2013年7月の写真展 茨城県内重要文化財指定の寺院建築


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2013年7月に、私にとって3回目の写真展を開きました。

テーマ:「茨城県内重要文化財指定の寺院建築」
   佐竹寺(本堂)から西蓮寺(仁王門・相輪橖)まで9寺10棟を30点の作品で展示します。
会場:リコッティ 1F ギャラリー
   (茨城県東海村 JR東海駅東口 イオン東海店向い)
期間:2013年7月17日(水)~23日(火) 10:00~18:00(ただし初日は13:00から、最終日は15:00まで)

ここには、写真展に展示した内容をアップしました。

なお、写真の並びですが、写真展会場ではその構造の特殊性に合せて本来の順序を変えました。
ウェブではその特殊性がありませんので、本来の順序に戻しました。これに伴い、番号などを変更してあります。
それ以外は基本的に展示内容そのままです。

なお、本サイトの「最近の写真」に含まれる作品と重複が多いことをあらかじめご承知置きください。


【会場展示・配布資料(別ウィンドウで開きます)】
  ご挨拶    対象文化財の地図と一覧表(A3サイズ)    撮影後記


佐竹寺本堂 薬王院本堂 佛性寺八角堂 龍禅寺三仏堂 小山寺三重塔
佐竹寺本堂 薬王院本堂 佛性寺八角堂 龍禅寺三仏堂 小山寺三重塔
来迎院多宝塔 楞厳寺(りょうごんじ)山門 善光寺楼門 西蓮寺仁王門 西蓮寺相輪橖(そうりんとう)
来迎院多宝塔 楞厳寺(りょうごんじ)山門 善光寺楼門 西蓮寺仁王門 西蓮寺相輪橖(そうりんとう)
参考:白水阿弥陀堂(福島県) 参考:浄法寺相輪橖(群馬県)
参考:白水阿弥陀堂(福島県) 参考:浄法寺相輪橖(群馬県)

佐竹寺本堂

1 佐竹寺本堂(1) 全景

佐竹寺本堂 1 全景

"The お寺"という印象を受ける落ち着いたたたずまい。お堂の前に立つと、いかにもお寺に来た、特別な場所に来た、と実感します。大正5~6年に大修理がおこなわれて、それから96年が経過しています。次回の大修理のときには裳階(もこし)を取り除くような大改造になるかもしれません。


2 佐竹寺本堂(2) 正面の空間

佐竹寺本堂 2 正面の空間

丸窓のある一間は外側も丸柱なので、そこまでが方五間の本堂です。正面一間は開いた空間で、正面の壁が一間分後退しているのでしょうか。太い蝦虹梁(えびこうりょう)が目立ちます。


3 佐竹寺本堂(3) 東側裳階下

佐竹寺本堂 3 東側裳階下

この裳階(もこし)の下の空間はどのように使われたのでしょうか。裳階の最大の目的は母屋を雨から守ること、といわれることがありますが、それだけではなさそうです。私は僧侶たちがここを通って行く姿を自然に思い浮かべました。


薬王院本堂

4 薬王院本堂(1) 全景

4 薬王院本堂 1 全景

大きなお堂です。桁行き七間梁間五間。つまり間口が7間、柱の数なら8本ということになります。彩色が施されていないことも、その堂々とした風貌によく合っているのではないでしょうか。大永7年(1527年)に火災のため全焼。領主江戸通泰(みちやす)は翌日には「ご造営においては通泰に御まかせあるべく候」と自筆で書き送り、11日後には「御堂の事、堅(たて)七間にあい定めらるべく候」(吉田薬王院文書)と祐筆を介して書き送っています。熱心なのか執着なのか。


5 薬王院本堂(2) 正面

5 薬王院本堂 2 正面

左右が大きいので、一目で正面全体の様子を見るには頭を振る必要があります。離れれば全体が見えますが、細部はわかりません。このように斜めから見るしかありません。


6 薬王院本堂(3) けらば

6 薬王院本堂 3 けらば

入母屋造りの上部の妻の部分が大きな曲線を描いています。この部分がけらばです。けらばとは何ということはない、昆虫の「けら」の「羽」だそうです。屋根が深いのでその下が大きな暗闇となります。そのために屋根の上のけらばが一層目立ちます。


