小品いろいろ
[2025/1/8]
【60】「Think clearly」を読んで
私にとって、この本は「いわくつきの本」です。
ロルフ・ドベリ著 安原実津訳 Think clearly サンマーク出版 2020年6月 初版第28刷
「いわくつき」とはどういうことかというと、「この本を、同じ店で、2冊買っている」のです。店というのは"ブックオフ"です。
今回、立ち読みしていて、これは読んでみよう、と思い、買ってきて、部屋の本棚に置こうとして、その時に、「あれっ、この本は以前に買っていなかったかな」と、なんとなく思ったのです。
本棚を探すと、「ありました」。立ててあるのではなく、倒れた状態で、さらに別の紙が上に載っていて、目立ちません。
でも、書店で立ち読みしていた時には「以前に買った」という記憶は感じられずに、買ったのです。書棚を目の前にして「買っていたかも」と感じたのは、私の部屋の書棚に置いた状態でのこの本のタイトルのイメージが、記憶に残っていたのでしょうか。
前回買ったのは、数か月前のことでしょう。その後、読まずにいたのです。
まあ、買ったけれどまだ読まずにいる本は、いつも10冊くらいは本棚にあります。
5か月前に読んでみようと思った本を、読まずにいて、その5か月後にその本を書店で立ち読みしたら、また買って読もうと思うでしょうね。内容が興味を引くものなのですから。
このような"いわく付き"の本なので、さっそく読んでみました。
本文だけで400ページを越えるぶ厚い本を読み通すことは、最近ではめっきりなくなりました。集中して読むことは久しぶりです。
それだけ、内容に共感することが多かったということでしょう。
ここには、52のトピックについて書かれています。とても共感できることや、あまりピンと来ないところなど、いろいろです。
気になったところには、赤ペンで書き込みを入れました。
以下では、そのような、「赤ペンで書き込みを入れたところ」について、書いていきます。
この章の冒頭に、「文章がどんどん書けるようになる秘訣」というサブタイトルが出てきます。
その秘訣とは何でしょうか。
何を書くか、というアイデアは、「考えているとき」にではなく、「書いている最中」に浮かぶということだ。
文章の書き方について教えているものは、世の中にいろいろとありますが、最近は「結論を先に書いて、その根拠を続けて書く」という内容がほとんどです。
私がこのサイトに書き散らした文章は、そうなってはいません。
結論を考え出すと、前に進めないのです。
そうではなくて、とりあえずこのようなことを書こうと決心し、書き出すと、疑問が出てきて、それを調べて、また考えて、というように進めていくと、意外な展開になり、最初は考えていなかったことに行きつくことがあります。
うまくいくと、思いがけない発見が出てくるのです。
もちろん、うまくいかないことも多いです。
何の発見もなく、話は一向にまとまらず、書き出した記事は没になることも多いのです。
あるいは、判断に迷うことが出てくることがあります。その場合、「可能性が見つかった」としてまとめてしまうこともあります。
割合は少なくても、思いがけない発見に行きつくことができたときの喜びはひとしおです。
でも、可能性でも、あとからその可能性が正しいとわかったなら、その可能性を事前に見つけることができたわけで、うれしいでしょう。そう思って、格段の発見ではなくても、一応は文章をまとめることも多いです。
書きながら考える、というやり方がよい理由として、著者は「この世界が不透明で見えにくいから」と言っています。この考え方は、この後、何度も出てきます。
「この世の中は考えているよりずっと複雑である」とか、「この世の中を理解する能力を人間はもっていない」など。
ここでは、ほかに二つのことが言及されています。
一つは、「いくら考えても限界があり、思考の飽和点に近づいてしまう」ということです。この"思考の飽和点"という考え方は初めて知りました。
考えれば考えるほど思索が深まるのではなく、考えていくと、それ以上は進まないというわけです。
