【20】茨城県水戸市 弘道館


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弘道館

水戸市の弘道館を撮影しました。

文化財の名称など公式には"旧弘道館"といういい方をしますが、一般には"弘道館"で通っていることから、ここでは"弘道館"という表記にします。また、京都府や佐賀県などにも"弘道館"と呼ばれるところがあるようですが、ここでは水戸市の弘道館に限ります。

弘道館は2015年4月に日本遺産の第1号に認定されました。他の3県との合同の認定です。

日本遺産に関しては、文化庁の該当サイトを参照願います。このサイトを参照すると、日本遺産への登録内容は以下のようなものでした。

タイトル・・・・近世日本の教育遺産群 -学ぶ心・礼節の本源-

水戸市(茨城県)・・・・旧弘道館、偕楽園など
足利市(栃木県)・・・・足利学校跡、国宝漢籍など
備前市(岡山県)・・・・旧閑谷(しずたに)学校、熊沢蕃山宅跡など
日田市(大分県)・・・・咸宜園(かんぎえん)跡、長福寺本堂など

重要文化財の観点からみると、弘道館では、正庁、至善堂、正門附塀の3点です。現実に見学する場合、たいていは正門、正庁、至善堂の順で巡ることになります。

なお、今回の撮影は2日にまたがり、天候や撮影時間が異なるために、光の当たり方がだいぶ異なった写真が混じっていることをご承知置きください。

A. 正門

A-1.正門と塀

重要文化財に指定されているのは、中央の正門と、それから左右に直線状に伸びる塀です。塀は両方向ともにさらに伸びていますが、正門と一直線に伸びた各一区間が重要文化財の対象です。

A-2.正門

24mmレンズを上に向けて撮っているので、屋根がアーチ状。撮り直したいです。レンズを変えるのが先かもしれません。

A-3.正門内部の上部

装飾がシンプルな蟇股。色がモノクロの様ですが、実際にこの様な感じです。学校ですから派手さは不要なのでしょう。

A-4.蟇股

中央の三つ葉葵は、葉の模様も刻まれています。

A-5.控柱下部

礎盤は柱に合せて四角です。

A-6.扉中央部

修理跡がたくさん見られます。大きなものは右扉中段や右扉の枠の上部、小さなものは右扉上部の水平にある3個の金具の中央のものの右わき、左扉の中段金具のすぐ右下、左扉の枠の下部。色が地味で判別しにくいかもしれません。

A-7.門の内側から

基本的におもて側と裏側は対称の構造です。

A-8.内部の上部

木鼻や本柱と控柱をつなぐ海老虹梁など、寺院と同様です。色彩がありませんが、おそらく創建当時からなかったのでしょうね。寺院の場合は見る人を圧倒するような色彩が施され、年月とともに風化して色があせた、という場合が多いのですが、そうではなさそうです。

A-9.屋根の側面

いい形です。

A-10.控柱下部

礎盤も前面と同じ。

A-11.かんぬき

頑丈なものではないのは、学校なので、敵の攻撃に備える必要性が少ないのでしょう。

A-12.塀の屋根瓦

軒先の瓦の先端(これを瓦当(がとう)というようです)の模様ですが、門の屋根では三つ葉葵ですが、塀の屋根では三つ巴の周囲に8個の小円が配置した模様です。

A-13.説明板

天保12年(1841年)に創立、とあります。幕末ですね。"弾痕"と書かれていますが、このページのNo.2の写真では、向かって右の控柱の下部に比較的はっきりしたものがあります。

B. 正庁

B-1.正庁主部

玄関の左側で、主な部屋があるところです。

B-2.玄関

玄関に相当するところで、屋根が深い上に幅広い廂(ひさし)が出ているために、いつも暗いです。

B-3.玄関内部

玄関先から内部をのぞくと、「尊攘」と書かれた掛け軸が目に付きます。

B-4.玄関内側から外を眺める

玄関の位置側から外を眺めたところ。玄関と正門とは、一直線上にあるのではないようです。前記の様にとても暗いのですが、板の間が冷たくないのです。今は秋の中頃ですが、真冬になったときにはどうなんでしょうか。

B-5.廊下

濡れ縁から障子で隔てた廊下に相当する所は畳敷きです。藩主が歩くところだから、ということでしょうか。あるいは大きな行事のときには中下級の武士がここに座る、ということを考慮してのことなのでしょうか。

B-6.室内から外庭

外庭は対試場(たいしじょう)と呼ばれ、武術などの試験が行われたところです。藩主などは室内からその様子を眺めた、とされています。

B-7.正席の間

藩主がお出ましの時はここに着座します。掛け軸は弘道館記の碑を拓本にとったものです。

B-8.正庁全景

右が玄関で、左側に主たる部屋があります。

B-9.南側

玄関から左手に回った所。左が対試場で、正庁の建物は濡れ縁がぐるりと巡っています。

B-10.玄関の側面

廂の出具合がよくわかります。上端の大棟、そこから下る降り棟や斜めに分岐する隅棟、"けらば"の白が印象的です。(棟の呼び名はちょっと自信がありません)

B-11.対試場の奥からの正庁と正門

B-12.玄関の右側の様子

このように建物の周囲には樹木が多いです。正門はその枝の後ろで分かりにくいですね。

C. 至善堂

C-1.