佛性寺本堂

7 佛性寺本堂(1) 礎石列

7 佛性寺本堂(1) 礎石列

数少ない八角堂です。東日本大震災による被害が大きく、解体修理となりました。完了予定は2014年3月とのこと。現在は解体されて建物がありません。今回の写真展でどうするか迷いましたが、重要文化財の建築物をカバーすることが目的であること、建物の下の礎石の様子はまず見る機会がないだろう、などの点から礎石の写真のみ展示することになりました。修理が完了したときにはどうにかしてみたいと思います。


竜禅寺三仏堂

8 竜禅寺三仏堂(1) 全景

8 竜禅寺三仏堂(1) 全景

桁行三間梁間四間のお堂で、本堂とは別に三体の仏を安置しています。両側面と背面に裳階がつきます。が、内部構造としてはつながった空間のように見えます。収容すべき人数が増えたために拡張した、という印象です。昭和60~61年の修理で外観が一変し、創建当時の姿に近づきました。個人的には修理後の今の姿の方が好きですね。


9 竜禅寺三仏堂(2) 背面

9 竜禅寺三仏堂(2) 背面

中央の階段は僧侶が使うのでしょう。左右二つの階段はどう見ても裳階(もこし)への出入り口です。正面からは参拝する貴人(領主など)が出入りし、家来たちは裏手の二つの階段を使ったのでしょうか。


10 竜禅寺三仏堂(3) 須弥壇裏

10 竜禅寺三仏堂(3) 須弥壇裏

丸柱までが母屋で、その先は裳階となります。ここでは裳階は屋根、床ともに母屋と一体となっています。また2本の丸柱の間隔が狭いのは、右端の来迎柱(須弥壇の背後の左右の柱)が半間だけ後退しているためです。撮影の日には偶然にも団体の見学客と同時間になり、お寺の方から室内撮影の許可をいただきました。ただし公開は三仏が写っていない範囲で、とのことなので、この写真を展示しています。


小山寺三重塔

11 小山寺三重塔(1) 全景

11 小山寺三重塔(1) 全景

近くにこのような立派な三重塔があることをいままで知りませんでした。富谷観音として有名です。このような構造物はどうやって建てたのでしょうか。三重塔専門の大工集団があった?建てるのは難しく、建てる機会はそう沢山はないはず。体験できる機会が1回や2回では熟練することは難しい。。優秀な棟梁が一人いれば後は普通の大工でよい、というわけにはいかないような気がします。


12 小山寺三重塔(2) 第一層

12 小山寺三重塔(2) 第一層

第一層です。中央に蟇股(かえるまた)、その左右は蓑束です。全くすきがない緊密な構造。室町時代において、どのようにして設計・建築したのでしょうか。右端に鐘楼が見えます。


13 小山寺三重塔(3) 第二層の軒天

13 小山寺三重塔(3) 第二層の軒天

ピアノの鍵盤のような垂木。修理の時に、使えるものはできるだけ残し、そうでないものは新品に交換する。その結果、このような色どりになったのでしょう。


来迎院多宝塔

14 来迎院多宝塔(1) 全景

14 来迎院多宝塔(1) 全景

多宝塔という形式があることは、今回初めて知りました。四角な構造物の上に丸い構造物を載せ、屋根はまた四角にする、という何とも複雑な形式です。一層目と二層目は亀腹という柔軟な構造物を介して接続しますのでここはあまり問題ではないでしょう。丸いニ層目の上に四角錐の屋根を接続するのは厄介です。だからでしょうか。ほとんどの多宝塔はデザインがとてもよく似ています。基本形を逸脱しない範囲でつくられたように感じます。


15 来迎院多宝塔(2) 上層

15 来迎院多宝塔(2) 上層

円筒部分とその上の屋根が接続する部分です。だいぶ苦労している様子がうかがえます。設計のアイデアをどのようにまとめるのか。やはり紙に書くのでしょうが、現物合わせで微調節するのでしょうね。


