近現代文学つまみ食い 6 夏目漱石の書簡集がおもしろい その3


[2019/10/18]

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書簡集のスキャン入力

前回の記事に引き続き、漱石の書簡です。

前回の記事から3か月近く経ってしまいましたが、特別な理由があったわけではありません。

別の記事で書きましたが、手持ちの本のスキャン入力を進めていて、いよいよ漱石全集(ただし新書版)もその対象とすることにし、まず書簡集の5冊、および最終刊の「補遺」にも書簡が収録されていますので、「補遺」をふくめて6冊から始めました。

スキャンしてデジタル化することの最大のメリットは語句検索ができる、と思っていたのですが、今回は当てが大分外れました。

旧字体が多いことが原因です。旧字体の漢字に対する文字認識の精度があまり高くないのです。もっともJIS規格、Unicodeなどに定義されてなければパソコン上で取り扱うことができませんので、精度だけの問題ではありません。

たとえば"大学"では検索しても出てこず、"大學"としなければなりません。但し"鴎外"では"鷗外"も検索できます。

このような事で、検索しても検索できなかったからといって、その語句がないとも限りません。このことは注意が必要です。

真情の吐露

漱石自身の心情を吐露している、と感じられる処があります。

1871(明治24)年11月11日

   正岡常規へ

僕前年も厭世主義今年もまだ厭世主義なり嘗て思ふ様世に立つには世を容るゝの量あるか世に容れられるの才なかるべからず御存の如く僕は世を容るゝの量なく世に容れらるL の才にも之しけれどどうかこうか食ふ位の才はあるなり
・・・・
       十一月十日夜      平凸凹乱筆
子  規

読みやすく、かつ私流の読みを加えて書き直してみます。

僕は去年も厭世主義、今年もまだ厭世主義です。思うに、世の中に立つには世の中を受け入れる器量があるか、世の中に受け入れられるだけの才能があるか、これ以外には決してあり得ません。あなたもご存じのように、僕は世の中を受け入れる器量もなく、世の中に受け入れられるほどの才能にも之しいけれど、どうかこうにか食っていく程の才能はあるようです。

"平凸凹"ですが、"注解"に次のような説明があります。

「たいらのでこぼこ」と読む。激石は、幼時病んだ疱瘡の跡が残っていたので、こう戯称したもの。

ほとんどは正岡子規宛の書簡で使われ、最後に使われたのは明治25年8月のようです。漱石の生年は明治元年の前年ですから、明治の年数が満年齢になり、明治25年は満25歳ですから、若い時期にごく親しい子規との間で使っていたのでしょう。

その後に、次のように書いています。

・・・・漸々慈憐主義に傾かんとす然し大体より差引勘定を立つれば矢張り厭世主義なり唯極端ならざるのみ之を撞着と評されては仕方なく候

"慈憐主義"はいまなら"博愛精神"という処でしょうか。

漱石の心の中にある"博愛精神"と"厭世主義"を秤に掛けると、"やっぱり厭世主義"なんですね。

"矢張り"の読みは、"やっぱり"としました。書簡集の中で、漢字の読みをどうするか、という事を漱石が指示しているところがいくつもあります。そのなかに、"矢張り"について「矢張りは小生わざとふる(ママ)たる處多し やはりに御直しありても大抵の處は差支なかるべきか、然しある處はやっぱりに願ひ度心地致候(明治45年7月28日付け書簡)」と書いているからです。ついでですが、同じ書簡に「暖(アタ)たかくは暖(アッ)たかくなるべし東京にてはあったかくと申候」とも書いていて、東京弁ということにはこだわりを見せています。

すこし脱線しましたが、"前年も今年も厭世主義"と書いておきながら、"いや、ほんのちょっとだけど"と言っているのですね。

ですから、自分から"撞着といわれてもしかたがない"ということになるわけです。

もっとも、手紙の相手が旧知の正岡子規ですから、若者同士のおしゃべりの内容とでも言うべきところと見るべきでしょう。

そのことはこの手紙の冒頭にはっきり現れています。

僕が二銭郵券四牧(ママ)張の長談議を聞き流しにする大兄にあらずと存居候慮案の知く二牧張の御返禮にあづかり金高より云へば半口たらぬ心地すれど

私なりに書き直すと次のようになります。

僕が書いた切手4枚が必要になる長文の手紙を、君は聞き流しはしないだろうと思っていたところ、そのとおりに切手2枚分の返事の手紙を頂き、送料からすると半分しかない、という気もするけれど、

