近現代文学つまみ食い 9 福沢諭吉 女性論、その他


[2026/4/6]

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私にとっての今までの福沢諭吉の存在

福沢諭吉という名前は、「近くて遠い人」とでもいえる存在でした。

名前だけは幾度となく見聞きし、学校のテストにも出てきます。

「学問ノススメ」、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉は、飽きるほど目にしています。

しかし、彼の著作をきちんと読んだことはありません。彼がどのような行動を起こし、どのような著作を書いたのか、ほとんどわかりません。

彼の立場は、なんといえばいいのか。思想家、評論家、教育家、どれに当てはまるのかもわかりません。

少し前に、ネット上の何かの記事で、教育論のようなものが紹介されていたのを目にしたことがありました。

その時は、確かに"清新"とでもいうような印象を受けたのですが、それでも彼の著作を読んでみようとまでは思いませんでした。

福沢諭吉 新女大学

どのようなきっかけだったのか、ある時、諭吉が次のようなことを書いた、という記事を目にしました。

結婚した若い二人は、親と同居しないのがよい。親の近くに家を借りて住むのがよい。事情によっては親と同居せざるを得ない場合があろう。その場合でも、同じ敷地内の別棟に住むべきである。どうしても一つの建物に暮らす必要がある時でも、竈(かまど)は別にすべきである。

すぐに想像したのは、次のようなことでした。

「竈(かまど)は別にすべき」とは、老親と若夫婦では、料理の好みも、食べる量も、食事の時間も違うだろうから、別にした方がいい、ということだろう。

諭吉は、天保5年(1834年)生まれです。1868年の明治維新の時は満34歳。諭吉がこの世を去ったのは、明治34年(1901年)です。大体、このような世代の人です。大まかにいうと、江戸時代末期に前半生を過ごし、明治時代に後半生を送ったということになります。

そのような時代を生きた人の口から、このような言葉が出てくるということは、私にとって驚きでした。

この時代の人の言葉としては、本当に現代的過ぎると感じたのです。


さて、上記に引用した文章はどこにあるのか、探して見ると、「新女大学」であることがわかりました。

そこで、少しずつ調べてみました。

この「新女大学」は、江戸時代中期以降、幅広く普及した「女大学」の批判の上に書かれたものです。

「女大学」の作者は貝原益軒とされることが多いようですが、疑問も挙げられます。

内容としては、一言で言ってしまうと、「女は男に比べて一段と劣るものであるから、夫、そしてその実家筋(舅、姑)につかえて、ただひたすら言いつけに従うべし」というところでしょうか。

諭吉はこれを真正面から批判したものが「女大学評論」、そして、自らの考えである男女平等・同権を主張したもが「新女大学」でした。

両編ともに、明治32年(1899年)に時事新報という新聞に発表されました。

新聞に載せるには、だいぶ固い内容だなあ、と思いましたが、時事新報自身が、福沢諭吉が自らの意見を載せるために発刊した新聞であることがわかりました。

考えさせられたこと

上に引用した内容について、原文を引用しておきます。

なお、「女大学評論」と「新女大学」の最初の書籍と思われるものは、慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション(Digital Collections of Keio University Libraries)でオンラインでその印影版を読むことができます。また、福沢諭吉全集、福沢諭吉選集(ともに岩波書店)にも収録されています。

また、現代風にリライトしたものが出版されています。

加藤紳一郎訳 福沢諭吉 現代語訳 女大学評論 新女大学 名古屋文化学園 2023年1月 初版第二刷

現代語訳と銘打っていますが、むしろ現代風にリライトしたものという印象でした。多くの人は高校の古文授業で文語体の文章に接しており、以下に示すように原文でも、読む事にそれほどの困難は感じないと思われます。それでも文語文に抵抗感を持つ人にとってはよいかもしれません。訳者は教育の世界で高く評価されている方のように思われますので、訳文に心配はありません。

私は、というと、現代語訳の必要性は感じませんでした。むしろ、現代語の文体では、内容があまりにも当たり前すぎて、明治32年に発表されたということを考えたとき、革新性という点で、その印象が薄れてしまうと感じました。原文で読むと、その古臭い文体にもかかわらず、内容が時代をはるかに先取りしているということの印象が強く感じられます。

ここでは、青空文庫からの引用を示します。青空文庫で読み仮名が付いた部分はカッコ()内に示し、そのほか読みにくいと思われる所に本サイト管理人が読み仮名を追加した部分は"[ ]"内に示します。

