相輪橖(そうりんとう)銘文の比較


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はじめに

このページは古文の表記内容を対象としているため、できるだけ原文で使われた文字をそのまま使用しています。具体的には、JIS漢字、つまり第1~4水準、補助漢字を含む範囲を使用して書いています。さらに一部ではJIS漢字でない文字も使用しています。たとえば「樘」(木へんに"堂")など。私のパソコン環境で入力、画面表示、プリンター印刷は正常になされる確認していますが、パソコンによっては文字化け等があるかもしれません。ご承知置き願います。

辞書については、主に漢字源を参照し、そのほか漢字典、漢辞海、中日辞典を参照しました。漢字源は「JIS漢字全て(第一・第二・第三・第四、補助漢字)を収録した。また、正字とJIS字形との異同を明確にし(編者のことば)」とあり、このことでたいへん参考になりました。

漢字源 改訂第四版 藤堂明保・松本昭・竹田晃・加納喜光編 学習研究社 2007年3月
旺文社 漢字典[第二版] 小和田顕・遠藤哲夫・伊藤倫厚・宇野茂彦・大島晃編 旺文社 2008年
全訳 漢辞海 戸川芳郎監修 佐藤進・濱口富士雄編 三省堂 2002年
講談社 中日辞典 第二版 相原茂編 講談社 2002年


相輪橖の銘文

延暦寺相輪橖には銘文が刻まれています。その文章は写し取られていろいろな形で残されました。

私が現在(2014/3/24)までに目にすることができたのは5種類です。実は、延暦寺相輪橖自体はまだ見ていません。

(1)叡峯相輪樘銘詳解 野鶴釋妙馨著 国立国会図書館近代デジタルライブラリで参照可能 原本は明治23年刊 以下、「相輪樘銘詳解」と略称する

(2)伝教大師全集第五 比叡山相輪橖銘 国立国会図書館近代デジタルライブラリで参照可能 コマ番号219- 以下、「全集相輪橖銘」と略称する

原本は「天台霞標所錄」、對校本は「元文元年刊本比叡山相輪橖銘略釋全一巻」との記載あり。

(3)伝教大師研究 比叡山相輪樘について PP.1045-  西村冏紹 以下、「研究仁和寺目錄」と略称する

仁和寺御經蔵聖敎目錄について解説したもの

(4)建築雑誌 相輪橖 建築雑誌11(127) pp.220-225 1897/07/25 CiNii本文収録刊行物ディレクトリで参照可能 以下、「建築雑誌相輪橖」と略称する。

比叡山西塔院相輪橖納經目錄を紹介したもの。著者は"T.I.生"とのみ記載されている。

(5)相輪橖御建立略記幷御銘文 日光山輪王寺史 pp. 310-  

日光山輪王寺相輪橖の銘文で、末尾に「大僧正天海誌之」とあり、比叡山相輪橖銘を僧天海が模写したものとされている。以下、「輪王寺相輪橖御建立銘文」と略称する

銘文の比較方法

ほとんどが同じ文章であることが予想されるため、基準を一つ設定して、それとの差異を抽出することにしました。基準を何にするかですが、(2), (3), (4), (5)は古くから伝えられてきた文章をまとめたもの、(1)は古くから伝えられてきた文章の内容を解説したもので、内容を考えるときに解説があった方が便利だろう、ということで、(1)の「相輪樘銘詳解」との相対比較をしました。

比較の基準とする銘文

「相輪樘銘詳解」における相輪橖銘文は以下のようになっています。

葦芽開廓 天主下生 短歌長歌 未防魔兵
第三十主 初開梵甍 沈像焼舍 法鼓未鳴
聰耳立憲 乃信三明 使歸南岳 請經野鄕
因果冷然 開悟群盲 時機未熟 淘汰五驚
天王出家 感得太平 受菩薩戒 四車轟轟
海内諸州 制底縱横 雖設法筵 未遣五莖
豈若先帝 憑天台評 新立圓宗 永塡火坑
年年両度 紹隆妙行 爲悅冥道 起斯輪樘
叡嶺秀聳 朝影北都 神岳嵯峨 夕臨東湖
山王一等 思存給孤 法宿爲號 開顯毘盧
亦塔亦幢 延壽安身 惟經惟呪 護國濟人
金刹放光 汲引迷津 寶鐸流聲 發開龍神
我等發願 渴仰文殊 十生出現 普施髻珠
信謗両友 倶會四衢 同乘寶車 恒遊寂區
長講妙法 常轉妙輪 五忍恒說 永息魔瞋
生界未盡 此願不泯 成住壞空 不散此塵