もう一つは、行動する(書く)よりも考えることの方がラクだ、という指摘です。考えるだけなら失敗のリスクがゼロで、行動すれば失敗のリスクが確実にゼロより高くなる、ということです。
私がこの本を立ち読みして、買う決心がついたのは、なんといってもこの第1章が気に入ったからです。
本を買うとき、新しい知見を得るためだけではなく、自分の考え方、やり方を支持してくれる内容を読んで安心を得ることが目的であることがよくあります。
この章の終わるあたりで、パブロ・ピカソの言葉が引用されています。
「何を描きたいかは、描きはじめてみなければわからない」
ああよかった、ピカソと私はこの点でやり方が同じだ、と安心するのです。
ここでは、どのような計画を立てるにしても、つねに修正が必要になる、ということについて書かれています。
修正がなぜ必要か、なぜ重要かということを、飛行機の操縦に例をとって書いています。
例えばフランクフルト発ニューヨーク行きの飛行機が、予定されたルート上を飛んでいる割合はどのくらいか、という問いかけをします。
答えはゼロパーセントと言います。
著者は飛行機の操縦免許を持っており、さらには自家用の、古い機体らしいですが、小型機を所有していて(*)、何度も自ら操縦しています。
著者は実業家として成功してから著述業に移った人で、いわゆるリッチな人のようです。
自らの経験上、離陸したら、常に機体の向きを修正しながら飛ぶものだ、と確信しています。
国際線のジェット機でも同じで、常に補助翼が動いていることからもわかるとしています。
では、なぜ修正が重要だと強調しているかというと、計画を修正することに抵抗を持っているから、ではどうして抵抗するのかというと、修正することは計画が間違っていたから、と思ってしまうから、と断言します。
それは、第1章で展開された考え方、「世の中はきわめて複雑である」ということに通じます。
数多くの要因が複雑に絡み合っているために、完全な計画を立てることが不可能であり、修正し続けるのが当たり前、という考え方です。
そのことから、計画に時間をかけすぎるのはよくない、ということになります。
こういうことを言われると、気が楽になります。どのみち、修正は必要である、と最初から認めることが必要なのでしょう。
東海道新幹線は、予算の約二倍の工費がかかったようですが、これは、予算策定時に、当時の国鉄内部ではあまり高額な数値が出てしまったので、政治家に承認されないと考え、半分の値を出して、あとで何とかする、という考えだったようです。
ちなみに、1964年の東京オリンピックに間に合わせる、という条件だったため、工期は予定通りだったといわれています。
リニア新幹線は、すでに最初の予定の二倍に費用が膨らむことが確定していて、それでも開通の見込みが立たないと心配されています。
予算については、東海道新幹線の時のように、最初に意図的に低い予算を出した、というようなことがあったのかどうかはわかりません。
一般に、土木工事などは計画がずれ込むようなことが多いという印象ですね。
卑近な例では、私が住む市では、国道の混雑緩和のために、バイパスを作る計画が立てられましたが、最近の数年は、毎年1年ずつ完成時期が遅れています。この調子では、残りの工期が縮まりません。
多分、いつかは完成するのでしょう。完成したら、工期が伸びたことより、混雑緩和になってよかったね、と言われるはずです。完成時期が遅れた、ということは、重要ではなくなっていることでしょう。
計画より遅れて完成したとき、遅れたことより、完成したことの方が重要なのです。
重要なことがらに対しては、柔軟に対応することは不利である、と主張しています。
なぜ、頑固な態度をつらぬくほうが、長期的な目標をかなえられるのだろう、という問いを掲げ、二つの理由が説明されます。
一つは、状況に応じて何度も決断をくり返すと、判断力が鈍ってくる、という「決断疲れ」です。
疲れる結果、最も安易な選択肢を選ぶようになる。それは多くの場合、最悪の選択でもある。
もう一つは、頑固な姿勢を貫いていると、「あの人はそういう人だ」と周囲が理解して、それに合わせてくれる。
