【13】茨城県行方市 西蓮寺 相輪橖


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茨城県行方市に西蓮寺があります。

その仁王門と相輪橖(そうりんとう)が国指定重要文化財に指定されています。


場所は霞ヶ浦の東岸の中ほどになります。

13.相輪橖

13.相輪橖

西蓮寺のもう一つの重要文化財である相輪橖(とう)です。

高さは9m余りで、それほど巨大なものではありません。

下から、、基壇、 橖身、頭部の三つの部分で構成されています。

橖身は上がすぼまる形の円筒を10個つないだ形をしています。
あとに出てきますが、内部に木製の芯があるので、木製の円柱を10枚の銅板で巻いたもの、
というのが実情に適した表現でしょう。

比叡山延暦寺の相輪橖、日光輪王寺の相輪橖とともに日本三相輪橖と呼ばれているそうですが、
デザインはどれも異なります。

延暦寺と輪王寺のものは下部に4本の短い柱を立てて本体を支持していますが、
西蓮寺の相輪橖には支持する柱はありません。

また延暦寺のものは、五重塔や三重塔の相輪によく見られる9個の輪を縦に並べた
ような構造ですが、輪王寺と西蓮寺のものは上に向かってつぼまる円筒の形状です。

さらに、西蓮寺のものは上部に大きな輪が乗りますが、他の二つにはそのようなものは
ありません。

どうもよくわかりませんね。

14.頭部

14.頭部

頭部には厚みのある大きな円板があり、小さくて薄い円盤が3個を1組として4箇所にぶら下げてあります。

最上部は、仏塔の相輪の最上部にある宝珠に相当するのでしょうか、
球形に炎の様な装飾が付いたものです。

火焔ですね。

すでに、【11】茨城県竜ヶ崎市 来迎院多宝塔 のところで取り上げました

この写真では、火焔宝珠の正面の半球の中央に火焔があります。

反対側を見てみましょう。

15.頭部-反対側から

15.頭部-反対側

火焔が左右に2枚付いています。

つまり、この火焔宝珠の表面には、火焔の様な装飾が120°の間隔で3枚付いているのです。

火焔が180°の間隔で2枚、あるいは90°の間隔で4枚付く、という形は他にあるようですが、
120°の間隔で3枚というのは他にあるのでしょうか。


次に、小さくて薄い輪を見ます。合計12枚ぶら下がっていますが、等間隔で3枚ずつ並んでいるように
見えます。どのようにぷら下がっているのかははっきりしません。

16.頭部の拡大画像

16.頭部の拡大画像

アップしてみました。

上の6枚は水平の金属板に切り込みがあり、そこに掛けられているようです。

一つ疑問がわきます。
強風でこの輪がゆられて、切り込みから外れることはないのでしょうか。
地面に落ちることはないですけど、高さは9mくらいあるので、もし外れると元に戻すのは簡単ではありません。
外れないような仕掛けは特に見当たりませんね。

下の6枚については、等間隔に保たれるのはなぜか分りません。
この写真では大きな輪に隠れてよく見えませんが、写真14、15を見ても
切り込みがあるようには見えません。


17.橖身の上部

17.橖身の上部

橖身を上から下に順に見ていきます。
金属板のつなぎ目には幅の狭い金属製の帯が巻かれています。(備考2 銅帯について)


上から3段目に細かな文字が見えました。

何段にもわたっていろいろな文字が刻まれています。

読めそうな文字を探すと、ありました。


18.橖身の文字-1

18.橖身の文字-1

これなら大体は読めそうです。

為弘安之戦勝紀念弘安十年中興慶辦建立

慶長九年舜海代修繕天保十二丑年八月旭諄代

再建新庄直計殿塔心木寄進


2行目の「丑」の字はちょっと違っていますが、ここに入る文字としては十二支の文字が一番考えやすく、
実際に天保十二年は丑年なので間違いはないと思います。

3行目の「寄」の字は字体が違っていて、「うかんむり」の下に「竒(奇の異体字)」という字です。
文字コードが割り振られていないので、それに近い「寄」で代用しました。

以下の様に解釈しましたがどうでしょうか。

(この相輪橖は)弘安の役の戦勝紀念のために、弘安十年(1287年)、(西蓮寺を)中興した慶辦が建立した

(注:元・高麗連合軍が九州を襲った弘安の役は弘安4年(1281年)です。)

慶長九年(1604年)、舜海の代に修繕した。天保十二年(1841年)八月、旭諄の代に

再建された。新庄直計殿が塔心木を寄進した

(注:新庄直計(なおかず)とは麻生藩第12代藩主。)


なお、「代」の字の解釈には自信がありません。

隣には「明治36年」の文字があります。
これは大分新しい。鎌倉時代から一気に明治時代です。

19.橖身の文字-2

19.橖身の文字-2

読んでみましょう。

明治三十六年五月當山五十六世昭天代

再建喜捨芳名

そのあとに金額と名前が列挙されています。

先頭に子爵新庄直陳殿とあり、麻生藩主の子孫でしょう。
上に「新庄直計殿が塔心木を寄進」とあり、この地では新庄家が圧倒的な有力者なのですね。
敬称が付くのはこのひとりだけのようです。