    弘仁十一年歳次庚子九月中旬沙門最澄撰

銘文の比較結果

以下、文字の相違について、「相輪樘銘詳解」の文字を示し、その右に他の4種の銘文でどのような違いがあるかを並べて表示します。「全集相輪橖銘」、「研究仁和寺目錄」、「建築雑誌相輪橖」、「輪王寺相輪橖御建立銘文」という順序で、「相輪樘銘詳解」の文字と同じ場合には"◎"で、異なる場合にはその文字をあらわすことにします。

聰◎聽◎聦
乃◎仍◎◎
岳嶽◎◎◎・・・・字体の相違のみ
經◎◎◎経・・・・字体の相違のみ
因◎◎◎囙・・・・字体の相違のみ
冷◎令◎◎
群羣◎◎◎・・・・字体の相違のみ
淘◎◎洮洮・・・・別の字だが、"淘汰"と"洮汰"は同じ(漢字源)で、字体の相違のみと同等
王◎◎◎皇
轟轟轟轟々・・・・"轟轟"か"轟々"かという違い
縱◎◎◎縦・・・・字体の相違のみ
設敷敷敷敷
坑◎◎◎■(土へん+允)
年◎◎◎々"年年"か"年々"かという違い
樘橖◎橖◎
神◎◎◎神・・・・字体の相違のみ
爲◎◎◎為・・・・字体の相違のみ
顯◎◎◎顕・・・・字体の相違のみ
毘毗◎◎◎・・・・字体の相違のみ
呪◎咒咒咒・・・・字体の相違のみ("咒"は"呪"の旧字体)
寶◎◎◎宝・・・・字体の相違のみ
寶◎◎◎宝・・・・字体の相違のみ
常恒恒鎭恒・・・・"常"と"恒"は"つねに"ということで同じ意味。"鎭"は別。
此◎◎斯◎・・・・"此願"か"斯願"かという違いで"此"と"斯"は同じ意味。


(1)字体の相違など

複数の字体を持つ文字があります。たとえば、「群」と「羣」、「毘」と「毗」。文字のパーツを上下に並べるか、左右に並べるかの違いです。また、「岳」と「嶽」の様な新旧の字体の違いの場合もあります。

同じ様な意味の文字を使用している場合、特に問題がなければ、字体の相違に準じたものとして取り扱ってよいと思われます。また、二文字を繰り返す時におどり字("々")を使うかどうかという相違の場合もあります。

これらは、おそらく銘文を書き写した時代の標準的な表記をした結果でしょう。これらについては、ここでは議論の対象外とし、以下では、それ以外について考えてみました。


(2)字体の相違などの場合以外

検討結果を以下に示します。

聰◎聽◎聦・・・・"聰"は"聡"の旧字体、また"聦"は"聡"の異体字(新字源)ということなのでこれは問題なし。"聽"は"聞"の旧字体で全くの別の文字です。ここは"聡耳"という表現で、一度に10人が話す言葉を聞き分けたという伝承のある聖徳太子を指しているところで、"聡"であれば意味が通じますが、"聞耳"では"耳がすぐれている"、という意味にならず、従って"聽"は誤字と思われます。活字や楷書では"聰"と"聽"は明らかに別字と分かりますが、筆で書かれた行書体の様な文字を見た時には混同しやすいと考えられます。文章をそっくり写し取る時には、文章の意味に囚われず、文字のみをひとつひとつ読んで書いていくのが一般的には望ましいのですが、その場合、形が似ていて意味が異なっている文字と取り違える可能性がでてくるということは想像できます。


乃◎仍◎◎・・・・"聰耳立憲 乃信三明"の部分ですが、立憲とは聖徳太子による十七条の憲法の制定を言っているところです。"乃信三明"は意味不明で、これはペンディングです。


冷◎令◎◎・・・・"因果冷然"というところで、"因果冷然"に対して"因果令然"はどうでしょうか。"因果冷然"は、原因があればその結果が"冷たくきっぱりと"あらわれる、という意味と私には思えます。"冷"は基本的に"冷たい"ですから、たとえば温情とか思いやりなどによってあいまいになるようなことがなく、ありのままに明確に現れる、というニュアンスです。いっぽう、"令"は"命令"とか"規則"です。これも"きっぱり"というニュアンスにつながりますが、状態を示す文字である"然"とはつながりにくい印象で、ここは"冷"であるべき、と感じます。ただし、"冷"と"令"はかつては混用された時代があった、という可能性はあります。


