[2024/11/5]
もとのきじ [2019/7/10]
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なつめ-そうせき-ぜんしゅう
ずっといぜんに しんしょ・ばんの そうせき-ぜんしゅう ぜんかんを かっていました。
「なつめ-そうせき-ぜんしゅう」というのは ただしくは「そうせき-ぜんしゅう」です。
かったのは いつだったかしら、とおもって かくにんしてみました。むかしは ほんの とびらの すみに えんぴつ-がきで こうにゅう・び と しょてん・めいを かきこんでいたのです、
だい-1、2-かんは 「わがはいは ねこ である じょう-げ」で ひづけは 2さつともに 1978-ねん 12-がつ 9-か、こうぶんどう-しょてん と かきこまれています。
だい-3-かんは「ぼっちゃん ほか7-へん」で ひづけは よくねんの 2-がつ 5-か。そういえば まいつき はっこうされて そのつど かっていた きおくが あります。「わがはいは ねこ である」は じょうげ 2-さつなので、おなじ ひ に はっこうされていたのか、それとも わたしが 2-さつ まとめて かっただけのことなのか、これは よくわかりません。
もう 40-ねん-いじょうも むかしですね。だいがくを そつぎょうして しゅうしょくしたのが 1973-ねん、その5-ねん・ごです。いまは ていねん-たいしょくして 9-ねんが すぎました。
こうぶんどう-しょてん ですね。なつかしい。いちじは LPレコードなども おいてありました。こくど-ちり-いんの 5まんぶんの1の ちずが そろっていて、よく かいました。えきまえにあり、がくせいの きゃくが おおかったためか 'ひん'のない ほんは すくなく、きちんと ポリシーをもって しょうばいしていた、よいしょてんでした。
このそうせき-ぜんしゅうは こうにゅう-ご 40-ねんも ほったらかしだったんですね。
ひさしぶりに ほんを ひらいた きっかけは、この サイトの きじで、"いんしょう・てき な(ことばの)フレーズ トップ10"をかいたときに、"わがはいは ねこ である"のなかに"Archaiomelesidonophrunicherata"ということばが でてくる、というきじを かいたときに かくにんのために ひらいた、というのと、なんとなく「ゆめ-じゅう・や」を よみだしたことが、わたしのゆめ じゅう・やという きじをかく きっかけになった、という ふたつの できごとです。
「ゆめ じゅう・や」のほうは、これをよんで じぶんの ゆめについても かいてみようと おもいたち、かきあげて アップロードしたのが 2019/4/6ですから、じっさいに よんだのは ことしの 3-がつ げじゅんごろでしょう。
"いんしょう・てき な(ことばの)フレーズ トップ10"の きじの アップロードが おなじ 2019/4/6 ですから、じき-てきに みると、とつぜん「そうせき-ぜんしゅう」なるものが いえにあることを おもいだし、たんぺんの さくひんなら よみやすいだろう と かんがえ、ゆめ じゅう・や を よみだしたのが さいしょだと おもいます。
しょかん・しゅう
「ゆめ じゅう・や」は よんだのですが、このかんの ほかの さくひんは よみたい という きもちが さほど わきませんでした。
そののちに、また このサイトの きじですが、うえで いんようした "いんしょう・てきな(ことばの)フレーズ トップ10"で ふれた たかむら-こうたろうの し・しゅう「どうてい(道程)」について ぞくへんの きじを 3-かいに わけて かいたのですが、そのときに いろいろ しりょうを あさったときに、しょかんについても いくつか よんだことがあり、しょかん というものは かいたひとの ほんとうの きもちが でていて なかなか おもしろい、ということに きづきました。
というのが、ずいぶんと とおまわりしましたが、そうせきの しょかん・しゅうを よみだした きっかけです。そして、こんども とても おもしろいと かんじたのです。
さて、しんしょ・ばんの ぜんしゅうでは しょかん・しゅう1~5(だい-27~31かん)と ほい(補遺) (だい-35かん)の ごうけい 6さつに しょかんが おさめられています。ほい では その はんぶん・きょうの ページが しょかんです。
ほい に ひかく・てき たすうの しょかんが おさめられている、ということは、このぜんしゅうの かんこう・ご にも しょかんが あちこちで ぞくぞくと みつかったのでしょう。いがいな ひとが そうせきから しょかんを うけとっているのでしょうね。