一番外側は縁側でしょうか。外に雨戸があります。障子の内側が廊下でしょうか。正庁では雨戸がありませんでした。逆に正庁の方が雨の時には大丈夫なんだろうか、と気になります。至善堂は藩主が宿泊することがあり、正庁は仕事をするところで、そのような違いが出ているような気がします。明治元年には徳川慶喜はここで謹慎生活を送った、とされているように、こちらは生活の場所でもあります。

C-2.廊下

日当たりのよい所です。

C-3.廊下から庭

梅はもちろん、色々な樹木が飢えられています。

C-4.一の間

一の間は、藩主が滞在する部屋です。

C-5.上座からの眺め

藩主が座る位置から見ると、二の間、三の間と続いて、その奥には通路にもなる四の間があります。

C-6.三の間にて

三の間から上座を見ます。藩主がいる場所までずいぶん距離があります。

C-7.四の間

四の間は現在は通路になっています。かつては中下級武士が詰めていたこともあったのでしょう。

C-8.雲龍水

消防ポンプです。はたしてどのくらい実用になったのでしょうか。

C-9.銘文

側面には、「安政四年丁巳四月吉日」と読めます。弘道館の完成は上に示したA-13の説明板で安政12年と書かれています。その前年に建築開始ですから、それよりずっと早い。ということは、この雲龍水はどこかで使われていたものを、弘道館の完成時に移設したもののようです。当時は貴重な設備だったのでしょうね。

C-10.長持ち

徳川慶喜が謹慎生活を送った時に使用した、と伝えられています。

C-11.葵の御紋

いままでよく見たことがなかったのですが、葵の内部には細かな装飾があることに初めて気づきました。

C-12.大日本史

当時の書物や手紙がガラスケースの中に展示されています。

C-13.大日本史第241巻の書き出し

3人の編集者の名前が見られます。3人ともに権中納言従三位で、光圀、綱條、保重は、調べてみると、第二代、第三代、第六代の藩主です。大日本史の編纂が歴代藩主の責務として代々受け継がれてきたことがうかがえます。"修"、"校"、"重校"とありますから、光圀が編修、綱條がそれを校訂、保重がさらに校訂ということでしょうね。

"編修"とは、「ある資料に基づいて書物の形にまとめ上げること。多くは、史書、実録、教科書などについていう」(現代国語例解辞典 第四版による)ということでした。実はこのたび辞書を引いて初めてその意味を理解しました。(それにしても、この辞書の説明文は実に簡潔で分かりやすいですね)

C-14.庭から眺めた至善堂

庭に下りることができる階段が二つ見えます。裏にもう一つあります。至善堂は正庁の後ろ側にあり、午前中は陽が差しませんが、午後になると陽がよく当たります。

【感想】

室内の写真を多数撮る、という経験は、重要文化財の写真を取り出してから初めての経験でした。現在の住居と比べると、部屋のサイズが格段に大きく、屋根が深いため、室内に光が届きにくく、とても暗いです。このため、室外の一部が写ると、室内外の明暗差が極めて大きくなってしまいます。対策として、上記の写真では、画像データの"現像"段階でアクティブD-ライティングを掛けています。また、レンズの歪みが目立つ写真が出てしまいました。"現像"段階でレンズのひずみの補正は掛けて少しは改善していますが、それでも残ります。さらに、今回の写真の多くが手持ちのレンズの最もワイド側である24mmで撮っており、パースペクティブが強まって、垂直・水平の傾きが目立ちます。ある程度はテクニックで目立たないようにできるはずですが、私にその技術がなく、残念な結果です。撮影の技術を高めること、良いレンズを使うこと、この二つが課題だなと、感じた今回の撮影でした。また、私のウェブサイトに載せる様な小さなサイズではなく、大伸ばしをしたときには画像の荒れが目立ちます。室内が暗いのに三脚が使えない(重要文化財に傷を付けたら大変です)ため、手ぶれを防ぐのに感度を上げたためです。手ぶれを防いで感度はあまり上げないようにする、これも課題の一つです。



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