【10】茨城県取手市 龍禅寺


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茨城県取手市にある龍禅寺三仏堂です。

国指定重要文化財にこの三仏堂が指定されています。


関東鉄道常総線の稲戸井駅に近い住宅地の中にあります。

1.入口

1.入口

入口の門柱には、右に天台宗、左に龍禅寺とあります。

この写真の左手に三仏堂の屋根が写っています。

門の手前に車をとめることができるスペースがありました。

2.山門手前の桜

2.山門手前の桜

訪れたのは3月28日、今年(2013年)は桜の開花が早く、満開です。

山門をくぐって、左に回り込むと三仏堂を裏から見ることになります。
正面に回りました

3.三仏堂正面

3.三仏堂正面

いらっしゃった若い住職さんに聞くと、この日は見学の団体が来る予定なので、
戸を開けている、堂の中に入ってよいです、とのこと。これは運がいい。
仏像も含めて中の写真を撮ってもいいです、と言われましたので、あがらせていただきました。

やがて、団体の見学客が来て、中で解説が行われたようです。
私は部外者なので、建物の周囲の写真を撮り、見学客が帰った後で撮影を続けました。

4.正面右手から

4.正面右手から

側面に一間分広げたように見えます。

5.右側面

5.右側面

こんな感じです。
最初は、縁の上に乗っているのかと思いましたが、そうではない。

6.説明板

6.説明板

「三間堂の平面であるが、正面に一間外陣を設け、さらに両側面と背面にもこしをつけた構成」
とあります。

図面を見てもさっぱりわからないので、左手を眺めます。

7.左側面

7.左側面

確かに左右対称です。

そのまま裏手に回りました。

8.裏面

8.裏面

両側面の裳階(もこし)はすこしはみ出していて、そこに階段がかけられている。
どう見ても、裳階の部分の出入り口です。

背面向かって左側もこれと同様の構成です。

9.軒裏

9.軒裏

垂木は平行繁垂木。組物は二手先。中備(なかぞなえ)は蓑束や撥束(ばちづか)ではなく、
柱の上と同じ二手先の出組。

中備は、このような簡素なつくりの場合は、私が今まで見てきたケースでは
ほとんどが蓑束や撥束だったのですが、組物は珍しい。

と思い、左側を斜めから見ると、側面では中備が蟇股になっていました。

10.前面と側面の軒下

10.前面と側面の軒下

すこし離れてみるとこのような感じ。

11.前面の軒下全体

11.前面の軒下全体

いままで見てきた中では、常陸太田市の佐竹寺で前面と側面の蓑束のデザインが違っている、という
例はありましたが、蓑束という点では同じでした。

中備が出組と蟇股というように全く違うのはめずらしいのではないでしょうか。


戸が開いているので上部を見上げます。一番外が外陣とすると、内陣の外側を見ていることになります。

12.内陣外側の上部

12.内陣外側の上部

中備が蟇股でした。額の中の文字は「三佛堂」です。

もともとは蟇股である方三間に対して、正面に外陣を伸ばしたときに、一番外側を
出組にしたのでしょうか。

この右端はこうです。

13.内陣外側の上部右端

13.内陣外側の上部右端

ここが中央の方三間の右側で、右端に見える戸(引き戸のようです)の外側は縁です。


それでは内陣に入ってみましょう。

14.内陣右側面

14.内陣右側面

中備は当然ですが蟇股です。

奥はどうなっているでしょうか。

15.方三間の左側

15.方三間の左側

右端が須弥檀になります。

この柱の配置が私には分かりませんでした。

須弥檀の裏には、半間の間隔をおいて円柱があります。
ここが狭いのは、須弥檀を半間後退させた結果です。

さらに半間離れた位置には、やや細い角柱があり、この堂の背面になります。

16.須弥檀の裏側

16.須弥檀の裏側

右側は来迎壁なので、内陣は、来迎壁の後ろが幅が半間の狭い空間となっており、
背面の裳階部に続きます。

外の説明板に平面図があります。

17.平面図

17.平面図

須弥檀の背後の二本の柱が半間ほど後退しているのが分ります。

また、須弥檀の前の中央の2本の柱がありません。
この2本の柱は須弥檀の前の参列者にとっては邪魔な存在です。

このことからも、須弥檀の前に広いスペースが求められた、という要因がありそうです。


次の様な考え方が可能かもしれません。

須弥檀の前に多数の参列者を収納する広い空間がほしい、
そこで、須弥檀を半間ほど後方にずらし、前の2本の柱を抜く。
そうすると、須弥檀の後ろが狭くて息苦しいので、
裳階を後面につけて床をそのまま延長する。