それでは ぐたい-てき に いくつか みていきます。
いか、いんようは かなづかいは もとのまま、かんじは、かな-ひょうきで わかりにくい ぶぶんのみ、カッコで くくって そうにゅうしました(*1)。また そうせき じしんが かいた ぶんしょうは 'ふとじ'に してあります。かく-ぶんしょうの せんとうの ばんごうは そのかんにおける つうさんNOで、つづいて カッコ・ないに ひづけのじょうほう、つぎのぎょうは しょかんの あてさき-にんを かいています。ふりがなの ぶぶんは、てきぎ、しょうりゃく-ひょうじしました(*2)。
(*1):かんじ-かな-まじりの もとのきじでは「漢字の字体は旧字体は新字体に統一しました」とあるのを、「かんじは、かなひょうきで わかりにくい ぶぶんのみ、カッコで くくって そうにゅうしました」と かきかえました。
(*2):かんじ-かな-まじりの もとのきじでは、「振り仮名はカッコに括って表示しました」とあるのを、「ふりがなのぶぶんは、てきぎ、しょうりゃく-ひょうじしました」と かきかえました。
こうせい(校正)に かんする しじ
そうせきの さくひんの こうせいについて、しゅつぱん-しゃからの といあわせに こたえたものと おもわれるものが いくつか あります。
ぶんしょうに かんする そうせきの かんがえ・かたの いったんが わかります。
1912(めいじ-45)-ねん 7-がつ 28-にち
はやしばら-(とうじ おかだ)かうざう へ
はいふく
ふりがなは だいたいにて よろしく さうら(候)へども かんじに せうせい(小生)の いい-かげんに ふつたものには まちがい おほきかと ぞんじさうらふ。もっとも せうせいの わざわざ かう よませやう といふ き で ふつたのも あります。さくや こはがる などは どちらでも せうせいは いっこう とんちゃくなく さうらふ '雑'も ザフでも ザウでも かまひまうさず さうらふ。しかし '鈴'は レイにさうらふ。すゞは じんじゃなどに あるもの 鈴(レイ)は やまぶしなどの もつものに さうらふ。あのばあい わざと 「レイ」と かなを ふりおり さうらふ
ばらせん(銭)御(お)ぜん おほせのごとくに さうらふ。暖(あた)たかくは暖(あつ)たかく なるべし とうきやうにては あつたかくと まうし さうらふ。矢張(やつぱ)りは せうせい わざと やつぱりと ふる(原)たるところ おほし やはりに お・なおしありても たいていのところは さしつかえなかるべきか しかし あるところは やつぱりに ねがひたきここち いたし さうらふ
はなはだ わがままな まうしぶんながら じぶんの ことばの まちがひは ただして もらひたし。じぶんの ことばは ほかに いじくられたくないこころもち いたし さうらふ
1912(めいじ-45)-ねん 7がつ 28にち
はやしばら-(とうじ おかだ)こうぞう へ[はがき]
こうせいに つきては けさ まうしあげさうらふとほりなれど ご・さんかうまでに だいたいの ご・ちゅういを いたしさうらふ
(とちゅう りゃく)
ゆふべ、ゆうべなどニテ しんぱい おん・なきやう。おなじ はつおんガ デレバ それで けっこうなり
1912(めいじ45)ねん 7がつ 29にち)
はやしばら-(とうじ おかだ)かうざう へ[はがき]
○おんなツけのつもり。じょうひんに いへば 女気(をんなけ)ならんも しか いふ ばあいは おほからざるべし
○日暮はひくれなり
○ねづみたけ、だけ いずれにても よし
○「魚と肉の間位」このときの'位'は「ぐらゐ」と かならず にごってよむ。「この位」「どの位」などいふときは「くらゐ」といふのが あたりまへなるも。
○「それで好(よ)い」は とうきやう-ごならず とうきゃうでは いつでも 「それで好(い)い」といふ。
(いか りゃく)
1912ねん(たいしょう-がんねん)9がつ 4か
はやしばら-(とうじ おかだ)かうざう へ
○ぶち込むなるべし。打(う)ち込む といふことばは とうきやうにて つかわず。
○市(いつ)さんなり。いちさんと けいしき-づくめに よぶのは きょういくの ていどいかんにかんせず おっくうなり
○「浪漫―」の―は ダツシなり。たゞし ながすぎるゆゑ みじかくせり
○小器(ぎ)用なり。にごるに きまつた ものなり
