日本語のあれこれ日記【20】

原始日本語の手がかりを探る[11]―派生文法

[2017/8/3]


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派生文法とは

このシリーズの第6回の記事の末尾の【備考】のところで、派生文法について「調べるのが楽しみ」と書きました。

このたび派生文法を解説した本を読むことができました。

日本語文法新論 ―派生文法序説― 清瀬義三郎則府 おうふう 1993年10月

この1週間くらいの間、その本を読みながら私なりにいろいろと考えてきましたが、「なるほど、そうだ」という感覚には至りませんでした。今までに私が派生文法を理解したことをまとめておこうと思います。

なお、ネット上に簡潔な紹介記事があり、参考にさせていただきました。

派生文法の最大の特徴は、動詞などの用言は活用しない、とすることです。活用のように変化する部分は接尾辞という考え方を導入して"処理"します。

動詞の活用形に当たる部分を"語幹+接尾辞"とします。

"書く"、"見る"はそれぞれ"kak-u"、"mi-ru"とし、"kak"、"mi"を語幹、"-u"、"-ru"を接尾辞とします。

語幹をどの部分にするか、については私にはよく分かりませんでした。単に読み落としたのかもしれません。

"書く"であれば、"kaka(nai), kaki(masu), kaku, kaku(toki), kake(ba), kake"ですから、共通するのは"kak"である

同様に"見る"であれば、"mi(nai), mi(masu), miru, miru(toki), miyo"ですから、"mi"である

想像すると、このように決まるもののようです。

ですから、母音で終わるものがあり、また子音で終わるものがあります。母音幹動詞、子音幹動詞と呼びます。

私自身がこのシリーズで書いてきたのは、「動詞の語幹はすべて子音終わり」という考え方ですので、違いがあります。

連結子音と連結母音

活用形で終止形という形の場合、語幹とそれ以外をハイフンで切って書けば、"kak-u"、"mi-ru"です。ここで現れる語幹以外の部分、つまり"-u"、"-ru"を接尾辞と呼びます。

派生文法ではこの"-u"、"-ru"を一つのものが別の形で現れたものと見ます。つまり"r"が付いたり付かなかったりするわけです。そして、"r"が付くか付かないかはきちんとした規則がある、とします。

動詞の語幹が子音終わりの時は子音が二つ続くわけにはいかないので、"r"は付かない、母音終わりの時は母音が二つ続くのは発音しにくい、という理由で"r"が入る、というように使い分けます。

ですから、"-u"、"-ru"は本質的に一つのもので、"-(r)u"と書きます。

否定の表現を考えるとき、活用の立場では打消の助動詞"ない"が動詞の未然形に接続する、と考えます。

派生文法では、"kak-anai"、"mi-nai"ということから、否定の接尾辞は"-anai"、"-nai"て゜、これは"-(a)nai"と表現します。

このように、"r"がついたり、付かなかったりする、あるいは"a"がついたり、付かなかったりする、ということで、それを連結子音、連結母音と言います。

このような分析・理論化を、願望の"○○たい"、条件の"○○ば"、過去の"○○た"などのいろいろな接尾辞について進めて、すべて規則的に接尾辞が接続することを示しています。

実は、ここまでは「なるほど」と感じていました。

文語の場合

同書では主に現代語を扱っていて、後の方で文語についての分析が出てきます。

私は、言葉というものは時代とともに変化するのですが、それは複雑化する方向だ、と考えます。

それまでにない、微妙な状態、新しい感情を表現する必要が出てきて言語表現が追加され、一方、従来の言語表現はいつまでも、という訳ではありませんが、比較的長い期間継続して使われるために、言語のいろいろなバリエーションはどんどん増える方向になる、と考えるのです。

従って、古語は現代語より単純な規則ですむのではないか、と予想しているのです。

古語では、動詞についていえば、一番やっかいなものは、今までこのシリーズでもいろいろと書いてきましたが、終止・連体・已然形に頻繁に現れる"ラ行音"です。

「"r"音の侵入」など表現してきたことです。

これを派生文法ではどう処理するのか。

終止形

派生文法ではこうなります、と結論を書きます。

終止形に対応する接尾辞は"φ(r)u"です。

その説明はこうなります。

"書く"、"見る"の場合、"kak-u"、"mi-ru"ですから、"-(r)u"が想定されます。一方、現代語の"生きる"、"上げる"は文語では"生く"、"上ぐ"ですが、その語幹は"iki"、"age"として、その終止形は"ik-u"、"ag-u"ですから、語幹の末尾の"i"や"e"が消えて、"u"が付くことになります。

同書では母音については、"ï"、"ë"などを使って厳密に分析していますが、ここでは簡略化して書いています。

この消す処置が"φ"で、これは母音幹に付く時には直前の母音を消滅させる働きをする(上記の本では「ゼロ形態に交替せしめ」る、と表現しています)もので、交替母音と呼んでいます。子音幹に付く時には何の作用もしません。

左肩の文字"φ"があり、"(r)"が有るので、変化が二段になっています。

語幹とは

なお、"生く"、"上ぐ"の語幹は"iki"、"age"としているのですが、私にはこれがよく分かりません。同様に"来(く)"、"為(す)"という一音の動詞の語幹は"ko"、"se"なのです(同書p.155)。