そうすることにより、須弥檀の前面のスペースが広くなり、より多くの参列者を収容できるのは
確かです。

逆に、参列者の数が少ない場合には、須弥檀の前面のスペースの広さは
求められないでしょう。

現時点での私なりの考え方を備考1に整理しました。


福島県いわき市の白水の阿弥陀堂は、このサイトの「最近の写真」シリーズの【3】でも
取り上げました。(残念ながら堂内の写真はとれませんでした)

「岩城国守岩城則道(いわきのりみち)の正室徳姫が則道の死後、その菩提を弔う
ために建てた」と言われています。このような場合、徳姫とそのごく近親者だけが
堂の中に入ればよいので、参列者は少ないでしょう。
その結果、そこでは須弥檀の後退がなく、また須弥檀の前の二列目の柱の中央の
二本は残っています。

白水の阿弥陀堂の平面図はたとえばここで見ることができます。

須弥檀を後退させるという構造はよくあるのでしょうか。

また、内陣と考えられる方三間では、中備が前面と両側面は蟇股なのですが、
須弥檀の来迎壁と一番奥の列の中備が出組です。

なぜ変えているのでしょうか。

内陣の内部を見る機会はほとんどないので、判断がつきません。


ネット上で情報を探ると、須弥檀の配置については、面白い論文がありました。
長くなるので詳細は末尾の備考2にまとめました。

要するに、方三間の仏堂での須弥檀の位置は、三間の空間を手前の1間、中央の1間、後ろの1間と
いうように分けると、中央の1間の後ろに沿って配置する場合と、この三仏堂の様にそこから半間ほど
後ろにずらす場合の両方があるのです。

やはり、須弥檀の前面のスペースを確保するためであろうと思えてきました。


18.正面の外陣から

18.正面の外陣から

正面の外陣から方三間の左端を見たところです。
左側の格子の外が裳階の部分です。

両サイドの裳階の内部は前面、後面がふさがっていて見えません。


19.鐘楼

19.鐘楼

こちらは新しく建てられたものの様です。


本堂に戻ります。

20.本堂

20.本堂

非常に簡素で、古い形式の様ですが、建物自体は比較的新しいようです。

中備はなく、柱は斗を使わずに肘木を載せた舟肘木です。
これほど簡素な造りも珍しい様に感じます。

ガラス戸なので、実用的に造ったものでしょう。

21.向拝の蟇股

21.向拝の蟇股

ここでは蟇股の上に巻斗を置き、肘木で梁を支えています。

22.向拝の掛鼻

22.向拝の掛鼻

左右を向くのは獏、手前を向くのは獅子の様で、この組み合わせが多いですね。



【感想】

当たり前ですが、寺院建築は、外部だけでもいろいろな要素があって複雑、言いかえれば
興味深いのですが、室内はさらに複雑で、興味はますます募ります。

相馬の御厨があったところで、色々な勢力が関わり、佐竹氏は何度も攻略を試み、
金砂城の戦いで頼朝勢により佐竹氏が打ち破られる原因の一つがそれであるとされています。

歴史と絡めて、この寺を支えたのがどのような人々だったのか知りたいと思いますが、
私にはちょっと荷が重いですね。



【備考】

【備考1】平面構造について

いろいろと自分なりに考え、現時点で以下の様に整理しました。

仮説といっても、大胆な、むしろ無責任なものですが、何かあった方が
今後検討するのにも便利だろうと思ってのことです。

(1)最初は方三間だった。

(2)室町時代末から戦国期には、領主間の勢力争いで、有力な領主の管轄範囲が次第に
広くなり、仏事に参列する人数も増えていった。

(3)堂は手狭になり、広くするための改築が求められた。

まず、須弥檀を半間だけ後退させ、前面のスペースを拡大した。そうなると、須弥檀の裏が
手狭になったため、半間ほどの幅で裳階をつけて、元の広さを確保した。

(4)さらに、領主と近親者、あるいは家老などの上位の侍が控えるために、さらなるスペースの
拡大が求められた結果、前面に一間外陣がもうけられた。

(5)さらに増加する参列者を収納するために、両サイドに裳階を設置した。ここに参列する
のは中位~下位の侍であり、かつ人数も多くなり、正面から出入りするのは控えるべき、
との考えから、背面に出入口がもうけられた。