仲の良い友人同士の他愛もないやりとりという雰囲気ですね。但し、徐々にまじめな議論に移っていきます。

漱石の様々な面

この手紙には、後に明らかになる漱石の様々な面が顔を見せているように思えます。

(1) 滑稽さ

「我が輩は猫である」に出てくる滑稽さ、ユーモアは、上記の切手の費用にも表れていますが、更に続けて次のような文章もあります。

僕決して君を小児視せず小児視せば笑うて黙々たるべし八銭の散財をした慮が君を大人視したる証拠なり恨まれては僕も君を恨みます

簡単に言うと、「切手代に8銭も使った事は君を子供扱いしていない証拠です」というところです。

(2) 過激をさける

上記と同じ手紙です。

君の道徳論に就て別に異議を唱ふる能はず唯貴説の如く悪を嫉むの一鮎にて君と僕の聞に少しく程度の異なる所あるのみどう考へでも君の悪を嫉む事は飴り酷過ぎると存候

「悪を憎むという点に関して君と僕の聞に少し程度の違いがある」、として、「どう考えても、君の悪を憎む事はあまりひどすぎる」としています。

これに似た事を武者小路実篤への手紙で発見しました。大正4年6月15日の手紙ですから、漱石は48歳の年です。武者小路実篤は漱石より18歳年下ですから、30歳です。

武者小路実篤が間違ったことを書かれて怒っている場面と思われますが、漱石は手紙でこう書いています。

1929(大正4)年6月15日

   武者小路實篤ヘ

武者小路さん。氣に入らない事、癪に障る事、憤慨すべき事は塵芥の如く澤山あります。それを清める事は人間の力で出来ません。それと戦ふよりもそれをゆるす事が人間として立派なものならば、出来る丈そちらの方の修養をお互にしたいと思ひますがどうでせう。

「憤慨すべき事はたくさんありますが、それを清める事はできせん」、と書いておいて、さらに「それを許す事が人間として立派なものならば」と前提条件を出しておいてから、「できるだけそちらの方向に進むべき」というところを「お互にそうしたいと思いますがどうでしょう」と疑問文の形で実に柔らかく説いています。

漱石は大正5年12月に死去しています。この手紙を書いた翌年です。漱石の晩年の心境が現れているように感じました。

そしてその片鱗が正岡子規に対する漱石25歳のときの手紙にも現れていると思います。

夏目漱石は神経衰弱によるヒステリックなところがあり、時には書斎の隅にあった火鉢をひっくり返して部屋を灰だらけにしたり、食事の時に幼い娘に腹をたててちゃぶ台をひっ繰り返した、などということがあったと、鏡子夫人の回想(*)に書かれています。

(*) 夏目鏡子述・松岡譲筆録 漱石の思い出 文春文庫 文藝春秋社 1994年7月

食事の時に幼い娘に腹をたててちゃぶ台をひっ繰り返し(p.140)、火鉢をひっくり返して部屋を灰だらけに(p.137~138)。この前後に漱石の異常な行動がいろいろ出ています。

その一方では、というよりもむしろ漱石という人の大部分は、周囲の人に対して、ユーモアを交えながら、優しく、丁寧に接していた人、ということを印象づけられる代表的な手紙です。

備考

(1) 本記事の基になった書簡集(補遺を含む)については前の記事に書きましたので、ここでは省略します。

(2) 書簡集で、文字の書き間違いなどの疑問があるところを特に修正しないときは"(原)"と表記してありますが、ここではこのサイトで今までしてきたように"(ママ)"としました。

(3) 漱石書簡集という本が岩波文庫から出ていることを知りました。158通を選んで注解を付したものとされています。当分の間この本は見ないで私なりに書き進め、一通り書き終えたら、私の選んだものとどのくらい違うかを比べてみたいと思います。今のところ、ロンドンから鏡子夫人に対して「御前が恋しい」と書き送ったものと、図書館事務員の話し声がうるさいと学長に書いたものの2点は絶対に外せないと思いますが、そのほかはどうなるか興味津々です。


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