【1】日立市の市名の由来


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【1】日立市の市名の由来  [2014/6/23]

日立市の市名である「日立」の由来については以前から気になっていました。いつかきちんと調べようと思いつつ、今に至ってしまいました。

今回、「日立」の由来について記録した本を見つけましたので、これをもとにまとめておこうということでこのページができました。

詳細な記録が記された文献が見つかった

偶然ですが日立市立図書館で下記の本を見つけ、長年の疑問のかなりの部分が解決しました。

市制施行記念 日立市沿革史 編集兼発行者 吉田軍蔵 昭和十四年十二月二十五日 日立市役所発行 (非売品で、出版社からの出版物ではない)

以下、同書を「沿革史」と呼びます。

後書きに相当する「編纂を終りて」には、編集依頼が昭和14年9月中旬とあり、脱稿したのがこの後書きの日付である昭和14年11月22日とすると、編集期間は2カ月強ということになる。実際に、この後書きの中で、「編纂に与えられた期間は僅々二ケ月余に過ぎなかった」と記されています。これは見方を変えれば、日立市が発足したての期間に書かれた、文字通り、"ホット"な記録といえるでしょう。

ただし、編集した吉田氏ですが、住所は水戸市と記載されています。「わが日立市」と書かれていることから日立市に深くかかわった人のはずです。「序」には、「本誌の編纂は多年新聞界に在り名声嘖々たる吉田軍蔵氏に委嘱した・・・・」とあり、新聞の編集者のように見受けられます。

日立市の市名の由来についての説

愛知県豊田市がそれまでの挙母(ころも)市という名前から市名変更したときに、日立市が日立製作所の企業名をとって名付けられた例もある、というのが根拠の一つに挙げられた、ということがあります(この話の根拠は追記1参照)。これに対して、私の感覚はまったく違ったものでした。日立村に日立鉱山が開発され、そのなかから日立製作所が分離独立し、両社の繁栄により日立町になり、さらに日立町と助川町が合併して日立市ができた、のであって、日立製作所は日立村の村名をとったのであり、市名としての"日立"というものは日立村-日立町が起源である、と。そもそも日立という地名の由来は、水戸藩第二代藩主光圀が市内の神峰神社に参拝したとき、

「海上から朝日の昇るさまを見て、ここは領内一の眺めだと、言ったというのにちなんで『日立』と称するようになった(沿革史4~5ページ)」

というものです。

この光圀の言葉は文献に残っているのではなく、"古老から聞いた言い伝え"のもので、いろいろな資料でその表現が微妙に違います。

「日の立ち昇るところ領内一」
「朝日の立ち昇る様は領内随一」
「日の立つ処領内一」

またその場所も、神峰神社という説と神峰山頂にある神峰神社奥殿という説があります。

いずれにしても、日立村で会社を興したので日立製作所と命名され、また日立町を受けて日立市ができた、というものです。

日立市誕生までの経緯の概要

"日立"というキーワードでその地名に関する出来事をまとめてみます。

1889(明治22)年 宮田村と滑川村の合併により日立村が誕生

1905(明治38)年 日立村にある赤沢銅山が久原房之助の経営に移り日立鉱山と改称される

1911(明治44)年 日立鉱山工作課の修理部門が分離し日立製作所と称する

1920(大正9)年  株式会社日立製作所が設立される

1924(大正13)年 日立村が町制に移行し日立町となる

1939(昭和14)年 日立町と助川町が合併し日立市となる

明治22年は「明治の大合併」があった年で、前年に71,314あった町村がこの年には15,820にまで減少しました(*1)。その一環で日立村ができたのでしょう。その時に「日立」が採用されたわけです。この時にも村名をどうするか、もめたに違いありません。そして誰かが、「光圀公がこう言っているから"日立"はどうだろうか」といいだしたのでしょうか。"日立"という言葉を光圀が言ったのではなく、光圀の言葉の言い伝えを元に"日立"という言葉が考えだされた、ということになります。2年後の明治24年において戸数382、人口2,250人(*2)という小さな村でした。【2014/6/27 追記】

