アリの生態とコンピュータ・ウィルスからこの世の中の本質へ


[2021/3/18]

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【43】アリの生態とコンピュータ・ウィルスからこの世の中の本質へ

アリの生態に関する一実験

アリの生態に関して、興味深い実験結果がある、という記事をどこかで見ました。

次のような内容です。

アリの巣の周りで忙しく動き回るアリを観察していると、あることに気がついた。20%ほどのアリは実によく働き、20%ほどのアリは無駄なことばかりして全く働きが悪く、残りの60%は普通程度に働く、という傾向があることが分かった

そこで、よく働く20%のアリを選び出して集めて新しいアリの集団を作ったら、素晴らしい精鋭部隊ができることになり、大きな巣が短時間でできあがるだろう、と考え、そうしたところ、すべてのアリがよく働くはずが、しばらく観察すると、結局、20%はよく働き、20%は全く働かず、60%はすこし働きが悪くなり、普通程度に働く、という結果になった。

それでは、というので、働きの悪い20%を集めてグループを作ると、20%は見違えるように精力的に働くようになり、60%はほどほどに働くようになり、20%は相変わらず働かない、ということになった。

このことは、次の記事が参考になります。
長谷川 英祐(北海道大学大学院准教授) 会社にも必要?「働かないアリ」の存在意義  PRESIDENT 2016年7月4日号

性善説、性悪説ということがありますが、このアリの実験結果では、本質的に働き者か怠け者か、ということはなく、ほかのアリとの相対関係でよく働いたり、遊んでばかりいる、という行動になる、ということになります。

ある意味では、ほかのアリがよく働くのを見ると、自分は怠けて良いんだ、と思ったかのように振る舞ったり、逆に周りの働きが悪いのを見ると、自分はもっとまじめに働かなくちゃ、と感じているかのように働きが良くなる、ということなのですね。私はそのように理解しました。

良い、悪い、普通の三つが、20%、20%、60%になる比率をキープすべきだと、すべてのアリが考えて、そのようにふるまっている、と、現象的には感じられます。

新型コロナウィルス

この1年以上、新型コロナウィルスが世界的に猛威を払っています。

米国では、新型コロナウィルスによる死者が第二次世界大戦とベトナム戦争での戦死者の合計を上回ったという報道があり、"猛威"という表現が言い過ぎではないことが分かります。

このようなパンデミックではなくても、毎年、様々な病気で死亡する人がたくさんいます。

死因となる病気は実に様々で、どうしてこんなに病気の数が多いんだろうか、と疑問を持っています。

人間でなく、野生の動物ではどうなのでしょうか。

捕食による死、老衰による死以外に、病気による死というケースはどのくらいなのか、よく分かりません。おそらくこのような研究はあまり行われていないような気がします。

海に生息する魚はどうなのでしょうか。

夏目漱石が「吾輩は猫である」のなかで、猫が海水浴の効能について語っているところがあります。

一寸海岸へ行けばすぐ分るぢやないか。あんな広い所に魚が何疋居るか分らないが、あの魚が一疋も病気をして医者にかかった試(ため)しがない。みんな健全に泳いで居る。

魚がなぜ丈夫なのかということについて、次の様に語られます。

潮水を呑んで始終海水浴をやつて居るからだ

(新書版 漱石全集第二巻  岩波書店 1978年12月5日 第五刷)  (なお、旧字体は新字体に変えました)

だから、海水浴が体に良い、などと今更人間が騒いでいるのは「人間は昔から野呂間である」からだ、と語っています。

たしかに、自然界の魚は滅多に病気で死ぬことはほとんどないのかもしれません。

ウィルスや病原菌は実にたくさんあります。どうしてこんなに必要なんだろうか、と疑問に思います。

しかしながら、どうしてもあるんですね。

コンピュータ・ウィルス

コンピュータ・ウィルスは実に様々な種類があり、ウィルス・ソフトは新たに発見されるコンピュータ・ウィルスの対策をいつもいつも追加しながら大きくなっていきます。

コンピュータ・ソフトは人間が作り出したものです。そのときにコンピュータ・ウィルスを作り込むことはしません。

しかし、いつの間にか、そのコンピュータ・ソフトのわずかなすきまがあると、そこに食らいつくコンピュータ・ウィルスができてきます。

「できてきます」というのはおかしな表現で、「悪意を持った人間がコンピュータ・ソフトの隙間を見つけて、そこに食らいつくコンピュータ・ウィルスを作る」のです。

コンピュータ・ソフトはもともとはクリーンなものだったのです。そこに数は少ないかも知れませんが、悪意を持った人間がコンピュータ・ウィルスというソフトを作ってはめ込むのです。

はめ込む、ということをひとつひとつ人間がするのではなく、コンピュータ・ウィルスはあるソフトに食い込むと、そのソフトの動作を異常なものにし、さらに、自分のコピーを作って被害を広めていきます。

この世の中は

この世の中には、ある一定の割合で、ウィルスのような役に立たない、さらには害のあるものが存在するのが宿命であるかのように感じてしまいます。

アリの実験で見たように、この地球の自然界はウィルスとか病原菌のような、害をもたらすものが一定の数だけ存在します。

コンピュータ・ソフトの例では、最初はそのような害をもたらすものはなかったのに、わざわざ人間が追加したのです。まるでこの世の中には、一定の害あるものが存在しなければならない、と決まっているようです。

「神はそのようにこの世界を作ったのだろうか」と考えることがあります。

「神」とはいわなくても、この世界はそのようにできているものなのでしょうか。

結論ではないのですが

マルクス・アウレリウスの「自省録」に印象的な言葉があります。

他人の厚顔無恥に腹の立つとき、ただちに自ら問うてみよ、「世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありうるだろうか」と。ありえない。それならばありえぬことを求めるな。その人間は世の中に存在せざるをえない無恥な人びとの一人なのだ。悪漢やペテン師やその他あらゆる悪者についても同様な考えをすぐ思い浮べるがよい。かかるたぐいの人聞が存在しないわけにいかないという事実をおぼえていれば、それによって君はそういう個々の人間にたいして、もっと寛大な気持をいだくようになるであろう

神谷美恵子訳 マルクス・アウレーリウス著 自省録 岩波文庫 2007年2月 改版第1刷発行

「その人間は世の中に存在せざるをえない無恥な人びとの一人なのだ」とか、「かかるたぐいの人聞が存在しないわけにいかないという事実」ということを考えれば、どうもこの世の中には、害を与える存在がどうしてもあるものであると考えざるを得ないのだろうかと思ってしまいます。

もしなかったなら、まるで埋め合わせをするかのように、人間が害を与える存在を新たに作り出す、ということなのでしょう。


もっとも、「自省録」は実用を考慮したものともいえるだろうと私は考えます。

そのように考えて行動した方が便利だよ、という見方です。

「なぜそうなっているのか」、ということを追求しても、現実にはあまり良い結果は得られない、という訳です。そのようなことをほじくり返すより、「世の中はこういうものだ、それが現実だ」と、ありのままに受け入れた方が、まあなんといいましょうか、"生きやすい"よ、という考え方です。


「ことの本質はどうなんだ」といわれても、私には分かりません。


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