【5】日立市の市名の由来 その5 -明治19年日立銀行設立の記事-


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【5】日立市の市名の由来 その5 -明治19年日立銀行設立の記事- [2015/9/17]

日立銀行設立の記事

市の図書館で、「日立春秋史」という本を読んでいて、「明治19年に"日立銀行"ができた」という文章を見つけました(日立春秋史・復刻版 P.69)。以下のように書かれています。

明治十九年には下町橋場川の今の関東配電の所へ「日立銀行」ができ、(以下省略)

日立春秋史・復刻版 高橋六郎編 筑波書林 1983年11月

明治22年に宮田村と滑川村が合併して日立村が誕生し、これが"日立"という地名の起りである、というのが広くいきわたった見解です。

そのほかでは、"常陸"を簡略化して"日立"と書いた例が個人的な文書にいくつかある事が"新修日立市史"(*1)、ひたち史余話(*2)に記載されています。また新井白石が「古史通」で、「先ず"日立国"が出現し、その後に"常陸国"と記すようになった」と書いた、という例についてはすでにこのシリーズの一つ前の記事に書きました。

前者については、"日立"は"日出る国"というイメージを含むかもしれないが、基本的にはいわば当て字であり、"日立"という地名があったのではない、と理解されています。「古史通」のこの文章がその後取り上げられなかったのは、"荒唐無稽な珍説"として相手にされなかったのでしょう。

従って、本当に明治十九年に「日立銀行」ができていたのなら、"日立"という言葉は、"明治22年に新たに創り出されたもの"ではなくなり、今までの定説が覆ります。

そのようなことは考えにくいので、おそらくは別の名前の銀行が明治19年にでき、日立村が作られた後で、村の名前をとって「日立銀行」に名称変更した、ということだろう、と想像します。

ですが、確証がないので、なんとかはっきりさせたいと調査を開始しました。

日立市史からスタート

日立市の歴史については"新修日立市史"が詳しいだろうと考えましたが、この時代の金融業に関しては記述がほとんどありません。

"茨城県資料"(*3)に金融業に関する資料が掲載されているということを知り、さっそく見てみました。

明治19年の"私立銀行及類似会社の事"という記事に一覧があります。久慈郡などは多数の会社が挙げられています。多賀郡では大津村、下手綱村、平潟村、下小津田村がありますが、"日立"の名前のものは見つかりません。また、日立市域のものも見つかりません。明治19年に設立されたものなら、明治19年の統計資料にはまだ載らない、ということかもしれません。明治20、21、22年の資料はないので、確認できませんでした。

"常陸多賀郡史"という本があることは知っていましたので開いてみると、第九章 産業の所に第九節 商業があり、そこに"株式会社日立銀行"が出てきました。

株式会社日立銀行 日立村に明治19年2月設立、普通銀行業
始め株式会社常北産業銀行と称し資本金10万円にして久慈郡太田町に本店を有し、本郡高萩に支店をおきたり、(中略)明治43年1月其権利を継承したるもの即本行なり。

日立銀行の前身は久慈郡太田町で開業しているようなので、上で触れた"茨城県資料"をもう一度見ると、明治19年の資料では久慈郡太田町には"親愛会社"があるだけ。少しさかのぼって明治16年の資料では、開産会社、共同会社、親愛会社が記録されています。明治16年から19年の間に開産会社、共同会社の2社がどうなったのかは分かりません。親愛会社に吸収合併されたのか、あるいは倒産したのでしょう。

常陸太田市史でやっと発見

焦点は常陸太田市に移っていますから、常陸太田市史(*4)を探すと、やっと探していた記述が見つかりました。

常陸太田市史 通史編下

P.416-7に私立銀行の数を年別にあらわした表があり、多賀郡では明治33年に二つできたのが最初です。久慈郡では明治13年に最初のものができたようです。

ここには銀行の数しか出ていませんが、個別の銀行の情報が別の表にあり、親愛銀行というものが記載されていました。

親愛銀行 明治19年2月8日設立。明治30年5月12日常北商業銀行と改称、明治43年1月25日日立村に移転、日立銀行と改称、昭和7年5月23日解散。

「日立銀行の祖である親愛銀行が明治19年に設立された」。これが真実なんですね。

予想は当たったのですが、今の常陸太田市に設立された、というのは予想外でした。

それでは、明治16年にすでに統計データとして記録されている久慈郡太田町の親愛会社とはどういう関係なのでしょうか。"銀行等"という分類ですから、親愛会社が明治19年に親愛銀行に改称した、というのが最も考えやすいのですが、確証はとれません。

