[2019/6/1] かな・ひょうき[2024/10/23]
つぎ-の-ページ まえ-の-ページ 「きん・げんだい-ぶんがく つまみぐい」-の-トップ・ページ
"いんしょう・てき-な ことばの フレーズ トップ 10"のきじで、たかむら-こうたろうの「ねつけ-の-くに」という し が、しゅっぱんによって せんとうの 1-ぎょうが 2-ぎょうに わかれている れい がある、ということについて かきました。
せいかくに いうと、「いぜんから みていた ほん では せんとうの1-ぎょうが、べつの ほん では 2-ぎょうになっている」ことに きづいた というものです。
もっとも 1-ぎょうにすると ながくなって、ほんの サイズの せいげんから 2-ぎょうにわたることは おおいです。しかし、そのばあい、2-ぎょう-めは じ-さげ することで まえの ぎょうが つづいていることが わかります。
このあたりについて、もっとも しんらいできる しゅっぱんは なにかと かんがええると、とうぜん「たかむら-こうたろう-ぜんしゅう」ということに なるでしょう。
そのほかには、「にほん-しじん-ぜんしゅう 9 たかむら-こうたろう(しょうわ 52-ねん 6-がつ 7さつ)」のふろくに「たかむら-こうたろう どしくょ あんない」の ぶんしょう(きたがわ-たいちに よる)があり、こう かかれています(びこう 2)。
ようやく:ぜんしゅう-ぼんが、へんねん・たいで し を しゅうろくしている のにたいし、ぜん-ししゅう-ぼんでは こうたろうが かんこうした ししゅう ごとにまとめて、すべての し を はいれつしており、し を おぎない、ぜんしゅうの ふびを ただして しんらいできる
そこで、ぜんしゅうと ぜん-ししゅうの 2さつを しらべました。いかでは このふたつを それぞれ「ぜんしゅう」、「ぜんししゅう」と りゃくしょうします。
さらに、としょかんなどで めにすることができる ほんなどを できるだけ さがして チェックしました。そのリストを このきじの まつびに しめします。
けっかを まとめると こうなりました、とかいて、ひょうにまとめる かんがえでしたが、けっか・てきに やめました。
2-ぎょうに していたのは たった 1-れいだったのです。
それは、ざっし「スバル」の めいじ 44-ねん 1-がつ ごうで さいしょに しゅつぱんされたものです。
その がいとう-かしょの しゃしんが「しんちょう にほん こてん アルバム 8」p.24に けいさいされています。
ついでですが、そのまつびには「(43、12-がつ 14-か」とあります。し が つくられたのが めいじ 43-ねん 12-がつ 14-か ということでしょう。
かく-ぎょうの さいごは、さいしゅう-ぎょう いがいは とうてん「、」、さいしゅう-ぎょうは くてん「。」が かくにんできます。
ほかの しゅっぱん-ぶつは、わたしが かくにんできたのは すべて せんごの しゅつぱんですので、かんかくが だいぶ ひらいています。たとえば たいしょう、あるいは しょうわでも せんぜんにおける しゅっぱんでは どうだったのか わかりません。
「「ぜんしゅう」、「ぜんししゅう」の しゅっぱんに あたっては、ぶんしょうについては じゅうぶんにチェックされているとおもわれます。(ただし、ほかのしゅっぱんが いいかげん ということでは ありません。)
したがって、しょしゅつのスバルにおけるせんとうの2-ぎょうは1-ぎょうにまとめるのがただしい、というはんだんがされたのでしょうか。
そのかのう・せいを すすめると、さくしゃ たかむら-こうたろう じしんが すいこうして「1-ぎょうに まとめるべき」と かんがえた、というのが いちばん ありそうです。
さくしゃ たかむら-こうたろう じしんが ひょうげんを かえた れいが、おうぶんしゃ-ぶんこの "たかむら-こうたろう ししゅう"における「ねつけ-の-くに」の"めいじん さんごろう"にかんする きゃくちゅうで かいせつされています。
