気まぐれ日記


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[2011/11/18] 徒然草


徒然草はところどころに、心にしみる箇所がある。それらは読むたびに違うことがおおい。

考え方がとても合理的で、古さをちっとも感じない、という点で印象的なものを二つ。

引用文と解釈は、以下による。

改訂 徒然草 今泉忠義訳注 角川ソフィア文庫 角川書店


(1) 第122段

(最初から考えさせられるところが多い内容だが省略して、末尾のところ)

金(こがね)はすぐれたれども、鉄(くろがね)の益(やく)多きに如(し)かざるがごとし。

概要:黄金は優れているといっても、鉄が役に立つことの多いことにはかなわないのと同じである


「黄金」と「鉄」を比較する、という発想に驚く。もしかすると、黄金を万能のように考える人に会って、それでこのようなことを書いたのかもしれない。

鉄が役に立つことは誰でも感じていることだろうが、黄金は優れているといっても、鉄のように(人間の生活において)役に立つものではないので、"鉄は黄金より優れている"、と発想するだろうか。

非常に冷静で、合理的な精神を垣間見る思いである。

倭名類聚抄を見ると、「金類第152」として、金、銀、銅、鉄、鉛、錫、水銀などがが挙げられている。

このくらいの金属は古くから知られているようだ。鉄は、別の字で、金偏に蝦夷(えみし)の夷の字である。

この前の部分は省略したが、おおむね、以下のようなことである。

人間にとって身につけておくべきことは、文・武・医である。次に大事なのは食であり、調理ができること、そして細工ができること、これは必要になることが多い。これ以外はどうかと言うと、多能はよくない。詩歌管弦に優れているというのは、今の世では世の中を治めるのに役に立たない。

この文章の後に、黄金よりも鉄の方が優れているのと同じである、という冒頭の文章が出てくる。

黄金(詩歌管弦)は実用の面では重要ではなく、文・武・医・食という実用的なことが重要である、ということになる。

全体的に、非常に冷静で合理的な考え方、という印象を持つ。


調理の話が出てくるのは奇妙だ。原文はこうだ。

食は人の天なり。よく味(あじはい)を調へ知れる人、大きなる徳とすべし。

よい味の料理を作ることが大事である、と読めるのだが、この時代に、男が調理にどれだけかかわるのだろうか。

どのような男にとって、調理の腕が大事なのか、というイメージが浮かばない。吉田兼好が自ら料理することはないと思うのだが。

一方、方丈記では、移動式の小屋のようなところに寝泊まりしていたのだが、この場合は食事はどうしたのだろうか。料理担当のものが側についていたとも思えない。機会があったら調べようと思う。


(2) 第222段

浄土宗の高僧である竹谷乗願房(たけだにのじょうぐわんばう)が

亡者の追膳には何事か勝利(しょうり)おほき

と聞かれたとき、真言宗の言葉を答えて帰ってきたので、弟子達に、(浄土宗なのだから)「念仏に勝るものはない」、となぜおっしゃらなかったのですか、と問い詰められたときである。


言うことには根拠が必要である、という精神がみなぎっている。

「私は信じます」、とか、「間違いありません」、などと言うのは意味がないのだ。

実は、「死者について念仏を唱えることは意味がない、念仏とは自分について唱えるのである」、というのが浄土宗の根本的な教えであることを私は了解しているので、特に気になるのである。

この時代において、死者に対して念仏を唱える、ということがすでに普通の考えになっているのだろうか。

死者に対して(あるいは、死者に代わって)念仏してやる、というのは、浄土宗においては意味がないことで、弟子たちはその教えに反しているのではないか。

ただし、竹谷乗願房の答えの冒頭はこうなっている。

我が宗なればさこそ申さまほしかりつれども

自分の宗門であるからそのように申し上げたかった、のである。

しかしながらその一方で、そのように説いた経文を見ていない、とも言っている。

自分が信じる経文に書いていないのだから、死者のために南無阿弥陀仏と唱えることは意味がない、ということのはずである。しかし、一方で、死者のために南無阿弥陀仏と唱えることを勧めたかったのである。

現代では、念仏は自分のためにするのではなく、死者のためにするというのが普通の考えではないだろうか。「私が極楽に行けますように」と唱える人はあまりいないだろう。

現代の浄土宗の僧侶はどのように考えているのだろうか、ということは一度きいてみたいのだが、機会がない。


自分が語ることには明確な根拠がなければならない、という考え方は、この時代の人間にとってめずらしいのではないだろうか。


そもそも、日本の浄土宗の開祖である法然の考え方自体が合理的だと思う。

たとえば、死後、浄土に行けるかどうかは、「やはり善行を積むことはよいことでしょうね」、と聞かれ、それは「意味がない」ばかりか、「妨げになる」、とまで言う。

なぜか。

経典には、南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に行ける、とだけ書いてあり、善行を施すことについては何も書かれていないから効果がない、さらに、善行を積もうと努力すれば、それだけ南無阿弥陀仏と唱えることがおろそかになるから、かえって妨げになる、というのである。

経典がどこまでもすべてを決めるのである。

この論理的な明快さはどうだろうか。

ただし、このような論理的な態度は、限界がある。なぜ、なぜ、と繰り返していくと、答えられなくなるのである。

法然の場合、「では、その経典に書いてある内容は正しいのか」という点になると、根拠を言うことができない。

法然は、「自分には、それ以外には成仏できる方法がない」、「中国の高僧が言っているので正しいと思う」、と腰くだけである。

私は以前に、"宗教者の信念の根拠は何なんだろうか"、と考えて、何か手掛かりとなることが書いてないだろうか、と調べたことがある。
と言っても、簡単に読める本をあたっただけであるが。その時に見つかったのは、この法然の言葉だけだった。

だが、このように真情をストレートに表現した人は他にはいないのではないだろうか。

このあたりの考えは、以下の諸本を参考にしています。

浄土三部経 (上)(下) 中村元・早島鏡正・紀野一義訳注 岩波文庫 岩波書店

選択本願念仏集 法然の教え 阿満利麿訳・解説 角川ソフィア文庫 角川学芸出版

法然の衝撃 阿満利麿著 ちくま学芸文庫 筑摩書房

ジュール・ベルヌの「地底旅行」を思い出した。

テレビでこの映画が放送されたので見たのだが、その終わりで、地底の世界から命からがら脱出して生還した教授に対して、新聞記者が「経験したことを本にしてはどうか」と聞いた時、教授は、それは無理だ、と言う。

その理由を、「経験したことを記録した手帳を生還する途中でなくしてしまった。私は科学者だがら、記憶だけで文章を書くことはできない」と説明する。

具体的な根拠を示さずに自分の宗派に有利なことを言う、とか、想像できないような体験をしたのだから記憶をもとに文章を作れば評判になるだろう、というようなことは考えないのである。

自分を律する、というのはこういうことを言うのだろう。



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