・・・・女子結婚の上は夫婦共に父母を離れて別に新家を設くるこそ至当なれども、結婚の法一様ならず、家の貧富、職業の事情も同じからざれば、結婚必ず別門戸は行われ難しとするも、せめて新夫婦が竈(かまど)を別にする丈[だ]けは我輩の飽くまでも主張する所なり。例えば家の相続男子に嫁を貰うか、又は娘に相続の養子する場合にも、新旧両夫婦は一家に同居せずして、其一組は近隣なり又は屋敷中の別戸なり、又或は家計の許さゞることあらば同一の家屋中にても一切の世帯を別々にして、詰る所は新旧両夫婦相触るゝの点を少なくすること至極の肝要なり。新婦の為めに老夫婦は骨肉の父母に非ざる尚(な)お其上に、年齢も異なり、衣服飲食百般の事に就て思想好嗜(こうし)の同じからざるは当然の事にして、其異なる所のものをして相互に触れしむるときは、自然の約束に従て相衝かざるを得ず。・・・・

福沢諭吉 新女大学 1899(明治32)年「時事新報」(青空文庫の新字新仮名による)

底本は、女大学評論・新女大学(講談社学術文庫、講談社 2001(平成13)年1月)、その親本は 福澤諭吉全集 第六巻 岩波書店 初版発行日 1959(昭和34)年10月

「別門戸」とあるので、基本的に別の家屋、つまり近隣、あるいは「屋敷中の別戸」とは、同じ敷地内に隠居所を建てて老親はそこに住む、というものでしょう。

また「竈(かまど)を別にする」とは、現在の二世帯住宅で台所が二つあるような住み方でしょう。

現在の世の中から見ると、諭吉が唱えたことは、かなり実現していて、まさしく先見の明があったといえます。

新旧両夫婦の関係は、現在では、少なくとも諭吉が心配したよりは距離ができて、相当に改善していると思われます。


「新女大学」の記述ですぐに気づくのは、男女を平等に扱っていることです。

冒頭から、「夫(そ)れ女子は男子に等しく生れて」と始まります。

以下、男女を平等なものとして述べているところをいくつか挙げてみます。

女子少しく成長すれば男子に等しく体育を専一(せんいつ)とし

前条は学問と言う可き程のことにあらず、貴賤貧富に論なく女子教育の通則として、扨[さて]学問の教育に至りては女子も男子も相違あることなし。

女子の結婚は男子に等しく、他家に嫁するあり、実家に居て壻養子するあり、或は男女共に実家を離れて新家を興すことあり。

夫妻同居して妻たる者が夫に対して誠を尽す可きは言うまでもなき事にして、両者一心同体、共に苦楽を与ともにするの契約は、生命を賭して背く可べからずと雖も、元来両者の身の有様を言えば、家事経営に内外の別こそあれ、相互に尊卑の階級あるに非ざれば、一切万事対等の心得を以て自から屈す可らず、又他をして屈伏せしむ可らず。

故に婦人は柔順を尊ぶと言う。(中略)其柔順とは言語挙動の柔順にして、卑屈盲従の意味に非ず。大節に臨んでは父母の命(めい)を拒(こば)み夫の所業に争うことある可し。

(夫婦の一人が死亡した場合)男女の再縁は世界中の普通なるに、独り我日本国に於ては之を男子に自由にして女子に窮窟にす。自から両者対等の権力に影響なきを得ず。是れ亦我輩の等閑に看過せざる所のものなり。

抜粋となってしまいましたが、一つ一つの文章を読むと、実に丁寧に論を進めていることが分かります。

少し大きな市民図書館であれば、全集がそろっているようです。目を通して見ることをお勧めします。

ただし、疑問も出てくる

一通り読むと、いくつか、疑問が出てきましたので、それについて書いておきます。


(1) どのくらいの数の人が読んで理解できるか

すでに書きましたが、文章はある程度固いです。

内容からして、ある程度固い話ですから、文章も固くなります。

このような文章を、明治時代前半の女性がどれほど読んで理解できたのでしょうか。

単純に考えても、漢語が多く、堅苦しい表現が目立ちます。

漢語の問題は、慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクションでみられる原著を見ると、かなり詳しく読み仮名が付けられています。ですから、読むだけならある程度はできそうです。

