詞を"uka"と想定することは、"か"が助数詞であり、それが接続する時には直前の母音を"u"に変える、という、派生文法における考え方の一つの表れという可能性もあります。

追記 [2018.9.13]

「3(み)と6(む)、4(よ)と8(や)が対応しているとよく言われます」と上に書きました。これに関して、もう一つ気がつきました。

3(mi)、6(mu)、4(yo)、8(ya)の母音は、ちょうど"a,i,u,o"となり、基本4母音を振り分けたものになっています。

すでに書いたように、ひと(fito)、ふた(futa)で「母音は"a,i,u,o"の4母音を使い果たしています」ということと同じです。

まるで人工言語として作られたかのような印象です。


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