王◎◎◎皇・・・・"天王"、"天皇"というところです。じつは、相輪橖の銘文に興味を持ったのは、日光・輪王寺相輪橖の写真を撮ったとき、"天皇出家"という言葉が写っていて、"天皇が出家し"とは穏やかではない、これはいったい何のことだろう、と思ったのがきっかけです。5種類の銘文で"天皇"と書いてあるのは僧天海による「輪王寺相輪橖御建立銘文」だけです。"天王"とかいて"天皇"を示す、ということはありますが、なぜ文字を変えたのでしょうか。原文が日本の天台宗の宗祖である伝教大師・最澄によるものであり、その文字を変える、というのは、字体を簡略化する、という場合を除けばあってはならないことではないでしょうか。「輪王寺相輪橖御建立銘文」で字体の違いのようなものをのぞく文字の違いは、これと、後述の"設法筵/敷法筵"の2個所だけです。ではなぜ"天皇"とわざわざ書いたのか。
関連する情報があります。第132回企画展 輪王寺の宮。これは輪王寺の企画展の紹介ページなのでいつまで見ることができるのか不安ですが、参考になりそうな記述がありますので、以下に引用します。(2014/4/1 リンク確認済み)

天海大僧正が亡くなる際、遺言の中に、後継者として皇族を迎えるという内容がありました。自分の後継者として皇子を迎え、天台宗の統括を計るという意図があったとされますが、対象となる皇子が幼少だった事で猶予が必要となり、生前それを果たすことは出来ませんでした。
 天海大僧正の遺志を受け継いで日光山第54世貫主となった公海大僧正は天海大僧正の作り上げた体制を堅持し、親王を迎える環境作りに尽力します。そして1654(承応3)年11月11日、後水尾天皇の第3皇子守澄(しゅちょう)法親王が公海大僧正の跡を継いで日光山の住職となりました。
 1655(明暦(めいれき)元)年11月26日、朝廷からの院宣(いんせん)により「輪王寺宮(りんのうじのみや)」の称号が与えられ、以後、法親王が輪王寺住職を勤める事となります。歴代輪王寺宮の殆どが比叡山延暦寺の天台座主に着任し、東叡山(上野寛永寺)に住していました。

輪王寺相輪橖の完成が寛永20年(1643年)で、この年に天海大僧正がなくなりますが、天皇の皇子を関東の天台宗のトップに据える、という願いを遺言に残しています。わざわざ"天皇"と書いたのはその願いが強かったのでしょう。最澄が書いた文章では"天王"ですが、意味するところは"天皇"です。しかし、もっと明確に表現したかったのでしょう。天皇は京にいるが、関東にも天皇がいる、と宣言したかったのではないでしょうか。
したがって、ここは意図的に漢字を変えた、と考えます。


設敷敷敷敷・・・・これは他にないパターンです。"設法筵"という原文が他ではすべて"敷法筵"です。法筵(ほうえん、大和言葉では"のりのむしろ")は"設ける"のか"敷く"のか。もともとも"敷設"という言葉があるくらいですから、似た意味があるのかもしれません。筵(むしろ)なら"敷く"を結びつけるのは大和言葉では当然ですが、中国語ではどうでしょうか。ネットで検索すると、"設筵"については中国のサイトの"漢典"に出ていましたが、"敷筵"はそこには登録されていませんでした。中国では"筵"は"設"する、つまり"設ける"と表現するもののようです。ただしこれだけでは根拠が不十分で、断定するのはまだ早いですね。中国語に詳しい人に相談できるといいのですが。ここでは、ひとまず、中国語としては"設法筵"が普通で、日本人の感覚とすると"敷法筵"の方が適当と感じる、という様に理解してみました。最澄は中国(当時は唐)に行っていますので、当然、中国語はよく理解していたのでしょうから"設法筵"という発想になり、それほど中国語に詳しくない後世の人はそれがなじめなく、"敷法筵"(つまり、筵は敷くもの)と書いた、と考えます。


坑◎◎◎■(土へん+允)・・・・異体字の種類なのでしょうか。使われている漢字が辞書にないのでペンディングです。


樘橖◎橖◎・・・・"相輪樘"か"相輪橖"か、という違いです。今回、相輪橖の銘文を検討するまては、延暦寺は"相輪樘"、それ以外の輪王寺や西蓮寺などは"相輪橖"というように使い分ける、という印象を持っていました。たとえば、次の文献では"延暦寺相輪樘"、"西蓮寺相輪橖"と使い分けています。