(*1) 総務省のサイト 市町村数の変遷と明治・昭和の大合併の特徴
(*2) 角川書店 角川地名大辞典 8 茨城県 「日立」の項目による

日立村の村名の由来【2014/6/27 追記】

日立市の市名である「日立」が最初にあらわれるのは日立村ということになりますが、その村名の由来に関する記録を見つけました(常陸書房 日立市史 631ページ)。

「徳川光圀神社に(神峰神社)皇室隆興ヲ祈願シテ山籠シ、朝日ノ立上ル光景ハ秀霊ニシテ偉大ナルコト領内一と仰セラレシコト佐藤家旧記ニアリシヲ以テ根本兼松、佐藤敬忠ノニ翁ノ撰定ニ係リシモノナリ。県指定ハ「宮川村」、根本兼松氏ハ県指定村名ヲ否定シ両三日中ニ撰定報告スベキニ付指定村名取消ヲ要求シタリト、元村長佐藤仙三郎翁談」。

「元村長佐藤仙三郎翁談」とあり、その出典は「日立町制施行記念資料 佐藤文郎市所蔵」とされていますが、その資料は日立市立図書館、茨城県立図書館、国会図書館のいずれでも検索できませんでした。

根本兼松氏は初代日立村長であり(市史 634ページ)、またそれに先立つ明治15年までは宮田村・滑川村連合戸長でした(市史 504ページ)。

佐藤敬忠氏は、明治13年3月27日につくられた国会開設建議書の署名に宮田村の3名の一人として名前があり(市史 513ページ)、また明治6年8月に県庁に提出された成沢村小学校の私学開業願に"第十六区小学区取締"として署名が見られ(市史 522ページ)、また「宮田村に住む区長佐藤敬忠が、明治6年第十六区小学区取締を兼務(市史 529ページ)」とあります。

二人はこの地域での有力者だったのでしょう。

ここで分かった重要なことは、日立村の村名は、茨城県が指定した「宮川村」(宮田・滑川両村名を合せたものでしょう)を地元が拒否し、自分たちの考えた「日立」という名前を申し出た、ということにあります。

日立市の市名決定の経緯

日立市が発足したときの市名をどうするかですが、二つの町が対等合併するときにありがちですが、"もめた"ようです。日立町としては日立市を支持し、助川町はこれは承服できないとして日立助川市、茨城市などが提案されたものの、結局相談はまとまらず、しかし二町合併して市制に移行する機運は堅く、最終的に茨城県に一任、ということになりました。

茨城県の判断を明解に示す資料が上記の「沿革史」に記録されています。日立町と助川町を合併して日立市を設置する件に関して茨城県知事が内務大臣木戸幸一宛てに作成した「知事副申」という文書です。これは日立町長と助川町長が連名で内務大臣木戸幸一宛てに作成した上申書に付けられた文書です。

市制施行の理由、経過、協議内容の次に「市の名称」に関する文章があります(沿革史 32ページ)。要点をかいつまんで書くと次のようになります。

市名については・・・・両町ともに現町名に対する執着がある・・・・日立町は早くから県に一任ということで意見が一致していた・・・・助川町は議論がまとまらなかったが、「慎重協議を重ねたる結果大乗的見地より」県に一任と決した

県としてはいくつかの理由を挙げて日立市を選択した、と書いています。その理由とは次の様なものでした。

(1)「助川」は地方的な名称だが「日立」はその名が周知されている
(2)「日立」は新しくできる市と密接な関係にある日立鉱山日立製作所の名称にも関連している
(3)字のイメージとしては雄大で将来の繁栄を象徴する適切な名称である

最後に挙げられた理由の"字としてのイメージ"は確かにそうですね。このような景気のいい名称はなかなかないでしょう。多くの場合、その土地の歴史的な呼称、土地の特徴を表す名称、あるいはその土地に勢力を張った豪族の人名などがつかわれます。

それにしても、「日立」の名前が最初に使われた日立村ができた時には、県が指定した名前を地元が拒否して自ら日立村と決め、日立市ができたときには市名を自分たちで決めることができず、県に一任して日立市になった、とはなかなか面白いものですね。

さて、上に書いたように、県が市名を決めた理由の(1)で"名が周知されている"、と評価された「日立」ですが、どのように周知されていたのかは今一つはっきりしません。可能性としては、日立鉱山、日立製作所という企業の名称として知られていた、ということ以外は思いつきません。

[2014/7/6 追記] この件に触れている資料がありました。それによると、「県は日立鉱山と日立製作所の名で知られているからと、日立市と決めた。昭和14年9月1日、両町は合併し、日立市が誕生した」とあり、日立市側の理解としては、県が報告した"名が周知されている"ことの内容は、"日立鉱山と日立製作所"のようです。

