【7】茨城県桜川市 小山寺


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茨城県桜川市にある小山寺です。

富谷観音として知られています。

国指定重要文化財に三重塔が指定されています。


境内の入口に説明板があります。

岩瀬町観光協会が設置したようです。

説明板

説明板

三重塔は寛正6年(1465年)に再建された、とあります。

一方、茨城県教育委員会の"いばらきの文化財のページ"(*1)には、
「寛正6年(1465)・・・・建立された」とあります。

桜川市の教育委員会のサイト(*2)では、
「この三重塔は相輪の銘によると、寛正6年(1465)・・・・建立されたものである」とあります。

年度はどれも同じです。「建立された」が正しいようですね。

(*1) いばらきの文化財 小山寺三重塔

(*2) 小山寺三重塔(おやまじさんじゅうのとう)


平らな小道を進むと仁王門が現れました。

仁王門

仁王門

二体の仁王像があるはずのところに何やら白いカバーが。

解体修理でしょうか。これは残念。(2013/2/28のことでした)

仁王門の上部

仁王門の上部

シンプルな三手先の組物の間には、蟇股、ではなく、これは絵を描いただけですね。

でもよく見ると、絵の中央の上部を見ると、丸桁に四角の色の違う部分が見えます。

蓑束の様なものの痕跡かな。ちょっとわかりません。

その上の二段の丸桁(がんぎょう)にはペアの巻斗が二段に使われています。

上部の重量を支えるために、蟇股とか蓑束の様なものを使うはずです。

ここでは、板が埋め込まれているので、これが重量を支えるのでしょうか。

描かれた蟇股

描かれた蟇股

左右の斗栱の肘木に付く巻斗とそれに支えられる丸桁の位置関係を眺めると、
蟇股の絵を描いた板は決して厚くはなく、重量を支えるためのものではないと感じます。

ちょっと不思議な構造です。

二階には普通の蟇股があり、巻斗を介して丸桁を支えていて、これは普通なのですがね。


軒先をのぞき上げると平行繁垂木(しげたるき)。

軒先

軒先

垂木はずいぶん色がばらばらです。修理のタイミングが違うんでしょうね。

ということは、修理の時は垂木の状態を一本一本確認し、使える物は使い続ける、
というように判断しているわけです。


裏手に回りましょう。

裏手

裏手

二階の上部の組物から伸びた尾垂木が目に付きます。

後で出てきますが、三重塔でも本堂でも尾垂木が長いです。

もっともこれが普通なのかもしれません。

左下に、二階に上がる階段が見えます。


裏から表を見る

裏から表を見る

表に見えていた蟇股の絵はありません。

本柱(3列の柱の真ん中の柱)にかかっているのは掛け鼻でしょか。江戸時代に盛んに行われたということで、
この仁王門も造られたのが享保17年(1732年)と言われていますから、ちょうどあいます。

でも、全体として、この仁王門は修飾が控えめで、私には不釣り合いに感じました。


裏手の階段を登って、仁王門を見降ろします。

仁王門を見降ろす

仁王門を見降ろす

楼門、つまり二階建ということになっていますが、二階がそれにしては低い。
楼門というものはこのようなものなのでしょうか。


階段を登りきって左を見ると、三重の塔が目に飛び込んできます。

三重塔全景

三重塔全景

いやはや、立派なものですね

実は、三重塔とか五重塔は、10年くらい前に京都に行ったときに、仁和寺五重塔を見て以来でしょうか。
その前はというと、実に、中学校の修学旅行で奈良・京都に行ったときに見ただけです。

修学旅行の記憶はもうありません。見たはず、というしかありません。

方三間、屋根はとち葺き。ただし、こけら葺きと書かれていることもあります。私には
よく分りません。どちらも板を葺くことには違いないのですが、板厚が1cm以上のものは
とち葺きという、と言っても、板厚はよく見えません。