例えば、上記で引用した最初の文章では、以下で示す漢字に読み仮名が付けられています。

少しく、成長、等しく、体育、専一

ですが、読める事と内容を理解することとは同じではありません。

当時の小学生が、どのような教育を受けていたかを知るのに、絶好の資料を見つけました。

「明治初期の子どもと学校」という題名の講演の記録です。東京学芸大学附属図書館が開示しています。

例えば、小学校の数は、53,760校を設置するという目論見だったようで、これは、人口約600人に1校の割合で学校を置くという計画だったようです。

子供100人で小学校がひとつ、ということらしいです。

明治6年には12,000余りの小学校があり、就学率は男子が39.9%、女子が15.1%、これが2年後には、小学校が24,000、就学率は男子が50.8%、女子が18.7%となります。

科目は、というと、下等小学では「綴字、習字、単語、会話、読本、修身、書牘(しょとく)、文法、算術、養生法、地学大意、理学大意、体術、唱歌、ただし唱歌は当分これを欠く、というもの」とされています。上等小学ではこれに加えて、「史学大意、幾何学罫画大意、博物学大意、化学大意」、さらには「外国語ノ一二、記簿法、画学、天球学」を加えることができる、という決まりだったようです。

「加えることができる」というのは、おそらくですが、教えることができる教師が足りなかったのでしょう。

書牘とはなにかと調べたら、手紙でした。

下等小学で4年、上等小学で4年の合計8年間学びます。確かに、これだけを勉強すれば、ある程度の知識は得られます。

明治8年には、女子の就学率が18.7%といいますから、5人に約1人は小学教育を受けていたことになります。

これを多いとみるか、少ないとみるか、微妙なところはあります。

江戸時代の寺子屋から、数の上では小学校が減ったようで、その原因としては、寺子屋がほとんど無償であったのに対し、小学校は有償に成ったため、と言われます。

ですから、ある程度の富裕層は女子を小学校に行かせたのでしょう。

男子の就学率が女子より高いのは、いろいろな知識がないと、働くことが困難になり、貧しくなりがちです。その点は男子の方がよりり切実だったのでしょう。

やはり、この本(または時事新報という新聞での記事)を読んで理解できるのは、女子では数が限られていたように思います。


(2) 諭吉が問題点として指摘したことは本当か

男尊女卑の考えのもとで抑圧される女性を解放し、自立せしめる意図で、この「新女大学」は書かれています。

では、そこで指摘された問題点とは、本当にそうなのでしょうか。

いろいろに問題点が指摘されていますが、それほどひどいものではなかったのではないか、と感じるところがありますので、そのことを考えてみたいと思います。

まず結婚は両親により相手の候補が選ばれ、本人の自主的な選択の余地がない、という点は、諭吉自身が、そうでもないと否定しています。

見合いをしたとき、いやなら断ればいいし、相手のほうでも気に入らなければ断ってくる、そういうものだ、ということが書かれています。

海外の人間が、日本では見合いして結婚、というやり方を単純にとらえて、日本の結婚はひどいものだ、と非難するのは間違いだ、と書いています。

諭吉が書いたような、「いやなら断ればいい」というのは、ある程度は当てはまっているようです。

夏目漱石が後に妻となる鏡子夫人と見合いをした様子が、夫人の観点から書かれた「漱石の思い出」という本に書かれています。

夏目鏡子述・松岡譲筆録 漱石の思い出 文春文庫 文藝春秋社 1994年7月

見合いの日の様子のエピソードの一つとして、つぎのようなことがあったようです。鏡子夫人の家での見合いの後、漱石が帰った直後のことです。鏡子夫人の妹と鏡子夫人との会話です。

「ねえ、ちょいと、お姉さん、夏目さんの鼻のあたま横から見ても縦から見てもでこぼこしてるのね。あれたしかにあばたじゃない」
「ええ、わたしもそう思ったわ」
そういって母と二人でやっと解放された気で陽気に笑い・・・・

見合いは明治28年12月です。「新女大学」が発表されたのは明治32年ですから、ほぼ同時代と言っていいでしょう。

事実、見合いに関して鏡子夫人の父から漱石側に、「そちらでいやなら遠慮なくお断わりなさい、こちらもいやなら遠慮なく断わろう」と伝えてあったことが前掲書に書かれています。

諭吉が書いたように、両者が合意しなければ見合いの後で結婚には至らない、という状況になっています。

ただし、それが貫徹していたかというと、そうでもないようです。鏡子夫人が自分の思いを次のように語っています。

「もちろんそのころの、ことに旧式に育てられたほうの娘のことですから、親が是が非でもゆけと言えば、少しぐらい虫が好かなくともどこへでも片づいたではありましょうが・・・・」