さんごろうという な の ねつけ-さくしゃは みあたらない。しょうわ 4-ねんにでた『げんだい しじん ぜんしゅう』では "しゅうざん"と あらためられている。"しゅうざん"は えど-きの ちょめいな さくしゃで ねつけ-ちょうこく-さいこう の そ と いわれ、かいきじんぶつなどをとくいとした。しかし、それいご ふたたび さんごろうが もちいられているのは、さくしゃが その 'ごちょう'を あいしたためで あろう。
きたがわ-たいち へん たかむら-こうたろう ししゅう おうぶんしゃ-ぶんこ おうぶんしゃ しょうわ 49-ねん だい19-さつ
ねんぷによると、こうたろうの さいしょの ししゅう「どうてい」は たいしょう 3-ねん(1914-ねん)の はっこうで、じょうき'スバル'しじょうに はっぴょうした めいじ 44-ねん(1911-ねん)の 3ねんごです。
「どうてい」の しょはんで どうなっているかが きになります。
さいわいなことに、そのふっこく-ばんが しょうわ 4-ねんに はっこうされています。
もうひとつ さいわいいなことには、このふっこく-ばんが ヤフー・オークションに しゅっぴんされていたのです。こんなぐうぜんは めったにありません。さっそく てにいれました。
なお、このふっこく-ばんですが、もうすこし あとの'はん'なら いくつか オンラインショップなどで みつかりました。
かんじの じたいの ちがいなどを のぞくと、つぎのような ちがいが あることが わかりました。
ひょう1 「ねつけのくに」しょしゅつの スバルと さいしょのたんこうぼん「どうてい」の ひかく
こうばん | スバル | 「どうてい」しょはん | わたしのコメント |
1 | かくぎょう(さいしゅう-ぎょうを のぞく)のさいごにはとうてん「、」をうつ | どう、とうてん「、」をうたない | ぎょうまつのくとうてん「、」、「。」はあってもなくてもさがないので、さくじょしたものだろう。 |
2 | さいしゅう-ぎょうの さいごに くてん「。」をうつ | どう、くてん「。」をうたない | どうじょう |
3 | 「ほおぼねが でて、」ではじまったあと、「めいじん さんごろう…」の ちょくぜんで かいぎょうし 2-ぎょうとする | 「めいじん さんごろう…」のところは かいぎょうがなく、ひだりにかいた "2ぎょう"は 1ぎょうに まとまっている | さいしょの 2ぎょうを 1ぎょうに まとめて、いわば、"せんとう-ぎょうで だいじょうだんに ふりかぶり、さいごのぎょうで てっていてきに うちのめす"、というけいしきにして、この し が あたえる しょうげきを ぞうかさせようと したものだろう |
4 | 「いのちの安い(やすい)」 | 「いのちのやすい」として、「やすい」を かなひょうき | 「安い」とかんじひょうきにしたほうが いみをとりやすい。つぎのぎょうが 4もじに なることをうけ、おなじ もじすうに なるのをさけた、という かのうせいがある。 |
5 | みえぼうな、虚言(うそ)つきな、 | 「みえぼうな」で ぎょうをおわり、「虚言(うそ)つきな、」のぶぶんが さくじょされている | せっきょく-てきに たにんに はたらきかける「虚言(うそ)つきな、」を さくじょし、「じぶんのなかで ちいさく まとまっている たちばに まんぞくしている」という イメージを きょうちょうしたものだろう |
6 | ちいさくかたまっておさまりかえった | 「ちいさくかたまって、おさまりかえった」と、とうてん「、」がはさまる | この3ぎょうまえに「じぶんをしらない、こせこせした」とあり、それは ふたつのせいしつを のべている。いっぽう、「ちいさくかたまって おさまりかえった」は ひとつのせいしつを のべたものである。したがって とうてんを そうにゅうしたいみは けんとうがつかない。 |
7 | ももんぐわあ | ももんがあ | れきし-てき かなづかいから げんだい-かなづかいへの へんこう。ふっこく-ばんでかえた、という かのう-せいは ないだろうか。 |
8 | 小杜父魚(だぼはぜ) | だぼはぜ | あてじの(または、あてじにちかい)かんじ-ひょうきを かな-ひょうきに へんこう |
9 | 破片(かけら) | かけら | どうじょう |