また二人目以降は名前の前に所在地(井上、出沼、麻生、行方、手賀・・・・と続く)が書かれます。

この相輪橖は明治36年に再建されたということですね。


ところで、明治三十六年の再建の記事の文字と、最初に示した弘安十年(1287年)の建立の記事は
刻んだ文字の風化の進み具合がほとんど同じです。
どちらも、明治三十六年の再建の時に刻みこんだものでしょう。


文章として読めるのはこのくらいです。
残りは人名のオンパレード。


20.橖身の文字-3

20.相輪上部の拡大画像

輪と輪の接続部の細い帯のところにもぎっしりと人命が刻まれています。

21.橖身の文字-4

21.橖身の文字-4

22.橖身の文字-5

22.橖身の文字-5

みていてくらくらしてきます。

23.橖身の文字-5

23.橖身の文字-5

思い切って拡大してみました。

おせん、おみや、おいぬ、・・・・。ひらがな3文字は女性の名前でしょう。
女性の名前が多い。半分以上かもしれません。
日本では永いこと女性は軽んじられてきたという歴史がありますが、
これを見るとそのような事は全く感じられません。


ただし、この様に行の並びをきちんとしない書き方では、漏れが生じやすいはず。

これだけ多数の人名を記録するとき、帳面の記載をみながら字を刻んでいったのでしょうが、
縦横の並びをきちんとしないと、もれが出やすいですし、
それを後でチェックするのもやりにくい。


明治36年の記事ではこのように縦線が引かれています。

24.橖身の文字-6

24.橖身の文字-6

書く文字数が多くなるほどきちんと書かないと間違いが起こりやすい。
写真20~23では書き間違い、書きもらしがないようにと注意を払った様子が見えません。
どのような事情があったのでしょうか。


25.橖身の文字-7

25.橖身の文字-7

最後に一枚。

名前が縦書きで横並びに刻まれた後に、すこし間をおいて、何か書いてあります。

○○村大工○○○

私は相輪橖を作った大工の署名と見ました。

上で見た明治36年の記事の書体より文字の風化が進んでいるように見えます。

天保十二年(1841年)の再建では塔心木が寄進された、と書いてありましたから、この時は
全面的に造り換えた可能性があります。


新編常陸国誌(上で紹介済みの本)を見ると、P.77から行方郡の記載があります。
その前のページ(ページ番号なし)には詳細な地図があります。

地図には井上郷の名前があり、その中に西蓮寺、井上、出沼、藤井の地名があります。
同書P.79には【井上郷 為乃宇陪】の項があり、その中にこういう記載がありました。
「・・・・井上、藤井、出沼、西蓮寺[コヽに西蓮教寺アリ、出沼西蓮寺と称ス、舊一村ナレバ也]」、
四村千九百餘石ノ地、皆古ノ井上郷なり、・・・・」

井上を含む四村、と言っているので、井上村があったのでしょう。

いまも井上という地名は西蓮寺の近くにあります。


井上村大工○○○


この人が今まで見てきた膨大な数の人名を刻み込んだ、と私は考えます。

1841年と言えば江戸時代末期です。その時に再建工事を担当した大工が
膨大な数の人名を刻み込んだ後で、最後に自分の名前を刻みこんだ、と考えると、
何かしみじみとしたものを感じてしまいました。


実を言うと、天保十二年(1841年)の再建時のものがそのまま残っているのか、ということは
確かではないのです。

170年前の銅板、どのくらい痛むものでしょうか。


【感想】

相輪橖にこのような膨大な数の文字が刻まれているとは全く予想外でした。

この記述内容がどこかに記載されていないか探しましたが、まだ
見つかっていません。(備考1 相輪橖表面の文字について)

じゃあ自分で撮るか、となりますが、この撮影は難しいですね。

ベストは、解体修理の時に分解した物を撮影する。

相輪橖が立っている状態なら、クレーンとは言いませんが脚立を建てて、撮影対象と
できるだけ高さを近づけた位置にカメラを置いて撮る。

寺院ですからそれも無理か。

一周できるわけでもありません。

それなら、ある程度離れたところから超望遠レンズで撮る。

今回使用したレンズは200mmまでのズームレンズで、ほとんどが200mmで撮っています。
400~500mmのレンズが望ましい。

むずかしいですね。


さてここで振り返ると、茨城県内の重要文化財指定寺院建築を撮ろうと決めて、
1/12に対象寺院9寺をリストアップし、1月の佐竹寺から3月の西蓮寺まで
目標の9寺を一通り撮り終え、当サイトへのアップが4/9で終了となりました。