ここまで読んで、「あれ、これって、第2章の『なんでも柔軟に修正しよう』という態度と正反対ではないか」と思いました。
柔軟に修正するのと、方針を曲げずに頑固を貫くという姿勢は、正反対です。
これはおかしなことではありません。
前書きのなかに、次のように書かれています。
これまで自分が使用してきた「思考の道具箱」をまとめることにした。
道具箱には、いろいろな働きをもったものがあって当然です。
紙を二つに切るハサミやカッターもあれば、二つのものを一つにつなぐ糊や接着剤もあります。
場面に応じて使い分けるだけです。
ただし、「柔軟に修正していく」と「方針を曲げずに頑固を貫く」という二つをどのように使い分けるか、これは簡単ではありません。
その使い分けについては、本書では語られません。本書で何度も言及される「この世の中は複雑で不透明で、見通しがきかない」という考え方では、一概に言えるものではないでしょう。
私が読みとれなかっただけ、という可能性もあります。
この章は、次のような言葉で結ばれます。
結論。「柔軟性」を褒めたたえるのはやめよう。柔軟一辺倒では、不満がつのり、疲れがたまり、気づかないうちにあなたは目標から遠ざかってしまう。
妥協しないで、自分の誓約を守りとおそう。誓約を100パーセントまっとうすることは、そのうちの99パーセントだけを実行するよりも、実はやさしいのだ。
結局、道具箱にぎっしり詰まっているたくさんの道具の中から、どれを選び出して使うか、という問題は残ります。
道具を選ぶのは、あくまでも自分の力量にかかっています。
道具場に道具がいろいろと詰まっているだけで、大きな助けになるということでしょう。
この章は、私としては、ほとんど共感できませんでした。
例えば、Eメールは便利だが、迷惑メールや不要なお知らせが来るから、区別して削除しなければならず、さらにはメールソフトのアップデートの面倒さもある。その結果、Eメール1通のコストは、手紙の郵送利用と同じ程度である、と書かれていますが、私の実感からは程遠いです。
次にやり玉にあがるのはプレゼンテーションで、パワーポイントのムダが指摘されます。まあ、これは私も同感で、パワーポイントの乱用の弊害はかなりひどいと思います。
このようなことから、"半生産性"という言葉が登場します。これは、何かの効果を高めると、別の不利なことも増してしまうというもので、例えば、孔雀が仲間と美しさを競争するために更に派手な飾りを増やすと、敵に見つかる確率も高くなる、というものです。
のことから、著者は、パソコンはノートパソコン一台でインターネット回線なし、スマホのアプリは最小限に抑え、他のテクノロジーは排除していると語ります。テレビ、ラジオ、ゲーム機もないといいます。
これは行き過ぎです。
今どきのパソコンはネット接続が必須で、ネット検索がどれほど便利かは言うまでもありません。もちろん、ごみ情報も多いし、詐欺情報もあります。それでも、総合的に見れば、インターネットは有益だと思います。
そもそも、ここで書いている記事は、インターネット上に保存して参照されます。
反生産性の例として最後に挙げられているのはデジタルカメラです。とんでもなく便利なようだが、結局は99パーセントの不要な写真やビデオを抱え、整理する時間もなく、バックアップやクラウドに無駄にに保存することになり、また画像処理ソフトは、使うのが難しく、定期的にアップデートしなければならず、パソコンを買い替えるときには、そのソフトを新しい機種にインストールしなければならない。
私は、そうであっても、写真のデジタル化は極めて便利です。
私は、写真の個展を3回開きました。最初はフィルムで撮影した写真をスキャナーでデジタル化し、画像処理ソフトで処理してプリンターに出力して展示しました。この時、写真の先輩の方から、「それだけの規模の写真を展示するには、従来のプリント写真の方法なら、軽自動車一台分の費用が掛かる」と言われました。デジタル化したおかげで、プリンターの費用も含めて、1/5以下の費用でできました。