一層目の上部です。

一層目

一層目

中備は、中央の一間には蟇股、その左右には蓑束です。


二・三層目

二・三層目

中備は三つとも撥束(ばちづか)です。
一層目と比べると、中央にあった蟇股が撥束に変わり、左右の蓑束の蓑型の修飾もなくなっています。

空間が狭くなったためでしょうか。

天狗の鼻のように長く伸びた尾垂木が印象的です。

相輪

相輪

宝珠の先端が宝珠で、ここにこの三重塔の由来(大檀那(資金提供者)、建てた大工、建てられた年)が
刻まれているそうです。アップで撮れば見えるのでしょうか。

それほど大きなものではありません。どこに刻んであるのでしょうね。


高欄

高欄

高欄は勾欄とも書きます。縁のまわりに造られた手すりです。

一層目では、三重塔全景の写真で見られるように欄干を用いているのに対し、二、三層目では
欄干がなく、手すりの端部は上向きに跳ね上がる、跳ね高欄という形です。


一層目の組物

一層目の組物

斗栱、蟇股、蓑束、左下には木鼻も見えます。

斗栱の最上段には実肘木を入れて丸桁を支えますが、実肘木の両端には木鼻の様な修飾があります。

円弧状の部分を持つ軒支輪の並んでいる様子も見えています。この様なものは蛇腹支輪というようです。


鐘楼

鐘楼

本堂、仁王門とともに県指定文化財です。


仁王門から急な階段を登って右手に進むと、本堂です。


本堂全景・左から

本堂全景・左から

桁行き五間、梁間五間の大きな建物です。

正面の位置からでは私のレンズでは全体が入らないので、左側面から離れて全体を納めました。

全体として朱塗りのなかで、桟唐戸(さんからど)の部分が黒塗りで、眺めを引き締めています。、


正面

正面

額に納まった絵馬が目立ちます。

中央の向背は修飾がにぎやかです。

江戸時代に再建された、と入口の説明板に書いてあります。
再建の時は、やはり再建当時の技法が入るものなのでしょう。

虹梁の上には龍の彫刻でしょうか。手の込んだ細工です。

虹梁の両端は、左右を向いているのは獏鼻のようです。こちらを向いているのは獅子鼻ですかね。
よく見ると、さまざまな修飾があります。


正面間近

正面間近

向背の部分の断面を白く彩色したのは、周囲や背景の朱、そして戸の黒となかなかいい色のバランスです。

てっぺんには鬼瓦が見えます。


正面右端

正面右端

平行繁垂木、軒反りは実はこのくらいです。ここのページの他の写真で急角度に反っているように
写ったものがありますが、広角レンズによりパースペクティブが強調された結果です。


正面右から

正面右から

桟唐戸の配置が左側面と違っています。たいていは本堂の構造は左右対称なのですが。
内部構造が分らないので何とも言えません。


右側面

右側面

左側面には絵馬が飾られてよく見えなかった組物が見えます。

同じ蟇股が並んでますね。

その上には、巻斗がペアで2段に重なります。仁王門にも同じ構造がありました。


縁の下-正面

縁の下-正面

縁の下をのぞいてみると、柱の下部を修理した跡がよく見えます。正面の縁の下です。

礎石は、自然石の上部を大まかに水平に加工したものですが、よく見ると、奥の2個は
きちんと台形に整形してあるのに対し、手前側の4個はそれほど整形していません。

どうしてこのような違いが出るのでしょうか。


縁の下-右側面

縁の下-右側面

右に視線をめぐらすと、こちらも柱の下部の修復跡が見られます。

礎石は、はっきりはしませんが、こちらの1列の方が整形はされているように見えます。

この写真を見ると、高くはありませんが、亀腹でしょうね、
右端の縁束の下部は柱の礎石の上面より低くなっています。


なにやら焼印がありました。

修理の記録の焼印

修理の記録の焼印

「平成四年度補修」と読めます。どうりで板が新しいですね。


返り間際にこちらの位置から三重塔。

三重塔-ちょっと離れて

三重塔-ちょっと離れて

三重塔を眺めるにはこのくらいの位置がいいのです。しかし残念ながら、右側の赤い屋根の建物が
写りこんでしまいます。

残念でした。


ここでも、祠(ほこら)の様なものを見つけました。

祠

「お寺に祠」という組み合わせは、私は違和感を感じてしまいますが、現実にはよく見かけますね。

神仏混淆の長い歴史がありますから仕方がないのでしょう。

このように書いてあります。

この水神様は
大古水又は体護水と云はれ
古来より當山の飲水として
又佛事等に使はれました
       小山寺

水神様というのは、特に神道と結びつけなくても良いのかもしれません。単に日本人古来の考え方であると
とらえることができるのでしょう。でも、この様に祠を作って"神様"と呼ぶのは、やはり神道だなあ、と
感じました。


【感想】

三重塔は、やはり国指定重要文化財だけの事はある、と思いました。

寛正6年(1465年)に多賀谷朝経が旦那となり、大工宗阿弥家吉とその息子によって建立されたものと、
相輪に刻まれているそうです。

時の権力者が建設資金を提供した時は、その名前が残され、同時に、現実に建築に当たった大工の名前が
記録されます。

大工の権威が確立したということですね。

子供の時のなぞなぞ。「法隆寺はだれが作ったのでしょうか」「聖徳太子です」「残念、大工さんです」

大工の権威が高まったのは、城の建築では大工の力量が大きく影響するから、ということでしょうか。

戦国時代は、1467年の応仁の乱に始まる、とされますが、年表を見ると、1392年の南北朝合体の後、
反乱(何とかの乱)、領主間の戦、一揆などが絶えまなく起こっています。

それまでは寺社の建築をもっぱら行ってきた大工が、城の建築に呼び出され、その価値が認められるように
なってきたのでしょうか。これは単なる憶測にすぎませんが。

「七十一番職人歌合」という絵巻があります。1500年頃に造られた物ですが、
現在残っているのは、江戸時代に書きなおした版です。

さまざまな職人を題材とした歌合せで、二人が歌で対決する形式で、登場する職人は142人。
実はその最初が番匠(ばんじょう)、即ち、大工の棟梁で、鍛冶(職人)と対決します。

職人と云えばまず第一に番匠、と考えられていたのでしょう。

七十一番職人歌合の上巻1番

七十一番職人歌合の上巻1番

画像提供:東京国立博物館  七十一番職人歌合

(この画像は、条件付き(商業目的でないこと、東京国立博物館へのリンクを入れること、その他)で使用可能なため、掲載しています。)


右の"はんさう"とあるのが番匠(ばんじょう:大工の棟梁)です。
右手に持っているのは木の皮をはいだり、柱の外面を荒削りするちょうな(釿)でしょうか。
足元には曲尺、墨つぼ、鑿(のみ)、木槌があります。

烏帽子、直垂(ひたたれ)、口髭・あご髭を蓄えた、なかなか貫禄ある姿です。

腰には刀を差しています。武士という位置づけなのでしょうか。

相手は、鍛冶(かじ)で、同じような姿ですが、刀は差していないようです。

このような人たちが、この当時、世の中で広くその存在を認められていた事が分ります。



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