もちろん季節を変えて、見方を変えて、また私の理解度も深めつつ撮り続ける
べきでしょうが、ひとまずは区切りと致します。


佐竹寺(常陸太田市)、仏性寺(水戸市)、薬王院(水戸市)、
小山寺(桜川市)、善光寺(石岡市)、楞厳寺(笠間市)、
龍禅寺(取手市)、来迎院(竜ヶ崎市)、西蓮寺(行方市)

皆さま、ありがとうございました。


【備考1】相輪橖表面の文字について

相輪橖表面の文字に注目した資料を二つ見つけました。

(a) 史窓 第10号 調査報告 西蓮寺と相輪橖 水戸第一高等学校史学会 昭和33年2月28日発行

(b) 重要文化財西蓮寺相輪橖修理工事報告書 重要文化財西蓮寺相輪橖修理委員会編 昭和52年(1977年)3月31日発行

概要のみを以下に記します。

(1)資料(a)の調査報告は、水戸一高史学会が昭和32年7月に一泊二日で西蓮寺に赴き、文字部分の拓本を取って
分析したもので、とにかく確実な情報は得られなかったが、慶長九年と天保十二年に二回修理したと刻まれていること、
数は少ないが苗字を含む人名があり、その印象からは天保の修理の際に刻まれたと考えるのが適切と思われる、としている。

これは、元寇との戦勝記念に建立した、と刻まれていることと合致しないが、当時の住職の熱心な再興運動に応じて
多くの人々が喜捨し、この橖に名を刻んでもらったのではないか、としている。
さらに、こうしたことは常行三昧の法要と表裏をなすものではなかろうか、と推測する一方、元寇に関わる伝説も
一概に否定することはできない、と書いている。

(2)資料(b)は、解体修理をした結果であり、多くの発見がなされ、「建物の由緒・沿革・建築技法等に関しても調査の及んだ
範囲で記載しておいた」、と序文にあるように、単なる工事の記録にとどまらない。
基本的には、由緒・沿革などを示す物がこの相輪橖自身にはほとんどないが、刻まれた人名を過去帳とてらしあわせた結果、
江戸時代中ごろの数十年の間に限る人名を確認できた、また鏨(たがね)に依る刻銘の処方からは江戸時代中期と判断
できる、としている。

元寇との関係については、「弘安十年中興慶弁建立」の文章だが、慶弁阿闍梨なる人物の所伝が不足で、また
西蓮寺中興の第一世は寺伝には東範僧正とされていて疑問が残る、としている。

今回の解体修理で大きな発見があった。擦管(さっかん、相輪橖の中心の搭にはめられた10個の管)の裏面に
「貞享五年大工●●●」と彫られていたのである。つまり貞享五年(1688年)に解体修理が行われたのである。
このことから、多数の人名が刻まれたのは、貞享五年の解体修理のとき、そして、人名の多さ、刻まれた村名の範囲等を
勘案すると、常行三昧講の僧俗をあげての協力によりそれがなされたのではないか、としている。

(3)以上により、現在は、相輪橖の建立は江戸時代との説に傾き、元寇とのかかわりは根拠が薄い、と考えるのが適切な
ようです。また、彫りこまれた多数の人名は、常行三昧講に参加した人々であろうと考えるのが妥当と思われます。

なお、(a)の水戸第一高等学校史学会による調査報告は、解体修理の19年前の調査であり、検討の材料としては
橖管の表面の文字だけだったにもかかわらず、建立時期については元寇との関わりに否定的で、江戸時代を有力視し、
また多数の人名については常行三昧講との関わりを指摘している事は実に鋭い分析で、高く評価されてしかるべき、
と思います。

[以上は2013/4/15に追記]


【備考2】銅帯について

檫管と檫管の接続部にある金属の帯をここでは、相輪橖修理工事報告書に従い、銅帯と呼ぶことにします。

重要文化財西蓮寺相輪橖修理工事報告書(昭和52年3月31日)

檫管が10個接続しているので、銅帯は9個あることになります。この"9"の意味について言及している資料を見つけました。

仏教大辞典 第三版 望月信亨 日本聖典刊行協会 昭和35年7月30日

この資料の「ソウリン トウ 相輪橖」の項に以下の記述があります。

常陸西蓮寺のものは・・・・中略・・・・其の竿の部分に九個の圓輪を貫きて九輪を表示せり。

一般に、相輪において形状が最も大きな要素は九輪ですが、それに対応するものだということです。通常の相輪では
檫管と呼ばれる中央の棒状のものがありますが、西蓮寺相輪橖ではその檫管が太くなり、九輪と同じ太さになっている、
ということでしょう。銅帯を相輪における九輪に対応させるならば、檫管が10個重なっているという構成についても
納得できます。

[以上は2014/2/27に追記]


【追記】

最初は、西蓮寺の二つの重要文化財である仁王門と相輪橖をまとめて1項目としていましたが、このシリーズは
重要文化財というくくりで取り上げたものなので、仁王門と相輪橖を別項目に分けました。ただし、記載内容は
実質的に変わりません。 (2013/9/2)



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