16 来迎院多宝塔(3) 相輪

16 来迎院多宝塔(3) 相輪

多宝塔の相輪はほとんどが同じ構造です。たとえば、上部から屋根の四隅に鎖をかけ、途中に風鐸(ふうたく)を下げます。風鈴でしょうが、高いところにあるので音を聞くのは難しそうです。色から判断すると全体的に鉄製ですね。侍の時代には丈夫さ、という点で鉄が好まれたそうです。


楞厳寺(りょうごんじ)山門

17 楞厳寺山門(1) 全景

17 楞厳寺山門(1) 全景

門だけがぽつんと田んぼの中にあります。本堂が全く見えません。実に心細そうに見えます。ただ、細部までよく見るとしっかりと作ってあるのがしろうと目にも分ります。そうなると本堂から離れている事がますます不思議です。本堂へは細い道で、歩くと大分時間がかかりそうで、カメラを載せた三脚が風で吹き倒されそうな強風が吹いていたため、本堂は見ずじまい。


18 楞厳寺山門(2) 横からの眺め

18 楞厳寺山門(2) 横からの眺め

お寺の門を真横から眺めることができるのは少ないような気がします。門は本来、迎えるべき人を招き入れ、そうでない人を拒絶するもので、人の動きは参道の方向になります。門は横方向に対してどのような働きがあるのでしょうか。


善光寺楼門

19 善光寺楼門(1) 全景

19 善光寺楼門(1) 全景

こちらも門だけが孤立していて寂しそう。ただし楞厳寺とは違ってこちらには参道がまっすぐ続いていて、その奥に本堂がありそうでした。門を撮影してから参道を進み本堂を目にしてびっくり仰天。廃墟でした。屋根の一部が崩れ落ち、あちこちが無残な姿になっていました。建物から離れて撮影してから引き返して今度は裏手から門を見るとさっき以上にさびしそうな雰囲気でした。


20 善光寺楼門(2) 裏からの眺め

20 善光寺楼門(2) 裏からの眺め

本堂の荒廃ぶりを見た後で門に戻ると、さびしさがいっそう募ります。古い寺院建築はほとんど垂直・水平がしっくりきません。この門は特にその傾向が強く、傾きの修正をパソコンでいろいろやってみたのですが、いまひとつ納得できませんでした。


西蓮寺仁王門

21 西蓮寺仁王門(1) 全景

21 西蓮寺仁王門(1) 全景

典型的な仁王門です。いかにも境内の入り口で参拝客を迎える、という風情。門の前が広々としているのはここに市(いち)が立つのでしょうか。仁王門とはどういうものかを説明するには、この姿を説明すれば事足ります。


22 西蓮寺仁王門(2) 裏面の意匠

22 西蓮寺仁王門(2) 裏面の意匠

室町時代の蟇股(かえるまた)としてはよく見る形。両側の蓑束も典型的。バランスの崩れたところがない典型的な仁王門。


23 西蓮寺仁王門(3) 修理跡

23 西蓮寺仁王門(3) 修理跡

柱の痛んだ所を五角形にくりぬいて新しい材をうめこみ、さらに横柱を貫通させるために角を切り欠き、とても不規則な形状の埋め木となっています。その上には八角形の修理跡も見えます。このように、修理の範囲を最小限にとどめ、できるだけ古材を残しながら修理がなされます。ここまでやる、と言うことがわかりました。


西蓮寺相輪橖(そうりんとう)

24 西蓮寺相輪橖(1) 全景

24 西蓮寺相輪橖(1)  全景

撮影に行く前にネットなどで下調べしてから行くのですが、相輪橖というのはイメージがつかめませんでした。撮り始めるとびっくり。大量の文字が刻まれています。駐車場にズームレンズをとりにいき撮影を続けましたが、ピントが甘い。再撮影するもまただめ。カメラ・レンズを変えて再々撮影。少しは満足できました。撮影方法については撮影後記に書いてあります。