○端は ぞくごにては みな はじなり。ぶんしょうにて 「はし」と よむこともあらん。ぞくごを ふでに のぼ(上)すときは まづ「はじ」と ことばを おもひ つぎに これを かんじにて あらはしたら なんといふ じ が くるだらうと おもひ ようやく 端といふ じ が でてくる じゅんじょなり。されば かいた ほんにんから いへば「端」といふ じあし(字脚)が あつて それを 「はし」にするか 「はじ」にするかの もんだいにあらず。まづ 「はじ」といふ おん あつて そのおんを なんといふ もじで ひょうげんするか から「端」になつたまでなり。したがつて '端'といふ じ は どうなつても よきここちす。しかし 「はじ」は うごかしがたき ここちす
○せんだっての はがきの 'すなが(須永)'は むろん'けいたらう(敬太郎)'の まちがひなり。ただし 「しゅちゃうした」は きりぬき-ちゃうに ていせいしておいたとほりにてよろし。
たびたび おてすうをかけ すみません。こうせい-りゃうは おとりにや えんりょなく おん・かけあひ(御懸合) くだされたく さうらふ(被下度候)
9がつ4か きんのすけ
かう(耕) ざう(三) さま
そうせきの ぶんしょうの とくちょうである かんぶん-ちょうが めだちます。くてん(。)がないために ぶんの きれめが わかりにくいところが さんけんされます。
「構ひ不申候」は「かまい まうさず さうらふ」でしょうね。「構ひ不レ申候」とでも かく ところです。
いんようの さいごにある 「えんりょなく御懸合被下度候」は 「えんりょなく おん・かけあひ くだされたく さうらふ」でしょうか。
そうせきの ぶんしょうに あてじが おおいことは よく いわれます。
「去れば」はもともとは「然(サ)り」のいぜん・けい「然(サ)れ」+せつぞく-じょし「ば」と されますが、「然(サ)り」は ふくし"さ"に ラ・へん-どうし"あり"がついた ことばですから、"さ あれば" という ことでしょう(にほん-こくご-だい・じてん、しょうがくかん-こご-だい・じてんなどによる)。いずれにしても どうし「さる」とは かんけいありません。ただし 「されば」と かいてあれば まちがいなく「されば」と よまれるでしょうが、ごげんに ちゅうじつに 「然れば」とすると 「しかれば」、「されば」の 2とおりの よみが でてきます。
こうじゅつの "端"の よみにかんするところでも でてきますが、そうせきにとっては どうよまれるかが だいじで、どの かんじを つかうかは にのつぎ、という かんがえなんですね。
よむときの おんが だいじだ、ということを くりかえして かいています。
「暖(あた)たかく」は「暖(あつ)たかく」、「打(う)ち込む」ではなく「ぶち込む」、「市さん」は「いちさん」ではなく「いっさん」、小器用は「こきよう」ではなく「こぎよう」。
「矢張り」は「やっぱり」としていますが、ここではブレがあります。
「矢張(やつぱ)りは せうせい わざと やつぱりと ふるたるところ おおし やはりに お・なおしありても たいていのところは さしつかえなかるべきか。しかし あるところは やつぱりに ねがひたきここち いたし さうらふ」。
"やはり"と なおしても たいていはさしつかえない、といいながら 「あるところは やつぱりに ねがひたき ここち いたし」と ていねいに いけんを とおします。「"やつぱり"に ねがいたい という きもちです」という ふうに。でも 「あるところは」と いわれても、どこがそうなのか はんだんが つきませんよね。
端は 「はじ」であって 「はし」ではないと きょうちょうしています。さらに 端 という かんじは どうでもよくて 「はじ」と よめればいい、とまで かいています。
じつは この "端"ですが、おもいでが あります。
わたしの このサイトに 「まえがき・あとがきのへや」が あります。そのないようは このサイトを かいせつするより ずっとまえに かきとめておいたものを もとに スタートしたのでした。そのぶんしょうにたいして、 「ほんの はじっこ」という タイトルを つけていたのです。
"はじっこ"とは "はじ(端)"に せつび-じの "こ"を つけたものです。"はじ"は "はし"が れんだくで "はじ"に なったものでは ありません。たんに" はし"の いみで "はじ"と いうことも あります。
"はじ(端)"は いばらき-べんだと おもっていたのですが、とうきょう-べん(または かんとう-べん)だったのですね。なぜ"端"と書いて"はじ"と にごるのか ということを ずいぶん ていねいに、ねんいりに せつめいしています。そのどあいがすぎて "くどい"という レベルに なっています。
わたし-じしんは くどいひょうげんは すきなので なんとも おもいませんが、おおくのひとからは "くどい"といって きらわれそうです。