須弥檀の位置は、最初から半間だけ後退していたのかもしれませんね。

このようなことを検討するには、この地域の歴史を知ることが必要になります。
室町時代後期は千葉氏の勢力下にあったのでしょうか。この時代の千葉氏周辺は
権力闘争による抗争がかなりあったようで複雑です。

この続きを備考3に書きました。


【備考2】須弥檀の配置について

次の論文が見つかりました。

福島県に現存する室町期・方三間仏堂の平面構成と意匠に関する一考察
方三間仏堂の成立と普及に関する基礎的研究 その1

「室町期に造営された福島県に現存する三間堂(原則として方三間堂としたが
一部梁間四間のものも含めた)10棟について検討」したものです。

着目点の一つが須弥檀の位置で、検討の結果として

「内部に須弥壇を設けそこに厨子を安置する。その場合に来迎柱を側柱の柱筋に
合わせて計画する場合と、来迎柱を後退させる事例がある」

と述べられています。

来迎柱とは、須弥檀の背面の来迎壁の左右の柱で須弥檀の後面の位置にあたります。

この論文では、調査対象の平面図を載せており、それを見ると10例の堂の内、
方三間ではない1例を除くと、後退しているものが5例、後退していないものが
4例で拮抗しています。

なお、須弥檀の前の2本の柱の処置ですが、9例中1例を除いてはずされています。

裳階の有無については触れられていません。いくつかをネットで検索すると、
付いていないか、ついていても一番外側が壁のない柱だけのタイプでした。


三仏堂のように、堂の背面に外が板壁になった裳階がつき、内部との仕切りがなく、
一つの屋根の下で床もつながった、内部と連続した空間になっている、という構造は、
かなり特殊な構造なのかもしれません。


【備考3】龍禅寺に関する資料でわかったこと

上記の備考1に、「歴史を知らなければ」と書いたので、取手市の歴史に関する
資料を探したところ、三仏堂の歴史についてぴったりの資料が見つかりました。

取手市史 社寺編 取手市史編さん委員会編 取手市教育委員会発行 昭和63年3月1日

この中の154~171ページが龍禅寺三仏堂についての解説記事です。

おおむね、昭和60~61年の大修理の内容と、それに伴って得られた知見について
書かれています。

さしあたって気になる事をピックアッブすると以下の様になります。

(1)今回の修理で、できる限り創立当初の姿に復元した。

(2)できるだけ当初の材料、当初の工法を用いた。

(3)建物の3方に裳階がつく構造は、国指定重要文化財には例がなく、
また、県指定文化財や未指定仏堂でも未確認である。

いままで、何度かの修理でかなり大幅に変更されていたようですが、
現在見ることができる姿が、創建当時の姿と考えてよさそうです。

とすると、上で「最初は方三間だったが、堂に入るべき人数が増えてきたため、
須弥檀の位置をずらしたり、裳階をつける、などの改造がなされた」
のではないだろうかと書きましたが、最初からこうだった事になります。

私が考えるストーリーに従えば、

仏寺に参列する人数がかなり多くなってからこの堂が造られた、
収容人数を増やすために須弥檀を後退させ、左右に裳階をつけた
須弥檀の後退により背後が手ぜまになったために、背面に裳階をつけ内陣と連続させた
参列者はその階級の上位から3ランクに分けて、内陣、外陣、裳階に参列した
ということになります。

そう考えると、裳階の屋根が堂の屋根と一体化している、ということも理解できます。
裳階を後で付け足したのではなく、最初からそう造ったのですから。


この地域を統治する領主の勢力がかなり(具体的には分りませんが)大きい
時期に建てられたということでしょう。

佐竹寺では「佐竹昌義が永樂三百貫の土地を寄進した」、
水戸薬王院では「江戸通泰が本堂再建費用として二百貫文を進納した」、
などの記録が残っていて、大旦那(パトロン)の名前が分っています。

佐竹寺は継続して佐竹氏が支持してきました。
水戸薬王院では、最初は大掾氏、次に江戸氏、さらには佐竹氏と
変遷はありましたが、支持者は途切れませんでした。

この龍禅寺では支持者は千葉氏でしょうか。でも、千葉氏の本拠はもう少し南にあります。
この地域は紛争がずっと続いたので、支配者が誰だったのか難しい問題です。



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