【5】茨城県水戸市 仏性寺本堂


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茨城県水戸市にある仏性寺です。

八角堂である本堂が重要文化財に指定されています。

最初に本記事をアップした時、この仏性寺本堂は東日本大震災で被災し、解体修理中で、ブルーシートに囲まれた礎石くらいしかありませんでした(撮影は2013/2/9)。今年(2014年)春に修理が終わった事を知り、撮影に来ようと思っていましたが、色々な事情でのびのびになり、9月になってやっと撮影できました。

このページの後半に、今回撮影の写真を追加します。念のため、最初の内容へのリンクは残しておきました。


入口の前にたつと、いきなり、仁王像との対面です。

入口手前から

入口手前から

かろうじて屋根の下ですが、吹きっさらしで、痛むのも道理です。


門をはいると、右手に鐘楼堂、正面は、イチョウの古木の後ろに、解体修理中の本堂です。

門をはいる

門をはいる


八角形の本堂は、東北地方太平洋沖地震で、建物全体が傾き、解体修理になりました。

2013年春に修理が終わるとされています。
公開された時にはまた撮影に来ようと思いますが、とりあえず、今日の姿を記録します。


鐘楼堂

鐘楼堂

平成九年に竣工した新しいものです。


ところで、鐘楼堂という言葉ですが、考えてみると字がだぶっている様に思えてきました。
「楼」は高い建物(二階建て以上)、「堂」も高い建物。

広辞苑(私が持っているのは第三版)を引くと、鐘楼と鐘撞(かねつき)堂があり、鐘楼堂はありません。

実際には、鐘楼堂と呼んでいるものは日本全国にたくさんあります。

本家の中国(語)ではどうなっているのでしょう。

鐘樓飯店というものがたくさん検索できます。タワーホテルでした。
そのほか、ヨーロッパ旅行記で寺院などの高い塔に対して鐘楼という言葉を使う例が多数見つかります。

しかし、鐘楼堂という言葉はなかなか見つかりません。

勝手に想像すると、「鐘楼」では仏教のイメージがないので、「堂」をつけて仏教らしさを強く出したのではないでしょうか。
あくまでも「お堂」の一つです、ということですね。

あくまでも勝手な想像です。


アップするとこんな感じで、オーソドックスを目指したのでしょうか。

鐘楼堂のアップ

鐘楼堂のアップ

もう少し本堂に近づくと、説明の石碑がありました。

本堂前の石碑

本堂前の石碑

全国でも数少ない八角堂であると刻まれています。

起源は、円形に近づけるための形の様です。

日本の伝統的な建築は、柱で屋根の重量をささえる構造をとります。

円形にするには、柱をたくさん並べなくてはならず、厄介です。
そこで、柱を八本にとどめてできたのが八角堂というわけです。

【参考】文化財探訪クラブ 3 寺院建築 濱島正士監修 山川出版社 第一版 P.54

ちなみに、八角堂は八角円堂と呼ばれることもあり、××円堂と呼ばれるもものが八角形であったりします。

たとえば、興福寺の北円堂、南円堂はどちらも八角形です。


工事中なのを幸いに、地面を撮影しました。このような写真はなかなかとれません。

本堂の基礎部分

本堂の基礎部分

八角形の一部が見えています。

その内側に、柱を支える礎石の列があります。

一辺が4本の柱で構成されているようです。ただし両端の柱は、2辺で共有です。

その内側に大きな礎石があります。

礎石部分

礎石部分

これを見ると、礎石の中央に穴をあけ、そこに柱をはめ込んでいるようです。


いずれにしても、肝心の本堂を見なければどうにもなりません。
修理が完了したときには、再度写真を撮りに来ることにしましょう。


【感想】

門の手前に立っている二体の仁王像が印象的です。

仁王門があってその建物の中にいる、というのではありません。
開かれたお寺ということでしょうか。

帰りがけの仁王像

帰りがけの仁王像

にらみつけて圧倒するのではなく、またいらっしゃい、とやさしくよびかけているような気がしました。


本堂修理後の写真(2014年9月撮影分)はここから。

修理完成後の本堂です。

本堂

本堂

角度を変えます。

本堂2

本堂2

八角堂なので、角度を変えても形はほとんど変わりがありません。

今回追加した写真の最後のところに解説板があります。修理前の内容なので、「銅板でおおわれている」など、現在の形とは合わない部分もありますが、その中に、「八角円堂」という言葉があります(この言葉についてはすでに触れました)。円であればどこから見ても同じという道理ですね。

八角形の場合、角の部分はどうなるのか興味があります。

角の造作

角の造作

形が方形(四角形)であれば角は直角になりますが、では八角形ではこうなります。方形では90度のところが八角形では135度、角度が1.5倍になり、ちょっと違和感があります。