新郷土日立 歴史 日立市郷土博物館編集 日立市教育委員会発行 平成19年3月22日 (本書は市内中学校社会科用副読本)

日立市誕生時の日立鉱山と日立製作所の比較

それでは、当時、日立鉱山、日立製作所のどちらが有力だったのでしょうか。もし日立鉱山が圧倒的に有力であれば、「日立」の名前が全国的に知られている、ということの意味は日立鉱山を指している、ということになるでしょう。その逆もまた然りです。

どちらが全国的に知られていたか、という点については判断材料が見つかりません。市内においてはどうか、というと、よい資料がありました。第一回日立市議会選挙の結果が上記の「沿革史」に当選者の情報が記録されているのです(同書87~89ページ)。定員36名に対して立候補者数は70名、「競争は激烈を極めた」とされています。この資料にはありがたいことに職業欄が会社員の場合は企業名が、日立鉱山なら「日鉱」、日立製作所なら「日製」と表記されています。

結果は驚くべきものでした。日立鉱山7名、日立製作所7名と同数、しかもこの14名が得票数の上位を完全に独占しています。14名のうち得票数が最も少ない人で228票、全体の当選者で最も低い得票数は87票でした。このことから、日立鉱山と日立製作所ともに落選者はなかったものと思われます。また、日立鉱山と日立製作所は立候補者数が同じになるように事前に協議してあったに違いありません。どちらかが多数になると問題が起こりそうだ、ということで意見が一致したのでしょうか。ちなみに、議長、副議長は日立鉱山、日立製作所のいずれにも所属しない議員が選ばれています(同書90ページ)。

もうひとつの参考データとして人口調査があります。日立市誕生の1年前のデータですが、鉱業17,660人、工業28,127人とあります(沿革史103ページ)。鉱業はほとんどが日立鉱山でしょう。工業といえば、日立製作所及びその関係会社ばかりでなく、それ以外の企業もあるように思えます。そのように考えると、日立鉱山と日立製作所は日立市発足時点では勢力がほぼ拮抗していた、といっていいのではないでしょうか。

日立製作所の関与

実は日立製作所は日立市誕生については深くかかわりを持っていました。日立市役所の新庁舎建設費用としては6万円を寄付しています(沿革史34ページ)。また、市史では、次の様に日立製作所の関与を記述しています(市史695ページ)。すなわち、昭和12年の盧溝橋事件を発端とする日華事変により日本全体が戦時色に染まり、

「日立市は発足と同時に時局関連の施設あるいは事業に重点を置かねばならなかったので、市制施行にともなう、道路の改修、新市庁舎の建設、国民学校の新築、修繕に当てる為の費用は、日立製作所からの寄付金によって賄った。即ち日立製作所では、市制施行と同時に三年間に100万円の寄付を申し出たのである」

その点では日立市と日立製作所の結びつきは格別に深い、ということができます。ただし、市名の由来としては、日立製作所があるから日立市、ではなく、昔からの呼称としての"日立"を村名、町名、企業名(日立鉱山、日立製作所)にこぞって採用したと考えるのが妥当と思います。

まとめ

総合してみると、光圀が発した言葉に由来する「日立」という"景気のいい"イメージの名前が村の名前になり、日立鉱山と日立製作所という企業の名前にも使われ、日立町、さらに助川町と合併してできた日立市へと一貫して使われてきた、ということではないでしょうか。「日立」という字面(じずら)としてよいイメージが江戸・元禄期から連綿と引き継がれてきたということです。何と言ってもサンライズ(sun rise)です。これ以上に景気のいい名前は市名としてはないでしょうね。


【参考】景気のいい名前の市

手元の地図帳で市の名前を眺めてみると、景気のいい名前の市というものは以外に少ないことが分かりました。その中で、いくつかを挙げると、日光市、富士市、光市というところでしょうか。福岡市、福島市、福山市、あるいは富山市、富岡市などは「福」、「富」という景気がいい一文字と岡、島、山などの地形をあらわす文字を組み合わせたものでインパクトが弱いです。天理市は考えてみると「天」の「理(ことわり)」ということでスケールが大きいですが、私個人的には特定の宗教団体の名前という点で例外と考えます。


【追記1】愛知県挙母(ころも)市が豊田市と市名を変更したときの日立市の参照誤り

本記事を最初にアップした時には"調査中"としていましたが、そのことを記述した資料が見つかりました。【3】日立市の市名の由来 その3 -市名の由来の誤解-に書きましたので参照願います。



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