ですが、このねんいりな せつめいは、そうせきが おおくのでしを そだてた、ということと ひょうり-いったいである ように おもわれます。でしに たいしても、しゅっぱん-しゃの しゃいんにたいしても どうように、ていねいに せつめいしています。こういうところが ちょくせつにおしえをうけた ひとびとから たかく ひょうかされる もとに なったのでしょう。
こまかなところまで ていねいに、というてんでは、このいんようぶんの さいごの 「まいまい おてすうをかけ すみません。こうせい-れうは おとりにや えんりょなく おん・かけあひくだされたく さうらふ」というところに よく あらわれています。まず 「おてすうをかけすみません」と しゃし、つづいて 「こうせい-りょうは おうけとりされましたか」と しんぱいし、こうせいの ひようについて "えんりょなく せいきゅうしてください"と いっています。
もし わたしが しゅっぱん-しゃの へんしゅう-ぶいんで、ことば-づかいの さいぶでの ぎもん・てんを そうせきに かくにんして ちょうせいする、という たんとうになって このようなことばを かけられたら、たちまち ねつれつな ファンに なってしまうでしょう。
ところで、わたしは端は ハシであって、ハジは いばらき-ほうげんだと おもっていた と かいたのですが、こんかい あらためて じしょをひくと、ハジの あつかいについては びみょうな ちがいがあります。
こうじえん-だい5・はんでは「はじ端」をりっこうしていて 「ハシのなまり」としています。
しんちょう-こくご-じてん-げんだいご・こごでは「はじ端」をりっこうせず、「はし端」の こうに たんに 「ハジとも」と ほそくします。
にほん-こくご-だいじてん-せいせん・ばんでは「はじ端」を りっこうしつつ 「はし(端)をみよ」とし、はし(端)のこうでは "「はじ」とも"と ほそくします。
しょうがくかん-こご-だいじてんでは 「はじ端」を りっこうせず、はし(端)のこうでは 「はじ端」にかんする げんきゅうは ありません。このじしょでは とうごく-けいなどという せつめいで、とうごくにおいて へんかしたかたちで つかわれることばも しゅうろく・かいせつしていますから、れきし・てきには かんとうもふくめて あくまで 「はし(端)」だったのでしょう。
ちなみに しんちょう-こくご-じてん-げんだいご・こごでは「はじっこ[端(っ)こ]」が りっこうされていました。ぎゃくに 「はしっこ」は りっこうされておおらず、「はじっこ[端(っ)こ]」の こうのなかに "「ハシッコ」とも"と ほそくされていました。
にほん-こくご-だいじてん-せいせん・ばんでは "はしっこ【端こ】"が りっこうされ、"「はじっこ」とも"と ほそく-せつめいがあります。ここには ぶんれいがあり、ながつか-たかしの「つち(土)」のいっせつが とられています。「端(ハジ)っ子」という ひょうきです。ながつか-たかしですから いばらき-べんです。"はしっこ"というぶんれいが あるのかどうかは わかりませんでした。
ぜんたい・てきには、「端」を「はじ」と にごるのは いばらきにかぎらず、かんとう・くらいの ひろがりが あるという いんしょうです。
さいしょに いんようした しょかんは つぎのことばで むすんであります。
「はなはだ わがままな もうしぶんながら じぶんの ことばの まちがいは ただして もらひたし。じぶんの ことぱは ほかに いじくられたくない こころもち いたし さうらふ」
さっかとして とうぜんでしょうが、「わたしが まちがったところは なおしてもらいたい、わたしが いとして かいた ぶぶんは かえてもらっては こまる」と、これが しょうじきな ところでしょうね。ですから しゅつぱん-しゃとしては ぎねんがあれば さくしゃに かくにんしなければ いけません。
そうせきは そのかくにんについて、たいおうが じつに ていねいで、そのことは とても いんしょう・てきです。
そうせきといえば、しんけい-すいじゃくや い-かいようなど びょうきに くるしんでいますが、これらの しょかんの ぶんしょうをみると、とても あんていして けんぜんな せいしんで、しんけい-すいじゃくの ようすは まったく みられません。
しんけい-すいじゃく
では しんけい-すいじゃくを うかがわせるような ものは なにかあるのか、というと ひとつ みつけました。
うえにあげた しょかんに みられる "あんていして けんぜんな せいしん" というのと ま-ぎゃくな ものが かんじられるので、ここに いんようしておきます。
これは この しんしょ-ばん-そうせき-ぜんしゅうの ほいに のったものです。
1903(めいじ36)-ねん 6-がつ 4-か
つぼい-くめざう へ