25 西蓮寺相輪橖(2) 橖身の文字1

25 西蓮寺相輪橖(2)  橖身の文字1

一体何なのででしょうか、この人名は。

夜中にひとりでこの写真を見ていると、ここに名前を刻まれた人々がひとりひとり声をあげて迫ってくるような幻想にとらわれることがあります。

何かわかりませんが、熱気あふれるエネルギーを感じるのです。


26 西蓮寺相輪橖(3) 橖身の文字2

26 西蓮寺相輪橖(3)  橖身の文字2

No.25の右側です。上から1/4の中央より少し左よりの所に、6人分の名前の字体が大きく乱れています。書かれた文字を推測すると、吉右衛門、七兵衛、???、おけさ、 ?右衛門(*)、 おかめ。 (*)の門という文字は他の所ではくずし字になっている(例外はないといっていいくらい)のにここでは楷書で、しかも上部の左右の四角の中の横棒が2本。どうしたのでしょうか。彫り手が眠くて我慢できなくなったか、もしかして酒に酔っていたのか。もう限界だ、ということで中断して翌日続けたのか、別の彫り手と交代したのか。想像が膨らみます。


27 西蓮寺相輪橖(4) 橖身の文字3

27 西蓮寺相輪橖(4) 橖身の文字3

この付近には女性名が比較的多いようです。おせん、おつる、おまつ、おふく、・・・・。江戸時代のような女性の地位が低くなかった時代に彫られたのでしょうか、男性名、女性名がばらばらに出てきます。


28 西蓮寺相輪橖(5) 相輪橖の歴史の記録

28 西蓮寺相輪橖(5) 相輪橖の歴史の記録

元寇の戦勝記念にこの塔を作ったとき以来の歴史を記述した文章が刻まれています。またこれと同様の内容が文書としても伝わっています。ただし、内容に疑念がないわけではありません。この相輪橖が最初に造られたのは一体いつなのか。


29 西蓮寺相輪橖(6) 頭部

29 西蓮寺相輪橖(6) 頭部

大きな環の内部とその上の宝珠をあわせて五輪塔を模した、と考えられています。また大きな環と小さな複数の輪という構成は錫杖(しゃくじょう)のイメージでもあります。相輪橖の建設を発議した伝教太子最澄が上野国、下野国までは足を運んだのに常陸国は来なかったことについて、来てほしかった、という気持ちが込められているのでしょうか。


30 西蓮寺相輪橖(7) 枯葉が

30 西蓮寺相輪橖(7) 枯葉が

いちょうの葉が風に飛ばされて金属のすきまにはさまった。時間がたつとともに葉は枯れて曲がり堅くなって、ますますがっちりとはさまった状態になり、少しくらいの強風では飛ばされなくなった。単なる想像ですが。


参考1 白水阿弥陀堂 (福島県いわき市)

31 参考1 白水阿弥陀堂 (福島県いわき市)

31 参考1 白水阿弥陀堂 (福島県いわき市)

今回の「茨城県内の重要文化財の寺院建築」というテーマを思いつくきっかけになったところです。平安時代末期の建築で国宝です。修飾が少なく、簡素な作りです。たとえば斗栱と斗栱の間にもうけられる中備えはまっすぐな間斗束で、これは他の写真では見られません。これを造営した徳姫(平泉藤原清衡のむすめ)と佐竹氏との関係も興味がわきます。


参考2 浄法寺相輪橖 (群馬県藤岡市)

32 参考2 浄法寺相輪橖 (群馬県藤岡市)

32 参考2 浄法寺相輪橖 (群馬県藤岡市)

西蓮寺相輪橖のおびただしい数の人名を彫りこんだものに最も近いものがこちらです。字体や文字の並びは西蓮寺相輪橖より乱れが少なく安定しています。ただし刻まれた人名がはるかに少ない。これを見ると西蓮寺相輪橖に彫られた文字の一種の異様さが際立ちます。だから私は余計に西蓮寺相輪橖に強くひかれるのです。



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