【12】茨城県行方市 西蓮寺 仁王門


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茨城県行方市に西蓮寺があります。

その仁王門と相輪橖(そうりんとう)が国指定重要文化財に指定されています。


場所は霞ヶ浦の東岸の中ほどになります。

まず、仁王門と対面です。

1.正面から

1.正面から

堂々としてかつ端正な姿です。

痛みが少ないのは、きちんと修理の手が入っているのでしょう。


2.説明板

2.説明板

天文12年(1543年)に建立されたとあります。

偶然でしょうが、佐竹寺が兵火にあって焼失したのがこの年で、地を移して3年後に再建されています。

寛政年間(1789~1801年)に二階部分を取り壊して一階建てになったとあります。

どうしてそのようなことをしたのか、というと、....分りません。

新編常陸国誌(*)の西蓮寺の項には、「樓門ヨリ正面藥師堂大堂ナリ」の記述があり、
楼門、つまり二階建てです。

(*)新編常陸国誌 宮崎報恩会編集 常陸書房発行 昭和56年10月1日 再版  P. 372 (備考1)



3.仁王門内部

3.仁王門内部

門の中に立っています。

三段に並ぶ斗枡が印象的です。

べたべたと貼られた千社札、悲しい、情けない。


そういえば、おもて側を見たときには気付かなかった、と思い、再確認します。

4.おもて側の端の一間

4.おもて側の端の一間

千社札はありません。

おもて側は張るのを遠慮したのか、あるいは寺がはがしたのか、
どうなのでしょう。

細かく見ても、はがした跡の様なものは見えませんね。(備考2 仁王門の千社札について)

追記 写真を見直したら3枚ありましたね。正面から見て左側です。うーむ。(2013/4/17)


仁王門を通りぬけ、裏から眺めます。

5.仁王門裏面

5.仁王門裏面

中央の一間には、正面からは額に隠れて見えなかった蟇股(かえるまた)が見えます。
室町時代としては典型的なデザインではないでしょうか。

その左右は蓑束になっています。

千社札はありませんね。

6.柱の下部

6.柱の下部

柱は基盤を介さずに礎石に乗ります。当然痛みやすい。
痛みがひどければ、下部を削り取り、新しい材をはめこむ、ということになります。

ここに写っているのは、裏から見て左端の本柱です。
この様な部分的な修理はどのような方法で行うのか、興味があります。

7.屋根の裏

7.屋根の裏

前の写真に写った空間の上部を内側から見たところです。

この様な斜めに懸けられた虹梁は、初めて気が付きました。
いままで見過ごしてきたのでしょうか。

いままで撮影したお寺では、斜めに突き出している肘木があったかしら、と、見直してみると、
いろいろでした。

佐竹寺本堂、龍禅寺三仏堂には斜めに突き出す肘木はなく、
薬王院本堂、小山寺三重塔・本堂・仁王門にはありました。

なければ簡素なつくりに感じられ、あればにぎやかな印象を受けます。

建築様式としてどう理解すべきなのでしょうか。

斜めになった肘木があり、その上に枡があります。よって、建物の外側にはその肘木の反対側が
突き出て枡が乗っているのでしょう。

外から見てみます。

8.仁王門裏側の左端部

8.仁王門裏側の左端部

ここに見えている蓑束が写真7に写っている蓑束のはずですが、斜めの虹梁を支える肘木が
建物から突き出ている部分はあまりよくわかりませんね。

組物は三手先。上の写真4に写っているおもて側と造りは同じです。
この組物の力強さと蓑束のかわいらしさが好対照ですね。

9.鐘楼

9.鐘楼

袴腰付き鐘楼です。

袴腰の部分は緩やかな曲線になっている場合が多いのですが、これは直線的です。

10.常行堂

10.常行堂

結構にぎやかなデザインだ、と感じますが、まあ、妻の部分はたいていはそんな感じですね。


11.向拝部正面

11.向拝部正面

こちらもにぎやか。
左右の掛鼻は、横向きが獏、正面を向いているのが獅子、と典型的なパターン。

12.向拝部側面から

12.向拝部側面から

付けられるだけの装飾は残らず付けた、という感じ。
江戸時代になってからの意匠でしょうか。

【感想】

典型的な仁王門といえるでしょう。

なにより、よくメンテナンスされていて、また千社札が目立たないのがいいです。

色合いも実に地味で、いかにも中世という印象を受けます。

奈良から平安の頃の寺院は、東南アジアのお寺の様にキンキラキンの色合いのものが多かった、
という事は知っていますが、どちらかいいか、といわれると無彩色に近い、目立たない色の建物で
あった方が私はひかれます。


【備考1】新編常陸国誌

江戸時代後期の文化12年(1815年)ごろから中山信名により史料収集が
始まった。未完のまま中山は没し、残された史料を色川三中が整理・修訂し、
さらに色川の死後、明治時代になって大幅に増補・修訂し、印刷・出版できる
状態にしたのが水戸の学者栗田寛である。

以上は、「常陽藝文」 平成22年6月1日発行 特集『新編常陸国誌』研究 常陽藝文センター発行
による「新編常陸国誌」の紹介です。

西蓮寺仁王門は寛政年間(1789~1801年)に二階部分を取り壊して一階建てにした、と
されています。この時期は、新編常陸国誌の史料収集開始の約14~26年ほど前ですから、
同書で「楼門」つまり「二階建て」と書くのは時期的に合いません。

しかし、同書は現地調査を行わず、もっぱら他の史料に基づいて編集されたものです
(上記常陽藝文による)から、もとにした史料はもっと古い時代ものである可能性が
高いことを考えると、おかしなこととはいえないでしょう。


【備考2】仁王門の千社札について

下記の資料に、昭和34年の西蓮寺仁王門の修理の時の修理前後の写真が掲載されています。
仁王門を四方向から撮影しており、修理前の様子を知ることができます。
それによると、おもて側にも、裏側にも千社札がないのです。
写真はそれほど鮮明ではありませんが、千社札の有無は見分ける事ができます。
とはいっても、目立たないところのものは見えないかもしれませんね。

重要文化財西蓮寺仁王門修理工事報告書 重要文化財西蓮寺仁王門修理委員会 編 昭和34年(1959年)9月発行 

[以上は2013/4/15に追記]


【追記】

最初は、西蓮寺の二つの重要文化財である仁王門と相輪橖をまとめて1項目としていましたが、このシリーズは
重要文化財というくくりで取り上げたものなので、仁王門と相輪橖を別項目に分けました。ただし、記載内容は
実質的に変わりません。 (2013/9/2)



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