考えてみると、"日立春秋史"に書かれた文章はちょっと不親切ではないでしょうか。「明治十九年には下町橋場川の今の関東配電の所へ『日立銀行』ができ」という書き方で、これでは、明治19年に今の日立市域の特定の場所に『日立銀行』が出現した、としか読めません。事実は、(おそらく)現在の常陸太田市にあった"親愛会社"が明治19年に"親愛銀行"に改称し、ずっとあとの明治43年にそれが日立の地に継承され日立銀行と改称した、ということです。

もっとも、その記述のおかげで、明治初期の日立市域や常陸太田市域の金融業の様子の一端を伺い知ることができたわけで、そのことはよかったことでした。

明治38年には久原房之助が赤沢鉱山を購入して日立鉱山と改称し、その後急速に発展していったのですから、明治43年にはこの地方は経済がある程度発展してきています。明治30年に常北商業銀行と改称したころは業績がふるわず、活動は停止していた様ですから、景気が良くなってきた日立村側に譲渡されたのでしょう。

日立市の資料にもどる

改めて"新修日立市史"を開き、巻末の年表を見ると、明治43年の所に

六月、日立銀行が開業する

という記述を見つけました。やはり日立銀行ができたのは明治43年ですね。

別の資料に日立銀行に関する記事(*5)が見つかりました。日立銀行に転職した鏑木昌儀氏へのインタビューです。氏は大正11年に日立銀行に入社し、その後の不況のために、日立銀行は昭和4年4月に休業になった、ということが書かれています。

その記事の中で、日立銀行の広告が一つ出ていて、

日立村宮田に株式会社日立銀行、太田町に太田支店

とあります。

(【注・参考情報】(*5) の p.27 から転載)

このことから推測すると、太田町の株式会社常北産業銀行は日立村の日立銀行に継承され、従来の常北産業銀行は日立銀行太田支店として太田町に残った、ということが想像できます。

「太田町の常北産業銀行が日立村の日立銀行に継承された」ということは、常北産業銀行はいったん清算し、日立銀行が成立したもということだろうかと疑問だったのです。常北産業銀行がなくなってしまえば、それまでの顧客はは日立村にそのたびに出かけて手続きするというのは不便すぎます(当時の交通事情を考えると不可能に近いです)から、それまでの顧客の預金はいったん清算したのだろうか、という疑問だったのです。上の想像が正しければ、常北産業銀行の顧客は引き続き日立銀行太田支店を利用し続けることができる、ということになり、私の疑問はひとまず解消しました。

【注・参考情報】

(*1) 新修 日立市史 下巻 日立市史編さん委員会編 日立市 平成8年3月 p. 176

(*2) ひたち史余話 瀬谷義彦著 財団法人日立市民文化事業団 昭和61年11月 p. 81

(*3) 茨城県史料 近代産業編II 茨城県史編さん近代史第2部会編 茨城県 1973年3月

(*4) 常陸太田市史 通史編下 常陸太田市史編さん委員会編 常陸太田市役所 昭和58年3月

(*5) 郷土ひたち 第36号 [聞き書き]大正・昭和初期の日立 日立電気会社・日立銀行のことなど 瀬谷義彦編集発行 筑波書林 昭和61年3月 p. 24-27 

備考

いままで、"注"や"参考文献"を文末に書くときに、様式が統一されていなかったり、標題が適切でなかったことが気になり、今後は基本的に、次の様にすることにしました。

  1. 標題は【注・参考情報】とする。参考情報とは、参考文献およびネット上の記事など文献とは言えない情報を含む。
  2. 注・参考情報については本文の該当個所に、(*1), (*2)などと書き込み、その番号に関する注、参考情報を文末の【注・参考情報】欄に示す。
  3. 注と参考情報は分類を設けず、一貫番号を振る。


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