ですから、気に入らない相手でも結婚する、という気風はあったのだと思います。

もっとも、鏡子夫人の例は、一般大衆のことではありません。

鏡子夫人の父は、当時数少ない大学卒業者であり、「この縁談の持ち上がったころには貴族院の書記官長をしておりました」と書かれています。また当時住んでいた官舎にはすでに電話があったと書かれています。漱石の家に電話が引かれるのはずっと後ですから、高級官吏と言っていいのでしょう。

ですから、上流階級の人々の間では、という前提がつくと考えるべきでしょう。

ただ、必ず「女は男のさしずの通りに」というものではないことは、いろいろな事例から知ることができます。

落語は、江戸の中ごろに起こったものです。その中の登場人物は、単に男の言いなり、という女性は少ないのです。

現在残っている落語は、おおむね江戸後期から明治時代に成立したものが多いようです。その中で、女性はかなり自立しています。

夫が仕事をしないで酒ばかり飲んでいる、というと、自分で夫をなだめすかして仕事に行かせるとか、あるいは兄弟、大家などに相談して夫を諭してもらうとか、積極的に行動します。

「宮戸川」という落語の噺があります。

幼馴染の男と女がどちらも家に帰るのが遅くなり、締め出しを食ってしまったというところから始まります。男は将棋にかかわって、娘はカルタに夢中になって帰宅が遅くなり、家に入れてもらえない。娘が男に「今晩どうするの」と聞くと、おじさんが近くにいるので、そこに泊めてもらう、との返事。娘はというと、親類は熊本のおばがいるだけでどうしようもない。娘は男に、私もそのおじの家に今晩だけ泊めてほしいという。男はそれは困ると断る。そのおじは早とちりで有名なので、二人で行ったら、駆け落ちの二人だと決めつけて収集が付かないことになる。男は急いで走り出すが、娘は足が速く、とうとうおじの家まで来てしまう。おじは二人を見て、案の定、「なんだ、二人連れか。お前の親は堅物だから、明日俺がとりなしてやる」と言って二人を二階に上げてしまう。

このようなドタバタ劇のお笑いですが、娘の行動を考えると、興味深いことがいくつか見つかります。

・娘が夜に自宅から締め出しを食ったにもかかわらず、さほど慌てないところを見ると、それが初めてではないのかもしれない。

・娘が幼馴染の男に、おじのいえに一緒にに泊めてほしいと頼む

・全力で走る男に対し、遅れずに走っていく

自分で問題を解決しようとアクションを起こしていること、男と同じ速さで走ることができること、など、諭吉が、女もこうあるべき、ということを実現しているような印象です。

たとえば、「新女大学」の一節に次のようなところがあります。

女子少しく成長すれば男子に等しく体育を専一(せんいつ)とし、怪我せぬ限りは荒き事をも許して遊戯せしむ可し。娘の子なるゆえにとて自宅に居ても衣裳に心を用い、衣裳の美なるが故に其破れ汚れんことを恐れ、自然に運動を節して自然に身体の発育を妨ぐるの弊(へい)あり。大なる心得違なり。小児遊戯の年齢には粗衣粗服、破れても汚れても苦しからぬものを着せて、唯活溌の運動を祈る可し。

女子もこうあるべき、と書いたそのことがすでに実践されている、という感があります。

学ぶべきこと

女子が学ぶべきこととして、物理学、などを挙げ、その次に大事なのは、として、経済と法律を挙げています。

これは、明治時代の女子という前提を離れて、現代の男女ともに必要なことで、この点では、明治時代から進歩がないといえるでしょう。

経済と法律とは、経済学と法学という学問の領域ではなく、世の中の経済の仕組みと法律の仕組みを理解する、ということでしょう。

私自身のことを考えても、小中学校、さらに高校まで、経済と法律について学ぶ機会はほとんどなかったように思います。

経済で言うと、中学で複利の計算について習いましたが、計算表を使っての計算の仕方を習っただけのような気がします。

複利では、どれほど利子が増えるのか、ということを損得を交えて教えるべきでしょう。

現在の話ですが、ネットの話題として、退職金を銀行員の進めるままに運用して大幅な赤字になった、というたぐいの記事を頻繁に目にします。

また、退職後の年金の額が想定していたのと大きく違ったとか、年金の繰り下げ需給を選んだところ、予想外の低い額にしかならなかった、などと言う話も出てきます。

このような点を考えると、「物理学、そしてその次に経済と法律」ということを言っているのは、現代において、さらに男女にかかわらず不足している、つまり、諭吉が主張したことは現代にいたっても不十分なままだ、と言わざるを得ません。