語幹をどのように選択するか、については、同書pp.143-145 に記載があります。(ほかのところにもあるかどうかは未確認です。)要点を抜き出して見ます。

古代語動詞の非完了終止形には、「聞く」「見る」「生く」「上ぐ」に代表せられる諸種に加えて「来」と「為」とがあった。それぞれに形態素的分析を施せば、kik-u,mi-ru,ik-u,ag-u,k-u,s-u の各形が得られる。これらの中、子音幹動詞の「聞く」と語幹末に -i を持つ母音幹動詞の「見る」のみは現代語と同形の kik-u と mi-ru であるが、その他の動詞は、現代語に反映せる語形から推してすべて母音幹動詞と知れるに拘らず、あたかも子音幹動詞におけると同じく接尾辞 -u を伴いつつ語幹末の母音を明示しない。つまり、非完了態の終止形からは、語幹末母音を知り得ないのである。

"聞く"、"見る"、"生く"、"上ぐ"は活用の種類でいうと、五段、上一段、上二段、下二段活用です。「現代語に反映せる語形から推してすべて母音幹動詞と知れる」ということから、現代語では、"生きる"、"上げる"の語幹が"iki"、"age"であることを考慮しているようです。

でも、古語が現代語に変化したのですから、古語として語幹を切り出すべきではないのでしょうか。古語から現代語に変化した時、語幹が変わらない、という保証はないと思うのです。

「母音語幹がそのままの形で命令形として機能している」(同書p.144)という説明があります。

命令形と語幹との関係は初めて考えさせられました。関西の人の「よくみー」とか「はよせー」などという表現を聞いたことがあります。また茨城県では「こっちにこー」と言っていた憶えがあります。

語幹をどのように考えるか、については、同書p.141-142に、各説の要点がまとめられていますが、語幹の末尾は「母音のみ」、「母音、子音混在」などの考え方があるようです。

私のこのシリーズの記事では、動詞の語幹は子音で終わる、という扱い方をしています。その方が動詞の活用形における共通性、非共通性の様子が明確になると考えるからです。

連体形

連体形ではどうかというと、その接尾辞は"u(r)u"です。

"u"の働きは、「i以外の語幹末母音と交替する」、とされます。

"生く"、"上ぐ"は連体形では"生くる"、"上ぐる"で、"ik-uru"、"ag-uru"ですから、そうなるという訳です、

ここでも、"u"があり、"(r)"が有るので、変化が二段になっています。

"書く、見る、生くる、上ぐる"、ですから、"u"、"ru"、"uru"の三つの変化形を統一的に処理するには、このような複雑なメカニズムを持ち込まなければならなかったという訳です。

どうしてこんな風に複雑なことになるのか。

同書ではこの複雑さについてこう述べています。

「何故に非完了終止形の接尾辞 -(r)u は交替母音にφを取り、同じく連体形の-(r)uは交替母音にuを取ったのか、その理由は判然、としない。」

私は、日本語の歴史を過去にさかのぼるほどその言語形式は規則正しくなる、つまり規則が単純になる、と期待しているのですが、そうはなりませんでした。

単純な規則に乗らない事象を説明するために、「この条件の時はこう、この条件の時はこう」と複雑な条件を待ちだして「この通り、説明ができました」、としている、という印象は否めません。

もっとも、言語文法の規則というものは単純ではないから、どのような説明、あるいは理論付けをするにしても単純なものにはならない、ということが真実なのかもしれません。

そもそも(r)uとは

現代語でも古語でも"-(r)u"というものが出てきます。

考えてみると、"-(r)u"、つまり"う"だったりと"る"だったりする、ということですが、"う"と"る"は大夫違うものではないでしょうか。"r"が付くか付かないかは「時と場合による」というのは私には引っかかって仕方がありません。

それと、交替母音を認めると、語幹であっても"変化しうる"ことになります。これも受け入れがたい。

でも、「接尾辞が付くのであって、動詞そのもの(語幹)は変わらない(活用しない)」、という派生文法の考え方はとても魅力的です。

ここまでうまく説明できているので、真実の一つである、と感じます。

真実とは

動詞の末尾が変化してほかの言葉とつながるとき、それは動詞が活用すると見るのか、接尾辞の働きとするのか、どちらが正しいのか。

どちらかが正しくて他は正しくない、のか、というとき、どちらも正しい、という考え方の可能性を切り捨ててはいけないと思います。(真実は一般には一つではありません。)

物理学の世界で、光は粒子か波動か、という問題がかつて議論されました。

粒子説を採る人々は、「光が粒子であればこれこれの現象が観測され、それは波動説では説明できない」、として実験して証明し、かたや波動説の人々は、「光が波動であればこれこれの現象が観測され、それは粒子説では説明できない」、として、実験して証明しました。

後になって、光は粒子のような振る舞いもするし、波動のような振る舞いもする二重性がある、という見解に落ち着きました。

活用か、接尾辞か、の両方を包含する考え方があるのでは無いだろうか、と、私は何の根拠もなく考えています。


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