【2】日立市の市名の由来 その2 -補足事項-


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【2】日立市の市名の由来 その2 -補足事項- [2014/7/4]

前の記事で日立市の市名の由来のあらましを書きましたが、補足事項について以下に書きます。

日立という地名の由来の別の説

日立という地位が最初に出てくるのは日立村ですが、その時、日立という地名はどこから生まれたのか。

徳川光圀が神峰神社で発した言葉、というものとは別の言い伝えがあります。日立鉱山史(*1)を見てみましょう。

一説には、明治22年四月、地方自治制施行の際、旧宮田、滑川両村を合して、一新村を設けるに当り、両村の長老、有志一屋に会して村名を議した。徹宵して論議するも議論百出名案浮ばざる中、参会者の一人、手洗いに立ち、ふと窓外を見ると時恰も(あたかも)真紅の旭日が悠々大洋より立昇っていた。「日立だ」と直ちに全員をその場に呼んで提議した處(ところ)何れもその雄荘の美に打たれて、誰一人異議を唱うるものもなく、忽ち(たちまち)新村名の決定を見たと云う古老の言もある

この説は、前記「日立市史」の改訂版である「新修日立市史」(*2)でも、この「日立鉱山史」を引用する形で記載されました。

そこでは、「日立だ」ということから地元で「日立村」を提案しても県が認めないだろう、光圀の権威によって初めて認められることになったのではないか、と書いています。

日立の由来に対する疑問

いずれにしても、日立という市名の由来は言い伝えに基づくもので、その根拠はそれほど明快ではありません。志田諄一氏は「郷土ひたち 第12号」においてその問題を指摘する論文を発表しています

まず光圀の言葉ですが、以下のように書かれています。

佐藤家旧記に「朝日ノ立上ル光景ハ秀霊ニシテ偉大ナルコト領内一」と光圀がいったと記されていたというが、この光圀の言葉は、村名をつけるとき、はじめて根本兼松・佐藤敬忠の両氏によって、世に出されたものであって、それ以前には問題とされていない。例えばこの光圀の言葉が元禄8年(1695)に神峯神社登拝の時にいわれた言葉だとすれば、明治22年まで184年間も伝わっていたことになり、当然佐藤家旧記以外の資料にもあらわれてくるはずであるのに、そのようなものは一切ない、ということは光圀の話は、日立なる村名を案出した後に作りあげて、結びつけた可能性が高い。

さらに、上記の「日立だ」との発言のエピソードを引用し、光圀の伝説を評価しています。

もしこの時佐藤家旧記に光圀の話が本当に記されていて、それが日立なる村名の由来となったのであれば、このような異説はでてくる余地がないであろう。
(中略)
宮田村と滑川村の合併だから「宮川村」としろという県の指定村名では全く無味乾燥であるので、日立なる村名が案出されたのであろう。ただし従来の地名、または歴史的要素と全く無関係の村名を案出したのでは、(県に対しての)説得性も乏しく、またおもしろくなかったので、偉大で有名な人物とされている光圀と結びつけて、歴史的裏付けをしようと企だてたのであろう。

そして、日立という地名の由来として、二つの可能性を挙げています。要約すると以下のようなことになります。

(1) 常陸風土記に、この辺りに建御狭日の命(たけみさひのみこ)赴任してきたという伝説が記録されており、このタケミサヒから「高いところにのぼって朝日をみる」という着想がでてきた。

(2) 日立地方には古くから日の出を拝し、願文を唱え・・・・いわゆる「踊り念仏(時宗)」が盛んだったらしい。・・・・天道(太陽)に祈願し、五穀成就を祈るために建てられた文化年間の天道塚があり、・・・・このような天道礼拝の信仰から、展望のきく神峯山などでも太陽の礼拝が行われ、日立なる村名が生れていった。

そのようなことから、光圀の伝説が創作された。

「日立だ」と叫んで全員が納得した、ということが本当かどうかは裏付ける記録が何もない以上、単純にこの説を採用するわけにはいかない。それで、なにがしかの根拠を求めれば、風土記とか、この土地の太陽信仰をもとにした考え方が可能である、ということになったのでしょう。

つまり、光圀の伝説は、日立という言葉を考案してから、その根拠をもっともらしく考案したもの、という説です。


この論文では「ことの真否を泉下に眠る根本兼松・佐藤敬忠氏の霊に、聞き正して見たいものである」と結んでいます。本当にそう思います。

明治22年と言えば1889年、いまから124年前です。オフィシャルなことでも、このくらい古いことは分からない場合がいろいろあるのですね。

なお、徳川光圀が神峰神社で発したいうことが書かれていた佐藤家旧記ですが、これはある蔵書にメモ書きの様な形で残っていたものだそうですが、この蔵書自体が今では行方不明だそうです。その家に代々伝わる貴重なものでしょうが、せめて写真をとって郷土博物館に保存する、ということができないのだろうか、と思います。一部の資料はそのような処置がなされているようですが、広く行われるとよいですね。


参考文献

(*1) 日立鉱山史 嘉屋實 日本鑛業株式会社日立鑛業所 昭和28年9月1日 再版発行

(*2) 新修日立市史 下巻 日立市史編さん委員会編 平成8年3月31日 日立市発行

(*3) 日立の地名の由来と問題 郷土ひたち 第12号 pp.15-18 郷土ひたち文化研究会 昭和39年10月30日発行



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