女性論以外

以上のようなことを書いてみました。その中で、諭吉の言について、とても気になることが見つかりました。

女性論における先見性を強く感じる一方、国際問題になると、アジア蔑視という側面がある、という指摘があるのです。

私は今まで、諭吉の著作を読んだことがなく、今回、女性論を読んでその先進性に驚いたのですが、諭吉の中にそれとは真逆の一面がありそうだ、ということが見えてきたのです。

そうであれば、女性論だけをここで取り上げるのは片手落ちのように思えてきました。私にとって、女性論は諭吉への入り口でしたが、その奥に、別の部屋があるとしたら、それを素通りしてはいないと感じたのです。

それに関する代表的な著作は「脱亜論」のようでしたが、これは青空文庫には収録されていませんでした。

ネット上で探して見ると、原文がJCA-NETというサイトにあることがわかりました。JCA-NETのトップページにおける最初のタイトルでは"JCA-NETの目的"が次の様に書かれています。

JCA-NET は通信NGOとして、APC(進歩的コミュニケーション協会)とともに、世界の APC メンバー40カ国以上のパートナーとの協力により、社会的、環境的、経済的正義、性による差別の克服を求める社会運動を、情報通信技術を使って支援します。

要は、様々な形での差別を克服する活動を支援するという活動を行っている団体のようです。

その原文ですが、文字数が約2,250文字ですから、著作としては小さなものです。

簡単に言うと、私は以下のようなものととらえました。

幕末に西洋文明が日本に届いた。日本はそれを採用すべきと考えたが、江戸幕府は認めなかったため国内に紛争が起き、江戸幕府は倒れた。

日本はすでに西洋文化を取り入れようとしている。

だが、残念なことに、日本の隣には支那(ママ)と朝鮮という2つの問題のある国がある。この両国は改革や進歩の道を知らず、古い習慣を保つだけである。

教育では現代にそぐわない儒教にこだわり、道徳は残酷不廉恥の極みで、自省の念を持たない。

両国が開明になるのを待ってはいられない。このままでは、西洋からは日本が両国と同様のレベルの低い国とみられてしまう。日本はこの両国とは断絶すべきである。

そのほか、青空文庫に「亞細亞諸國との和戰は我榮辱に關するなきの説」という著作が収録されています。

郵便報知新聞という新聞社が、1875年(明治8)年10月7日に、諭吉の説を「近日征韓の議論新聞紙上に飛雨をなし、世人の耳目も此論題に集る」時節に「社論と方向を同ふするを以て、之を掲げて」掲載したもののようです。

これを読むと、当時の世情とか、諭吉の考え方がよく理解できるようにに感じられました。それは、上記した女性論の先進性とは全く別の世界でした。

征韓論を唱える西郷隆盛、板垣退助などが明治6年にその職を退いて下野、明治8年9月には江華島事件が起こる、という変革の時期でした。江華島事件について何も論評していないので、諭吉がこの文章を書いたのは、この記事が発表された明治8年10月より少し前だったのでしょう。

内容は、「和戰は我榮辱に關するなき」とは、「アジア諸国と平和的に対応するか、戦争によって対応するかということは、日本の将来にとってどうでもよいことである」、とし、例えば、最近、台湾に出兵して圧倒し、清国も困っているが、しかし我が国にとっては、結果的に軍事費を使っただけで、得るものはない、といいます。

あるいは、「朝鮮という国は野蛮であるから、これを討つという征韓論ももっともなことかもしれないが、そうしてもなんの役にもたたない。朝鮮のほうから日本の属国になることを申し出てきたとしても、うれしいことはない。朝鮮の征伐はやめるべきである。」など、まったく一方的に見下して非難しています。

また、「識者によっては、朝鮮は目的ではなく、その先の支那の富を手に入れることを狙うものである、という人もいる。しかし、支那という国はすでに西洋に結びつきが強く、日本が手を出せば、西洋は自らの権益を守るために支那を支援するだろう」といって、「支那の富を手に入れることを狙う」という考えも退けます。