また、残りの2回は、撮影からプリントまですべてデジタルで処理しています。デジタル処理ができなかったら、金と暇が乏しい私には無理だったでしょう。
この章の最後は、「よい人生の基本的なルールは、本当は必要ないものを排除すること。特にテクノロジーに関してはこのルールがぴたりとあてはまる。新しい電子機器に手を出す前に、まずは脳のスイッチを入れて、よく考えてみよう。」という文章で締めくくられます。
この章は、10年とか15年の昔の、技術の進歩に乗り遅れた人のイメージのような気がします。
「本当にこう思っているのかなあ、と、途方に暮れる」という印象です。以前に、ある国会議員が、デジタル技術を管轄する大臣に任命されたときに、自身がパソコンを使っていないことを指摘され、「以前に勉強したが、難しくて断念した」と答えて話題になったことを思い出しました。
この標題はちょっとわかりにくいと感じます。
何かをするとき、利益を最大にするように行動するか、あるいは損失を最小にするように行動するか、という問題です。
これは、投資を考えるとわかります。
得することを考えて投資するか、損しないように心がけて投資するか、ということです。
投資、飛行機の操縦、テニスの試合などを例にとって、損失を最小にする、という態度で行動する方が、結果的には利益になる、ということです。
飛行機の操縦では、事故が起こらないことを最優先に考える、ということです。私は飛行機の操縦をすることがありません。自動車の運転では、と考えると、確かに、事故を起こさないことが最優先で、目的地に到達するという目的さえ、優先度は下がります。
テニスの試合の場合は、ミスを最小限にする、ということを最優先にする、という考え方ですね。得点を得ることより、失点を減らすことを優先する。
これはよくわかります。私は、自宅で妻とミニピンポンをします。食堂テーブルを卓球台にして、ネットは以前はビデオテープを並べていましたが、ミニピンポンのネットが売られていたので、それを使っています。
それで、ゲームはどうなるかというと、強いスマッシュが決まれば点が入るのですが、ミスも多くなります。結局、無理をしないで、確実にボールを返す、という態度でプレーする方が勝ちやすいのです。ただし、これは面白くないので、つい、強く打ちたいと思い、結局はミスが増えて負けるのです。
卓球の話では、昔読んだ堀越二郎という零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦、の開発者に関する著作に出ていました。
堀越氏は、卓球が強かったそうですが、その戦い方は独特だったようです。相手が打った球を確実に返すことに専念するのです。あまり面白くないプレーですが、相手は得点をねらってミスをして、結局は失点しないことを最優先した堀越氏が勝利する、という戦いぶりだったと読んだ記憶があります。
この出典が見つかりません。見つかったら追記します。
この問題は、いろいろなところで同じようなことが言われているようです。徒然草にも、"双六(すごろく)の名人"のことばとしてとりあげられています。
第110段ですが、双六の名人に勝つ秘訣を聞いたところ、「勝とうと思ってはいけない。負けるまいとして打つのだ。どうやったら負けるのが一目でも遅くなるか、ということに心がけるのだ」という内容です。身を修め、国を治める道も同じである、としています。
そういえば、美空ひばりの歌で、"柔(やわら)"という曲があり、その冒頭は、「勝つと思うな、思えば負けよ」でした。徒然草の文章を下敷きにして、「勝とうと思うのではなく、負けまいと思うのだ」と理解しています。
本章では、"アップサイド"、"ダウンサイド"という言葉を使って話を展開しています。利益が出るのが"アップサイド"、損失をこうむるのが"ダウンサイド"です。
この言い方をすると、"アップサイド"ではなく、"ダウンサイド"に意識を集中させることが役に立つということになります。
ここで、「否定神学」が出てきます。私は今までこの言葉を知りませんでした。
「神が何であるか」を言い表すことはできないが、「神は何ではないか」は明確にできる、というものです。