10 | ひづけとして「43、12-がつ 14-にち」ときさい | 12-がつ 16-にち (し は さくせい-ねんごとに ぶんるいされ、'ねつけ-の-くに'は "1910-ねん"というタイトルのもとに「ねつけ-の-くに」をふくむ 3-ぺんが おさめられている。 | このひょうきをみると、「スバル」に けいさいしたときの げんこうから ふつか-ご に、もう かきなおしていることに なる。 |
こうばん-1、2の くとう-てんの つけかたの ちがいは、おおきな いみは ないと おもわれます。
こうばん-3は、ひょうげんをかえて、あるこうかを きたいしたものと おもわれます。さいしょの しゅっぱんで 2ぎょうだったところを 1ぎょうに まとめることによって、さいしょの 1ぎょうを よんだだけで、じんじょうではない ないようが かたられる、という きたいが うまれるように かんじます。
こうばん-4は、"命の安い"を "命のやすい"と したことで なにがちがうのか、そうぞうが つきません。"命の安い"のほうが いみするところが めいかくである、と かんじます。
こうばん-5は、"虚言(うそ)つきな"という フレーズを けずっています。
にほん-じんは "虚言(うそ)つきではない"と かんがえなおした、というのではなく、"虚言(うそ)をつくことさえしない"ということで、つぎの ぎょうの "小さく固まって納まり返った"と ちょうわをとったのでは ないでしょうか。
"小さく固まって納まり返った"にほん-じんですから、"虚言(うそ)をつく"という せっきょく-てきな こうどうさえ しない、ということなのでしょう。
こうばん-6の とうてん「、」の うむ ですが、「小さく固まって、(また)納まり返った」というのではなく、"小さく固まったまま納まり返った"で、vひとつのことを いっているように かんじます。ですから、わたしにとっては とうてん「、」は ないほうが スムーズに かんじられます。
「納まり返った」の"返った"、つまり"返る"は、たとえば "静まり返る"のように、どうさの きょうちょう、あるいは けいぞく を いみしているものと りかいします。"小さくかたまってそのばしょにとじこもってそとにでていかない"というニュアンスです。
こうばん-7については、さんこう-じょうほうが-あります。
まず、"ぐわ"ですが、"国語研の窓"だい2ごう "暮らしに生きることば"という きじで、「がんたん(元旦)の "ガ" を "グヮ"のように はつおんする ちいきが あります」として、"国立国語研究所『日本言語地図』第1集(1966年刊)第5図"を いんようしています。
それによると、"グヮ"と じっさいに はつおんする ちいきは、きゅうしゅうから おきなわにかけて、また しこく-とうぶ、にほん・かい-えんがんなど、わたしのよそうより ずっと ひろいはんいに ひろがっています。
1966-ねんに かんこうされた ぶんけんですから、ちょうさは 1960-ねん はじめ ごろでしょうか。せんご しばらく けいかしたじてんでも まだまだ のこっていることに なります。
ただ、ひとつ ぎもんなのは モモンガという どうぶつは ちゅうごくから はいってきた どうぶつ ではなく にほん-こらいの どうぶつです。
"グヮ"という ごう-ようおんはきほんてきにちゅうごくごの"おん"をひょうきするときにつかうものですから、ちょっとちがうのではないか、とおもいました。
しかし、にほん-こくご-だいじてんでは、ももんが【鼯鼠】の"こう"で、"「ももんぐゎ」ともひょうき"とあり、"ごし"には つぎのように かかれています。
きんせいの しりょうには 「ももんが(あ)」の 「が」が おおく 「グヮ」「グハ」と ひょうきされているが、とうじ、グヮという ごう-ようおんは かんごや ぎせいごにしか もちいなくなっていたところから、グヮは、鼯鼠(ももんが)の にごった おおきな こえを うつしたものか。
つまり、「グヮという ごう-ようおん は ぎせいご」にも つかわれていることわわかりました。「グヮ」は モモンガの なきごえをもとにした ぎせいごから とられた かのう・せいがある ということです。
こうばん 8、9の ふたつは、あてじに ちかい かんじ-ひょうきを かな-ひょうきに あらためた、ということで、とくべつなことは ないでしょう。