足立康 塔婆建築の研究 中央公論美術出版 昭和62年12月10日
  一八 延暦寺相輪樘の形式 (pp. 319-)
  一九 西蓮寺相輪橖に就いて (pp.328-)

ですが、そうでもないですね。延暦寺でも"相輪橖"と書かれることがあるようです。私が相輪橖の実物を見た輪王寺、西蓮寺、それから栃木県の大慈寺、群馬県の浄法寺は全て関東、しかも北関東(茨城、栃木、群馬)ですが、すべての説明板の文章は"相輪橖"でした。そのほか、徳川幕府の正史である徳川実紀に相輪橖の記事が、完成前後の寛永19年~20年にいくつか出てきますが、こちらは「相輪塔」で統一されています。日光山志ではその巻五に相輪樘という項目が立てられ、解説文には、「輪樘の銅柱」、「樘の圖は」など、もっぱら「樘」の文字が使われています。このように表記方法が一定しないのは相輪橖がそれほど広く知られたものではなかったということなのでしょう。いずれにしても相違の詳細はペンディングです。

徳川実紀 国会図書館・近代デジタルライブラリーで参照可能 寛永年間の記事は国史大系. 第10巻に含まれます。

日光山志(大日本名所図会. 第2輯 第2編にあり) 国会図書館・近代デジタルライブラリーで参照可能


常恒恒鎭恒・・・・"常"と"恒"は同じ意味で、写し取る作業としては別の文字をかいたので間違いと言えますが、意味は変わらないので程度は軽いといっていいでしょう。"鎭"は全くわかりません。上記した"聰"と"聽"の様に形が似ている、というものではありません。"鎭"が書かれたことは推測も全くできません。


(3)本文以外

本文の題名の有無や作者名の表示などの部分はいろいろですが、他の文章とのかかわりあいから決まることもあり、ここでは取り上げません。

ただし、1点だけ注目すべきことがあります。文章を作成した日付があるものとないものとがあり、日付が入るものは「相輪樘銘詳解」、「研究仁和寺目錄」、「輪王寺相輪橖御建立銘文」の3本です。このうち、最初の二つは"弘仁十一年"で、最後のものは"弘仁十三年"で、これは不思議なことです。延暦寺相輪橖が造られた年は、この弘仁十三年と書かれた1本以外は今まで見たものの全てが弘仁十一年としています。ちなみに弘仁十三年は最澄が没した年です。

日光山輪王寺史に納められた相輪橖御建立略記幷御銘文はいわゆる影印のもので、つまり手書きの原本をフォトコピーしたものです。ただし、天海直筆のものでしょうか。

寛永二十癸未歳
    卯月如意日
  山門三院執行探題前毘沙門堂門跡
             大僧正天海誌之

「天海誌之(これをしるす)」とあり、天海が書き記したことになりますが、相輪橖完成の年は天海は満107歳、107歳の人の字にしてはあまりにも整っています。天海が最後の年にどのくらいらしっかりしていたのかは分かりません。たとえば、その年、相輪橖完成直後に日光を往復しているようです。前記の徳川実紀の寛永20年6月10日の記事に以下の様なものがありました。

十日大僧正天海日光山より歸謁す。午後王子村邉へならせらる。

行動的な様子が分ります。でもこの文書をよく見ると、各行の各文字が水平方向にも整列しており、またレ点、一二点、送り仮名が付けてあります。自筆なら、このようにはならないでしょう。誰かが天海の直筆の文書を書き写したものと思います。その時に写し間違いをしたのでしょうか。でも、書き写した人は天台宗の内部の、ある程度信頼された人でしょうから、延暦寺相輪橖完成年を天台宗祖最澄の没年と間違えることは考えにくいのも確かです。もしかして、後代になって書き写した人が、日光山あるいは関東の天台宗が繁栄する基礎を固めた大僧正天海の没年と輪王寺相輪橖造立年が同じであるということと、宗祖最澄の没年と延暦寺相輪橖造立年の関係とを混同したのかもしれません。天海と輪王寺相輪橖のことは比較的身近な時代のことであるのに対し、最澄と延暦寺相輪橖造立のことは随分昔のことであり、もしかしたら、という気もします。いずれにしても僅かな状況証拠をもとにいくら推測しても仕方がないことではありますが。



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