はいけい だいがく としょくゎん けうしょくヰん えつらん-しつ りんしつの じむいん・ら たかごゑにて だんせういたし せいどくを さまたぐること すくなからず さうらふにつき せうせい じしんに くゎんいんに めんくゎいのうへ さうたうの ちゅういを こひ さうらへども いっかう とりあはざる やうすに さうらふ あひだ きかより としょくゎん-ちゃうに ご-かうせふ(御交渉)のうへ がいくゎん(該館)の せいしゅくを たもつやう おとりはからひ くだされたく みぎ てすうながら ごはいりょを わずらはしたしと ぞんじ さうらふ けいぐ
かうし なつめ-きんのすけ
ぶんくゎ-だいがく がくちゃう つぼい-くまざう どの
おおよそは 「だいがく としょかんの きょうしょくいん えつらん-しつの となりに じむ-しつがあり、じむ-いんが こわだかに だんしょうして うるさく、どくしょの さまたげになる。とうにんに めんかいして ちゅういしたが とりあってくれない。そこで がくちょうから としょかん-ちょうに たいして じむ-いんを しずかにさせるように、ということを つたえてもらいたい」と、まあ こんな ないようです。
くとうてんを まったく いれず、いっきに かきあげた、という いんしょうがありますが、このぜんごの そうせきの しょかんをみると どうようの かきかたを していますから、これが とくべつな かきかたを しているわけでは ありません。
しかしながら、きりきりと きんちょうしている という いんしょうが つたわります。
ふたたび こうせい(校正)について
さいしょにあげた しょかんは 1912-ねん、これは めいじ45-ねんで、そのとしに たいしょうと かいげんされました。
もっとまえに こうせいについて かいている しょかんがあります。
1906(めいじ39)-ねん8-がつ 31-にち
たかはま きよし へ
(ぜんりゃく)
しん-せうせつ(小説)は でたが ふりがなの めうち(き)りん(妙痴[奇]林)なのには へきえきしました。ふりがなは やはり ほんにんが つけなくては だめですね。
(こうりゃく)
[奇]というひょうきは、そうせきがかいた げんぶんになく、このぜんしゅうの へんしゅう-だんかいで しゅうせいのために "奇"の1もじが そうにゅうされた、ということを しめすものです。
このとしの 9-がつ・ごうに くさまくら(草枕)が ざっし「しん-しょうせつ(新小説)」に けいさいされています。8-がつ 31-にちであれば、タイミング・てきには そのころは ふりがなをどうするか、という はじめにあげた しょかんにみられるような やりとりが おわったちょくごと おもわれます。
その3-かまえの8-がつ28-にちの こみや-とよたか・あての てがみのなかに、つぎのような いっせつが あります。
こんどは しん-せうせつに かいた。9がつ-ついたち はっこうのに くさまくら(草枕) と だいするものあり。ぜひ よんで ちゃうだい。
まえのとしに 「わがはいは ねこ である」が はっびょうされて、そのご「ろんどん-たう」、よくねんに「ぼっちゃん」、「くさまくら」、「にひゃく-とをか」と はっぴょうされています。ですから そうせきの しょきの さくひんと いえます。
つまり、そうせきは しょきの だんかいから ふりがなについての めんどうな けいけんを し-つづけている ということになります。
メールも でんわさえ ない じだいですから たいへんだったでしょうね。
と かいたのですが、しんぱいになってきたので しらべてみました。
たいしょう がん-ねん 12-がつ 9-かごろに なつめ-けに でんわがひかれた、というサライのきじを ネットで みつけました。
ですから、「くさまくら」のときには でんわはありませんが、さいしょにいんようした しょかん-ぐんの すぐあとには でんわが ひかれたことになります。
でんわが しょかんに でてくるのは、わたしが みつけたかぎりでは、1913(たいしょう2)-ねん 2-がつ 26にちの「やまもと まつのすけ へ」という しょかんの なかにある 「ごそうだんのうえ なんとか ご-つごう あい-ねがいたし(でんわにて よろしく)」という いっせつが さいしょです。
では そのごは こうせいは もっぱら でんわでおこない、しょかんというかたちでは していないのか、ということで しらべると、みつかりました。
1913(たいしょう2)-ねん 11-がつ 12-にち
うちだ えいざう へ