なるほどと思いました。
"神"を"幸せ"に置き換えるとどうなるか。「何が人間を幸せにするか」はわからないが、「幸せを損なうものは何か、を考えると、その要因はいろいろと挙げることができる」ということです。これもなるほどですね。
だから、"ダウンサイド"を排除することを心掛けるべき、というとになるわけです。
だけど、コントロールできない事はあきらめるしかない、と著者は言います。排除しようがないのですね。隕石が落ちてきたら、戦争が始まったら、子供が病気になったら、勤めている会社が倒産したら、と例が挙げられています。そういうことは考えてもしょうがないのですね。
ただし、そのような事象を排除できないのは確かですが、そうなったときのためにあらかじめ準備しておくことはありますね。病気に対しての医療保険の加入とか、会社の倒産に対しては、転職に備えて資格を取得するとか。
「いつか、私が死の床で人生を振り返ったら・・・・」
これは意味がないと著者は言います。
しかし、その説明は以外にも科学的、あるいは医学的です。
死因が心筋梗塞や脳卒中の場合、急死になるので、死の直前に哲学的な思いを巡らす時間はない。癌が死因の場合は、ほとんどの人は多量の鎮痛剤を投与されているので、はっきりと物を考えるのは難しい。アルツハイマーのような認知症を患っている場合、人生を振り返るのは無理だ。たとえ、死の間際に人生を振り返る時間があったとしても、思い起こせる記憶は正確ではない。そして、もっと重要なことは、死の間際に感じることはそれまでの人生とは全く無関係なのだ。(要約しました)
長々と引用(要約ですが)しましたが、これは最近、私が持ち前の考え方を変えつつあることにかかわるからです。
私は死が怖いのです。昔、冗談に「私はいつまでもできるだけ長く生きていたい。人類が滅びるとしたら、その最後の一人になりたい」と言ったことがあります。
つまりそのくらい、生きていることに執着があるのです。まあ、最近は変わってきましたが。
だいたい、人類の最後になるとしたら、電気、ガス、水道、インターネットなどの生活環境がなくなっていて、人類が滅びるのであれば、そもそも人類が生きていけなくなるような自然環境の変化があるはずで、暑くて、あるいは寒くて、あるいは酸素がなくなり、あるいは有毒ガスが蔓延して、などと言うように、生きていくだけで苦しむだけです。苦しみ以外に何もないのです。
「死ぬときのことを考えても何もならない」ということなのでしょう。
著者は、このように、死後について、まったく何も考えていません。
実は、著者はキリスト教の信者ではありません。
第18章(p.154)では、「私のように、神の存在を信じていない者・・・・」というように、無神論者であることを説明しているだけでなく、第32章(p.260)で「キリスト教がヨーロッパ人の意識をもうろうとさせ、自分の人生の責任を虚構(神)にゆだねてしまう」というように、キリスト教に対して強硬に否定する考えの持ち主です。
宗教を頼らない人間にとって、死をどのように考えるのでしょうか。二つの極があるように思います。一つは、今までの宗教は信じられないが、超自然な何か、今まで誰も気づかなかった、新しい考え方の宗教的な物にすがりたい、というもの、もう一つは、単に死後は無であるのみ、と割り切る立場です。
私個人としては、前者と後者の割合がおおむね、昔の8:2 から、最近は3:7 くらいに変わってきています。積極的に考えを変えたというより、「まあ、しかたがないね」というようなところです。
死を考えるのは重苦しいところがあるのですが、このように明快に表現されると、ちょっとホッとする印象があります。
第27章から第29章には、章の副題として、それぞれ「尊厳の輪を作る その1~3」という副題が付けられています。
第28章では、社会の中で生きていくときに、様々な攻撃を受けるから、尊厳の輪を強化しておこう、という内容です。
私は、その中で扱われている一つの事柄にひかれました。
