【3】日立市の市名の由来 その3 -市名の由来の誤解-


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【3】日立市の市名の由来 その3 -市名の由来の誤解- [2014/7/6]

日立市の市名の由来に対する誤解

インターネット上で今でも、「日立市という名前は日立製作所からきたものですか」、という質問が散見されます。

昭和33年に、愛知県挙母市(ころもし)が豊田市に市名を変更したとき、日立市の市名の由来が誤って言及されたという事実がありますので、それについて書きます。

その都市の象徴が市名になっているケースとして日立市が筆頭に挙げられたもので、日立鉱山あるいは日立製作所にちなんで日立市と命名された、というニュアンスであり、ゆえに豊田市と市名を変更することはおかしなことではない、という主張でした。

私が知る限り、この件を最初に明確に指摘したのは、郷土ひたち 第42号に掲載された「誤解された地名『日立』」(*1)と題された論文です。

ここに3件の例が挙げられています。(ここでの太字表示はホームページ管理人による)

(1)現代「地名」考 谷川健一編著 NHKブックス337 日本放送出版協会 昭和54年2月20日発行
(途中略)地元にある企業名を即市町村名にしたケースもあります。戦前派では日立市(茨城県、日立鉱山より)がありますが、戦後派ではトヨタ自動車の名をとった豊田市(愛知県)がその代表です。昭和34(1959)年に改称する前は挙母(ころも)市でした。

(2)地名を守る 都市と文化所収 磯村英一 中央法規出版株式会社 昭和55年7月10日発行 (*7)
(途中略)産業の規模が次第に大きくなると、企業の名称が地名にとって代わる。
光市、豊田市、日立市は産業優先を示した代表的な都市である。

(3)豊田市の誕生と形成 豊田市史第4巻第二章 「挙母市から豊田市へ―市名の変更―」中の挙母商工会議所の有志による市名変更の「請願書」(昭和33年11月提出)
(途中略)全国各地には、その土地の象徴が市名になっているところが相当ある。日立市、伊勢市、天理市、野田市はその一例である・・・・


年次としては(3)での"請願書"が最も古いのですが、それが(1), (2)に影響を及ぼしたのかどうかは分りません。

ここで挙げられた市名は、順に豊田市、日立市、光市、伊勢市、天理市、野田市です。それぞれの市名の由来を調べてみました。


光市・・・・光海軍工廠(*2)が置かれた年に周南町を光町と改称し、更に、室積町と合併し光市が誕生(*3)。ただしその周南町は光井村ほか三村が合併してできたもので、光海軍工廠は元の光井村に造られたようです。光海軍工廠は光井村の一字をとったもので、地名が先であるともいえるでしょう。

日立市・・・・すでにこのシリーズの【1】日立市の市名の由来 で書いたように、明治22年に日立村が発足したときに"日立"が出てきたもので、その時点で、"日立"を冠する団体は何もありません。地名が先です。

豊田市・・・・トヨタ自動車工業株式会社(当時の名称、現在はトヨタ自動車株式会社)に基づく市名。本社はトヨタ町1番地にあります。

伊勢市・・・・伊勢神宮に基づく市名。明治39年 宇治山田町が市制を敷いて宇治山田市となり、昭和30年に伊勢市と改名しましたた(伊勢市キッズランド(*4)による)

天理市・・・・天理教に基づく市名。昭和29年に6ヶ町村が合併して「天理市」が誕生したものです。

野田市・・・・野田といえば醤油でしょうが、「関東醤油番付(天保11年(1840)」(*5)をみると、「西大関 野田 柏屋七郎右衛エ門」、「東関脇 野田 茂木佐平治」などとあり、地名としての野田はありますが、生産者として野田を冠した名前はありません。野田を冠した組織としては、明治20年(1887)に結成された野田醤油醸造組合が一番古い(*6)もののようです。ここでも地名が先と思われます。

こうして見てみると、その土地の地名として歴史がない名称を市名にしたのは、伊勢市、天理市(ともに宗教団体名による)の他には豊田市のみで、その特異性が明らかです。

豊田市の誕生における日立市への言及

挙母市が豊田市に市名を変更した経緯は、上記の「誤解された地名『日立』」という論文に書かれていますが、改めて紹介します。

下記に詳細な経緯が報告されています。

豊田市史 四 現代 豊田市教育委員会・豊田市史編さん専門委員会編集 豊田市発行 昭和52年3月1日発行 平成5年2月1日復刻版発行

要点を整理して書きます。原文をそのまま引用した部分は「」でくくっています。

(1)挙母という地名は「和名抄」にも記されているように起源は古い

(2)昭和30年代・・・・挙母市はトヨタ自動車が立地して急速に発展し、「すでにトヨタ自工あっての挙母という企業都市の性格が明確になってきた」・・・・

(3)「更に一層トヨタ自工の発展を援助し、市全体の充実も目指すことを目的に、市名変更を決めた」

(4)「商工会議所有志から昭和33年1月、市名変更の「嘆願書」が市議会に提出されると、市議会はこれをうけて市名変更を決議、市長は直ちに・・・・知事宛に『市の名称変更の許可申請書』を提出した。県は同年7月29日、この変更申請を許可した。この間、約七か月という迅速さであった」

(5)しかし、長い歴史を持つ挙母市であり、反対運動が展開され、リコール運動にまで発展した。しかし、市・議会の意向が固まってからのスタートだったことなどにより、次第に収束に向かった。

商工会議所有志からの「嘆願書」

具体的な動きは、商工会議所有志から「嘆願書」が提出されたことがスタートのようです。そのうち、"市名変更の理由"については上記の豊田市史に全文が収録されています。商工会議所有志とされる人々がどのように考えていたか、をよく反映していますので、以下に概要を紹介します。