げんかうにつき いろいろ ご-はいりょ ありがたく さうらふ(難有候)。お・おくりのうち いろ-えんぴつで くぎつたところ わからざりしゆへ ことごとく みな つうどくいたし くろ-インクで なほしさうらふ。なほ きのつきたるところ ひだりに まうしあげ おき さうらふ。
(ちゅうりゃく)
(3)143の9ぎゃうに「促(うな)がした」とあり、まへには、「促(うなが)した」とわざわざ なおしあり、せうせい(小生)は どつちにても さしつかへなし、これも とういつ ありたし。
(こうりゃく)
1913(たいしゃう 2)-ねん 11-がつ 12-にち
うちだ えいざう へ[はがき]
せんこく さしあげた ちゅういのうち もれたものを 2つ もうし-そえます。
(1)彼女を (じよ)としたところと (をんな)としたところと ありました。
(2)だけ を□(丈のみぎかたに てん)と あかくなおして ありましたが、あれは□(丈のみぎかたに てん)ではなく 丈だらうとおもひます
11-がつ 12-にち よる
さいしょのものは げんこう(あるいはゲラずりのようなものかも しれません)のたばを やりとりしているので、もともと でんわをつかう ばめんでは ないのかもしれません。
あとのものは、とうじつの よるになって、ぜんかい かきもらしたことを ついかしたものです。これは よくじつ あさ、でんわで つたえても よいのではないか、とおもいます。まあ、そのひのうちに かたづけておきたいと おもった、という かのう・せいもあります。
じっさい、こうせい・じょうの こまかな しじを かいている しょかんは、うえにあげたあとでも くりかえされています。ただし しゅっぱんしたはずの さくひんのかずから かんがえると すくないです。これは よくわかりません。あるていどは でんわですませて、まとめてチェックするときには てがみや はがきで れんらくする ということでしょうか。
でんわがあったときに ふざいだったことを わびる ないようの しょかんがあるのは おもしろいです。
いかは そのれいです。
1915(たいしゃう 4)-ねん 9-がつ 28にち
まつもと ちわき(松本道別)へ
はいけい さくやは でんわをおかけくださいまして しつれいしました ほんとうをいふと けふ(今日)は たいして さしつかへがあるのではありませんが この2、3-にち らいきゃくが おほかったり ぐゎいしゅつを しなくてはならなかつたりで すこし じかんがほしかったので まあ たせう(多少) あなたを かいひしたやうな こんせきがあるのです はなはだ すみません ごかんべんを ねがひます、
(いか しゃく)
そうせきは でんわを よくつかっているようです。こうせいにかんする かんたんなやりとりなら でんわですませている かのうせいは じふぶん(十分)に あると かんじられました。
びこう
ほんきじの もとになった しょかん・しゅう(ほいにも しょかんが しゅうろくされているので それをふくむ)は いかの 6・さつです。ほん-きじに ちょくせつ・てきに いんようしていなくても えいきょうはあったので、その6・さつすべてを のせます。すべて しんしょ-ばんです。
そうせき-ぜんしゅう だい-27-かん しょかん・しゅう 1 いわなみ-しょてん 1980-ねん 1-がつ だい-4・さつ
そうせき-ぜんしゅう だい-28-かん しょかん・しゅう 2 いわなみ-しょてん 1980-ねん 1-がつ だい-6・さつ
そうせき-ぜんしゅう だい-29-かん しょかん・しゅう 3 いわなみ-しょてん 1980-ねん 2-がつ だい-6・さつ
そうせき-ぜんしゅう だい-30-かん しょかん・しゅう 4 いわなみ-しょてん 1980-ねん 2-がつ だい-5・さつ
そうせき-ぜんしゅう だい-31-かん しょかん・しゅう 5 いわなみ-しょてん 1980-ねん 3-がつ だい-5・さつ
そうせき-ぜんしゅう だい-35-かん ほい いわなみ-しょてん 1980-ねん 5-がつ だい-1・さつ
びこう2
いんよう-ぶんは、ぜんしゅうの ほんぶんは たて-がき(もちろん そうせきの てがきのぶんしょうも たてがきでしょう)ですが、このサイトでは よこ-がきです。そのため、げんぶんでは、ぶんしょうのぜんご-かんけいを みぎ・ひだりと かくところは、よこがきでは うえ・したという かんけいになります。これをなおすのも きがひけますので、げんぶんのままと いたします。
このような こんらんは えいぶんを にほんご-たてがきで ほんやくするときの まちがいとして ときどき みられます。"described above"とあるところを「じょうじゅつの ように」とすると おかしなことで、「みぎに のべたように」と ひょうげんをかえるひつようがあります。