かなり強引にまとめましたが、アジアの中で支那も朝鮮もダメで無視するのがよく、日本は西洋に向かって我が道を行くべき、という考えだと思われます。

諭吉にみられる二面性

このように、家庭内の問題、あるいは女性の地位向上に関する考え方の先進性と同時に、中国と朝鮮に対しては、帝国主義を振りかざすという、矛盾ともみられる態度をとっています。

この矛盾について、参考となる考え方を見つけました。

加藤陽子 戦争の日本近現代史 東大式レッスン! 征韓論から太平洋戦争まで 講談社現代文庫 講談社 2002年3月

この中で、西郷隆盛に従って東京を離れた鹿児島旧士族がつくった士族民権雑誌「評論新聞」の主張を取り上げています。どういうことかというと、一方では立憲の確立を求め、他方では「朝鮮であれ支那であれ相応の相手を選んで戦を初め、以て全国の英気を引起せ」という主張であると紹介しています。

このように、国内に対する主張とアジア諸国(特に中国と朝鮮ですが)に対する主張が、現代のわれわれから見ると正反対の方向を示しているように見えることは、ほかにも、吉田松陰とか木戸孝允にも見られ、この時代に共通の認識だと指摘しています。

このことに対して、端的に表現しているとこがあります。

ここにわたくしたちは、日本近代の一つの特徴であるといえる「内にデモクラシー、外に帝国主義」といわれるものの一つの源流をみることができるのではないでしょうか。

つい先ほどまでは、日本も攘夷論が強く(少なくとも徳川政権においては)、文明開化に背を向けていたにもかかわらず、明治維新後は文明開化、富国強兵へと舵を大きく切り、西洋諸国を追いつく目標に据えました。そして、いまだ開国をしない朝鮮に対しては実力をもってしても迫る考えに至ります。

ですから、上に書いた様な諭吉の、ある種の二面性は、幕末から明治初期においての日本の大きな思想上の流れに沿っていたと言えそうです。

ただし、女性論については、諭吉ほど明快に、かつ論理的に男女同権や女性の自立ということについて主張した人はないようです。

その背景の一つには、諭吉の娘の結婚相手の不行状に対して娘を守る、という立場があったという説をどこかで目にしました。

しかし、これもまだ詳しくはわかりません。

娘の結婚相手は士族の出身者でないとだめだと言って、結婚を反対するとか、自分の息子たちは全員アメリカに留学させたのに、娘たちには寄宿舎に入って学ぶということを禁じたように、女性の問題について、まさに言行不一致と非難する意見もあるようです。

このような言行不一致は、私は許容範囲と考えています。"言"においてよいのであれば、その"言"に助けられたり、励まされたりする人が出ます。それはそれで価値があると思います。

サトウハチローという詩人がいます。「ちいさい秋みつけた」などの童謡の作詞、あるいは「おかあさん」シリーズの詩など、非常に人気の高い詩人ですが、私生活では父譲りの放蕩、不品行の数々が異母姉の佐藤愛子に書かれています。

実生活では社会から非難される人物でも、その作品自体は作者の人格とは独立に評価されてよいと思うのです。

もちろん言行不一致でないほうが望ましいことは言うまでもありません。

福沢諭吉について

今回、福沢諭吉の女性論について書き出したところ、思いのほかいろいろな側面を知ることになりました。

大きな鉱脈を掘り当てた、という感触です。これは突っ込んでみたいと考えるのですが、どうでしょう。

諭吉自身が巨人と呼んでふさわしいほどの人物であると感じますが、幕末から明治初期にかけて、実にいろいろな人がいろいろなことを言い、いろいろな活動をしています。それらを総合的に見ていかないと収拾がつかないのではないかという惧れを感じます。

どう考えても、わたしの手が届く話ではなさそうです。

備考

この部屋のタイトルでは「近現代文学」と銘打っています。福沢諭吉の著作、あるいは福沢諭吉自身を「近現代文学」というカテゴリーでとらえていいのだろうか、「近現代文学・社会思想」などのようにタイトルを変えるべきではないだろうか、という疑問が最初に浮かびました。辞書を参照すると、「文学」について、「詩歌・小説・戯曲・随筆・評論など、作者の、主として想像力によって構築した虚構の世界を通して作者自身の思想・感情などを表現し、人間の感情や情緒に訴える芸術作品。また、それを作り出すこと」、また「史学・社会学・哲学・心理学・宗教学などの諸分科を含めた称」(精選日本語大辞典)とあるので、広い意味では「文学」に含めてよいと考え、この部屋のタイトルはそのまとしました。


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