ベトナム戦争で、あるアメリカ空軍の兵士が、地上からの砲撃を受け、緊急用のパラシュートで降下したのち、北ベトナムの捕虜となり、苦難の捕虜生活の中を生き延びて生還できたというエピソードが語られます。
彼が、どのような思いで捕虜生活に耐えたか、ということが、尊厳の輪につながるのですが、それに関連して語られた話により強く興味を覚えました。
著者が書いたことは、「捕虜収容所での生活を書いた本はいろいろある。読者はそこから、捕虜生活を生き延びる秘訣を探ろうとしがちだが、そもそもそのような秘訣はない」と断言します。
捕虜から生き延びた要因は何か、単なる偶然だけだ、というのです。
生き延びた人は、本を書いたり、証言したりする。生き延びられたからである。生き延びられなかった人は本を書くとか、証言するというようなことができない。だから、そのような本とか証言はあてにならない、と説明します。
再び、かのアメリカ空軍の兵士が取り上げられます。
彼が地上からの砲火を浴びて即死しなかった、パラシュートで降下しているときに地上からの銃弾が彼に当たらなかった、などという偶然の結果なのだ、と言われます。
確かに、偶然の差が生死を分けたという側面はありますね。
この"偶然によるだけ"ということは、すでに第10章で取り上げられています。
アメリカに生まれた人の収入は、バングラデシュに生まれた人の収入よりもかなり多いが、ではアメリカで生まれたがゆえに得られた収入はそのうちのどのくらいか、という問いを投げかけ、著者も含めた多くの人は80パーセントくらいだろうという結果になる。
どの国に生まれるかは、本人の希望とか努力などとは関係がない、偶然である。つまり、収入の多くは、偶然の結果得られたのである、と。
このことをもう少し広げると、現代の人間が現代に生まれたのは全くの偶然によるものだ、ということになります。ローマ帝国の奴隷として生まれるか、古代エジプトの雑用係に生まれるか、それを考えると、現代のわれわれは、とてつもなく幸運に恵まれていることになります。
このことは、実はいろいろなところで言及されていて、私は、江戸時代の藩主の食事は、現代のほとんどの人の食事より貧しい、ということを聞いたことがあります。確かに、江戸時代の藩主は、アイスクリームを食べたことも、コーラを飲んだこともないのです。
でも、幸福感は、絶対的な尺度で測ることはなく、相対的な尺度で図られます。同時代の周囲の人間と比べてどうなのか、ということが大き比重を占めるのです。
なお、第10章の終わりに、重要な指摘がありますので、ここで触れておきます。
我々が手にしているものの多くが偶然の恩恵を受けた結果であるのだから、幸運に恵まれたことへの「感謝」の念を忘れないこと、そして、自分の手で勝ち取ったわけではない成功の一部を、恵まれないで生まれた人たちに惜しみなく分け与えるべきだということが、我々にとって大事なことである。(要約しました)
世界にはいろいろな原因で苦しんでいる人々が数多く存在します。
「こんなにも、世界はむごたらしいことでいっぱいだ。」と表現されています。
「それなのに、あなたはいま、ここでよい人生について書かれた本を読んでいる。こうした矛盾した状況にどのように対処すればいいのだろうか」
「あまり他人に感情移入しないタイプの人でも、先に挙げたような問題には『憤り』を感じるに違いない。だがその憤りをどうすればいいのか、具体的な方策を持っている人はほとんどいない。」
世界には、といいますが、日本国内にも苦しんでいる人がいます。県単位でも市町村単位でもそのような人がいます。
そのように、私よりも苦しんでいる人がいる一方、社会的、経済的に、私よりずっと恵まれている人もいます。
私は、このような状態でどうすればいいのか、について、長い間、答えが出せませんでした。
著者は言います。
個人でできることには限界がある」ことを忘れない。 (一部書き換えました)
「ローマ皇帝やアメリカ合衆国の大統領でもない限り個人でできることはすくないのだ」と書いていますが、ローマ皇帝でもアメリカ合衆国の大統領でも、できない事は山ほどあります。