「"げきじょう"を ぶつけた さくひん」というてんでは、"ねつけのくに(根付の国)"と "いんしん(淫心)"が だいひょう・てきなものとして あげられるでしょう。
このししゅう"どうてい(道程)"では、"ねつけのくに"はさいしょから 3-ばん-めの さくひんで、"いんしん(淫心)"は さいごから 2-ばん-めの さくひんです。
このししゅうは、さくせい-ねん-げつ-じゅんに し が はいれつしてあります。そのさいしょの グループと さいごの グループに、もっとも「"げきじょう-がた」の さくひんが はいちされている、ということは、これまた いと した はいちなのか、ぐうぜんなのか、きょうみを そそられます。
いかのかいせつに、こうたろうじしんの ことばが いんようされていて きょうみぶかいので とりあげます。
くさの-しんぺい へん にほん-しじん-ぜんしゅう 9 たかむら-こうたろう しょうわ 52-ねん 6-がつ だい7-さつ しんちょう・しゃ
「わたしの し は し でないであらう。わたしは ポエジイのために なんの 'きよ'も してゐない。このけいしきでなければ どうしても しょうか(昇華)しえないものが じぶんの にくたいと せいしんとに うっせきしてくるの でやむをえず かいてゐる。さうして できたものを じぶんでは し と よんでゐる。」(「しょうかん(小感)」)
「わたしが し を かくのは じつに やむをえない しんてき-しょうどうから くるので、いっしゅの でんじりょく うっせきの エネルギー ほうしゅつに ほかならず、じつは それが はたして ひとのいふ し と おなじものであるか どうかさへ いまでは じこに むかって かくげん(確言)できないと もおもへるときが あります。めいじ-いらいの にほんにおける し の つうねん といふものを わたしは ほとんど ふみにじってきたと いへます。」(「し に ついて かたらず」)
「じぶんの にくたいと せいしんとに うっせきしてくる」、あるいは「やむをえない しん-てき-しょうどう」、「いっしゅの でんじりょく うっせきのエネルギー ほうしゅつに ほかならず」など、"ことばを こねまわす"のとは せい-はんたいの たいどが かんじられます。
これが かれの し の"しゅたる いちめん"、"しょうめんの すがた"でしょう。
しかし、それだけで おわるのでは ないようです。
しじんであるいじょう、ことばに せきにんが あります。つたわりやすいように ひょうげんに くふうをする ひつようが でてきます。
このような そくめんは みのがせません。
しかし、なんといっても、うえにかいた "しゅたる いちめん"が だんぜん ゆうせいなところが たかむら-こうたろうの し の もっとも おおきな みりょくであると かんじます。
(1) にほんの しいか 10 たかむら-こうたろう ちゅうこう-ぶんこ ちゅうおう-こうろん-しゃ しょうわ 49-ねん 9-がつ
(2) きたがわ-たいち へん たかむらこ-うたろう ししゅう おうぶんしゃぶんこ おうぶん しゃ しょうわ 49-ねん だい19さつ
(3) くさの-しんぺい へん たかむらこ-うたろう ししゅう かどかわぶんこ かどかわ しょてん しょうわ 43-ねん12-がつ かいはん しょはん
(4) たかむらこ-うたろう しんちょう-にほん-こてん-アルバム 8 しんちょうしゃ 1984-ねん 6-がつ
(5) くさの-しんぺい へん たかむらこ-うたろう にほん しじん ぜんしゅう 9 しんちょう しゃ しょうわ 52-ねん 6-がつ
この かな-ひょうき-ばんでは、"ようやく"としています。オリジナルの かんじ-かな-まじり-ひょうきの きじでは "いんよう"していますが、いんようは げんみつには「げんぶんの ないようを かえない」ことが じょうけんです。かんじ-かな-まじりの ぶんしょうを、かんじを つかわない かな-ひょうきに したばあい、「げんぶんの ないようを かえない」という じょうけんに あてはまるのか どうかについて、はっきりしないので、ここでは いんようではなく、"ようやく"と しました。