(1)当市の政経産業文化の向上に画期的な進展をもたらせたトヨタ自動車工業株式会社を訪れる者が、将来の繁栄に多大の期待をかけ、ひとしく羨望するところは、誠に同慶のいたりである。

(2)市の財源は、あたかも、せんせんと湧出する泉のように、くめどもつきぬ潤沢さであると逢われているが、それとてトヨタ自動車工業株式会社の躍進と興隆あってのことで・・・・

(3)全国各地には、その土地の象徴が市名となっているところが相当ある。日立市・伊勢市・天理市・野田市はその一例であるように、当市もすでに町名変更が進捗しているので、それと同時に豊田市と改め・・・・

(4)挙母市という地名は珍しい由緒のある地名であるが、これを正しく読む人はおそらく全国には僅少であろう

(5)挙母局で年間に取扱う郵便物の受発件数は数百万といわれ、電信・電話を合算すると千数百万件に及ぶであろう。(改行)その郵便物その他にそれぞれ豊田市何町と記載されるようになれば、視聴覚を通じてトヨタ自動車工業株式会社を宣伝し、期せずして100%の宣伝効果をあげる要因となることを確信する。

(6)工都建設の大業はトヨタ自動車工業株式会社を中核として企図され、具現されていくのは自明のことであるが、市勢の進展とよい町づくりの理想実現のため市名改変を念願とする同志一同が連署請願いたす次第であります。

「トヨタ自動車工業株式会社を訪れる者が、将来の繁栄に多大の期待をかけ、ひとしく羨望する」、とか、「市の財源は湧出する泉のようにくめどもつきぬ潤沢さ」、とかの表現を読むと、当時の人々がトヨタ自動車工業株式会社に支えられ、期待し、自分の地にその企業があることを喜ぶ姿がうかがえます。

とどのつまりは、市名変更が「視聴覚を通じてトヨタ自動車工業株式会社を宣伝し、期せずして100%の宣伝効果をあげる」という一点に集約します。つまり、市名の変更の目的は、トヨタ自動車工業株式会社を宣伝することである、と単純明快に言っているわけです。トヨタ自動車工業株式会社の繁栄がすなわちこの市の繁栄である、と信じてのことです。

思うこと

歴史の長い「挙母」という地名ですが、その名前がその地方の産業に寄与することはないでしょう。また、市民にとっても、間違えられやすい、あるいは読みにくい市名という印象はあっても、愛着を感じるということは相対的に少ないでしょう。それなら、多くの市民が関わりを持つ「豊田」を市名にした方が都合がよい、というのも仕方がないのかもしれません。でも、市名を「豊田」に変えずに「挙母」という呼称を続けていたら、「大したものだ」と感じる人もすくなくはないと思います。もし豊田自動車工業株式会社側が「豊田市」に反対意見をのべていたならさらに評価が高まっただろうと思います。

結局、代表的な企業の名前を市名にするということに追随するところはその後あらわれませんでした。

すでに触れた「豊田市史」でもこの件について、次のように書いています(豊田市史 4 p.344)。

この豊田市への市名変更は、わが国の昭和史に重要な比重を占めることになるであろう高度成長期の初期という一時代の中で起こった象徴的な歴史的事実である。(中略)市民のトヨタ自工への期待も、反対の声を押し切ってまで、あえて市名を変更し、企業を援助する行動を是認するほど大きかったとみることができよう。(中略)高度成長期と呼ばれる時代が過去のものとなり、人々の企業に対する意識も変わっていくのは必然であり、変えられた豊田市の名とその変更の経緯は、昭和史の中で高度成長期が語られるたびに、この時代を理解するエピソードの一つとして生き続けるであろう。


参考文献

(*1) 誤解された地名「日立」 郷土ひたち 第42号 pp.1-58 郷土ひたち文化研究会 平成4年3月31日発行

(*2) 光海軍工廠. (2012, July 11). In Wikipedia. Retrieved 08:23, July 2, 2014, from http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%85%89%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%B7%A5%E5%BB%A0&oldid=43282288

(*3) 光市. (2014, April 28). In Wikipedia. Retrieved 08:22, July 2, 2014, from http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%85%89%E5%B8%82&oldid=51496413

(*4) 伊勢市のおいたち

(*5) 関東醤油番付 (天保11年(1840)) (リンク切れのため、リンク先を変更しました[2019/6/16])

(*6) 野田の醤油発祥地 (リンク切れのため、リンク先を変更しました[2015/8/22])

(*7) この本の参照箇所を表現するのは簡単ではありません。シリーズものの1冊であることと章立てが分かりにくいからです。「地名を守る 都市と文化所収」とありますが、「明日の都市」という全20巻のシリーズの第11巻のタイトルが「都市と文化」です。内容は第一部から第五部でできており、その第二部が「都市づくりと文化」で、その中は三つのパートに分かれていて、その3番目が「歴史的環境の保存と創造」と題され、そこにI, IIの二つの論文があるうちのIIが目的の「地名を守る」です。「明日の都市」―第11巻「都市と文化」―第二部「都市づくりと文化」―「歴史的環境の保存と創造」―II「地名を守る」という階層構造です。一冊の本としてみれは第11巻のタイトルである「都市と文化」が書名になるのでしょうが、茨城県内図書館情報ネットワークで検索すると「都市と文化」では検索できず、シリーズ名の「明日の都市」で検索する必要がありました。さらに、上記で"三つのパートに分かれて"とかきましたが、このパートには番号のようなものがないので、探すのに手間がかかります。しかもこのパート分けは第二部のみにあり、ほかの部にはありません。第二部がI, II, III・・・・と分けていくとXI、つまり11の項目になり多すぎるということから三つのパートに分けたのでしょうか。 [この注は 2014/8/1 追記]



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