皇帝や大統領であれば、国内の力を総動員することができます。ですが、ローマ帝国は、周囲の国々との争いで戦乱に明け暮れ、皇帝として安閑としてはいられませんでした。アメリカ合衆国の大統領も、他国に対してどう対峙するか悩みが深く、積極的に出ると、ベトナム戦争とか、アフガニスタン、イラクでの動乱など、うまくいったとはとても言えません。
なぜこんなにうまくいかないのか。著者は、「人災(紛争や戦争、テロリズム)のほとんどは、みかけよりずっと複雑だ」、「紛争の複雑さが度を越している」と言っています。
「だからあなたも、自分の力を過信しない方がいい。言ってしまえば、あなた一人の力で難題の解決などできるものではない」
世の中には苦しい思いをしている人がたくさんいます。ですが、個人の力ではどうすることもできないのです。
個人の力ではなく、集団の力であってもどうすることもできません。日本人全員が取り組んでも、国内のすべての問題を解決することはできないのです。
この「自分の力ではどうすることもできない」ということを認めざるを得ないのです。
個人的なことになりますが、私は、あることがきっかけで、ひとり親の家庭を支援する団体に、わずかな金額ですが、寄付することを続けています。そうすると、現在の状況の報告を定期的に受け取ることになります。
本当に困っているということがよくわかります。
考えをめぐらすと、難病で苦しむ人、暴力に苦しむ人、自然災害で被害を受けた人、などなど、様々な人が苦しんでいます。
世界では、自然災害や飢餓のような人間に直接的に起因しない問題だけでなく、人間が引き起こした国境紛争、民族紛争。宗教紛争など、いろいろな問題があります。
ですが、自分の力では助けることができない、ということを、つくづくと感じます。
そのような状況を受け入れざるを得ないのです。
最近になって、そう思うようになってきました。
この世の中は公平にはできていない。このことは、多くの人が様々な場面で感じていると思います。
キリスト教の考え方としては、「不公平さに耐えなければならない。どんな出来事にも、人間の限られた能力では理解できるはずのない正当な理由がかくされているものだから」というもののようです。神の真意は人間にはわからない、というわけです。わからないけれども、神は何かの理由があって、そのような試練を人々に与えたはずだ、と。
著者は神への信仰を持たない人なので、「論理としては悪くない。だがいまの世の中、神を心から信じている人が果たしてどれくらいいるだろう?」と書きます。
リスボン大地震について触れられています。私は今までこのことを知りませんでした。
1755年にポルトガルの首都リスボンを地震と津波が襲い、死者90,000人、リスボン市内の建物の85%が倒壊したとのことでした(Yahoo!天気・災害の記事による)
ポルトガルと言えば、カトリックの信仰が厚く、多くの宣教師を世界各国に布教のために派遣している、キリスト教に特に心寄せている国だろうとは想像していましたが、その国で、首都が壊滅的に破壊されたときには、「なぜこんなことがおきるのだ」と、疑問とか怒りとか嘆きとか、いろいろな感情が湧いたことでしょう。
「神の真意は人間にはわからない」では済まなかったのではないでしょうか。
この章の終わりに、"結論"で始まる文章があります。
世界に公平さを保つためのシステムは存在しない。その事実を思い切って受け入れるのも、よい人生の条件のひとつだ。(中略)あなたが悲劇的な出来事に見舞われたとしても、あなたが人生において遭遇する出来事とあなたの人間性はほとんど関係がない。
今までも、この本の中で、「偶然が人間の人生を大きく左右する、そしてそれは人間の力ではどうにもならないから、それを受け入れるほかはない」、ということが語られてきました。
偶然ですから、公平ではないのです。
私は、今まで、いろいろな理不尽な出来事を目にし、また経験してきました。
後期高齢者になった今、願うことは、少なくとも我が子、孫たちが、理不尽なこの世の中で、"折り合い"を付けて、なんとか生き延びてほしい、ということです。
私が彼らを助けることができる余地はもうほとんどありません。祈るばかりなのです。