建築技術としては八角円堂は全く特殊な形というわけではないので、どのように部材を組み立てるか、については昔からノウハウが確立されていたのでしょう。

修理の姿

修理の姿

新しい部材と古い部材が混じっています。ここは比較的新しい部分が多いようです。年月とともに新しいものもなじんでくるんでしょうね。

修理の姿2

修理の姿2

できるだけ古い部材を残して使う、という方針がよくわかります。

修理の姿3

修理の姿3

修理の姿4

修理の姿4

修理の姿5

修理の姿5

姿がいたわしい、とも思いますが、それほど地震の被害が大きかったということでしょう。

修理の姿6

修理の姿6

礎石部分

礎石部分

ずいぶんがっちりしたつくりですが、今回の地震を踏まえて強度を上げたのでしょうか。ボルトで締め付けているところが見えます。

次は解説板です。

解説板

解説板

平成二年とあるので今回の修理の前のままです。こちらも近いうちに修正版ができるのでしょう。

「屋根は萱ぶきであるが保護のため、銅板で覆ってある」と書かれています。この後、銅板で覆うのかどうかはまだ分かりません。

下記の【感想】で引用した会議録には、「現在日本に存在する八角形の寺院のうち,茅葺の寺院は,佛性寺本堂が日本で唯一となります」と書かれています。そのような貴重なものなので、当分はこのままでしょうかね。

【感想】

興味深いことがあります。この本堂は創建時は南向きだったのものが元禄6年(1693年)に東向きに変えられた、ということです。そして水戸市の薬王院本堂も同じ時期に向きが南向きから東向きに変えられているのです。

水戸市文化財保護審議会会議録(平成25年1月25日)

仏性寺は今回、創建当時の南向きに変えたということが上記の会議録に記されています。八角堂は向きを90度替えることはそれほど大規模な変更ではありません。今回も基本的に入口の位置を変えたと書かれています。薬王院本堂は長方形ですから大変更で、礎石の配置からやり直しです。薬王院本堂は昭和41年から解体修理されていますが、向きを変えるのは変更が大きすぎて見送ったのでしょう。

元禄6年というのは、徳川光圀が寺院改革を強力に推し進めていた時期と重なります。

水戸藩の寺院整理は寛文3年(1663年)に寺院の調査(開基帳の作成)を開始し、寛文6年(1666年)に寺院整理を始め、元禄13年(1700年)には鎮守改めと対象を広げています。

ただし、元禄3年(1690年)から藩主は光圀から次の綱條に代わっています。

薬王院本堂は、1686年(貞亨3年)に光圀が大修理を行っており、この時に向きを東向きにし、板張りの床を取り払って土間とする、という大変更でした。

なぜ南向きから東向きに変えたのでしょうか。私の想像では、東向きがあるべき姿である(西方浄土の方向を向く)、という考えが採用されたのか、あるいは仁王門の位置にあわせるため、という二つの可能性を想定しています。

西を向くというのは、堂内で内陣に僧侶が座り読経する場合に本堂の奥の方向を向く、その方向です。また、参拝客が入口で手を合せる場合にも同じく本堂の奥の方向を向きますから西を向く事になります。

本堂が東向きであればどちらの場合でも西を向くことになります。

仁王門に関してはどうでしょうか。

仏性寺の仁王門がいつ建てられたかは知りませんが、薬王院の仁王門は貞亨年間(1684~1688)に建てられたとされています。時期的にちょうど合います。

そしてどちらの仁王門も本堂の東の方向にあります。仁王門から入ってまっすぐ本堂に向かうとその正面に至る、というのは自然なことと思います。

では南側はどうなっているのかというと、昔はどうなっていたのか、ということは分りませんが現在の土地で考えると、薬王院では南側は土地が狭く、仁王門をつくるとあまりに本堂と近くなってしまいます。

同じく仏性寺では南側は近くに客殿があり、仮になかったとしても、現在のように仁王門から八角堂までの長い距離は保てません。

一般に、仁王門から本堂までの距離は大寺であるほど長いという傾向があります。つまり、本堂の東方向が土地に余裕があり、本堂から距離をおいて仁王門をつくることができ、それに合せて本堂は東向きにした、という解釈です。

おそらくは何か宗教的な理由付けがあったのであって、単に土地の形で決まったのではないだろうとは思いますね。

【追記 2014/12/5】

仁王門と本堂の位置関係についてですが、少し補足します。まず「知っておきたいお寺の基本」という本に明快な説明がありました。

小林豊孝編集 知っておきたいお寺の基本 枻(えい)出版社 2012年10月第一版第二刷

中国のお寺の特徴として、「中国では、古来より『天使南面する』すなわち天子は必ず南を向いているという考えのもと、宮殿は南向きに建てられた。そして仏さまも同じと考えられ、仏像は原則として南を向いて安置され、お堂は南北一列を基本に建てられたのである。(P.023)」としています。また「古い時代のお寺は南の門が正式の入口(P.048)」とも書かれています。

別のところでは、「南北ではなく、東西にお堂が並ぶ阿弥陀さまを祀ったお寺」という見出しで、「西方の阿弥陀仏に祈って極楽浄土への往生を願う浄土信仰が広まったのは、平安時代中頃だった。そうなると、お寺の本堂も西側に建てて、阿弥陀仏を祀るようになった。そのため、北側に本堂を配置していた古代の伽藍配置が90度右(ママ)に回転することになった」(以上はP.049)とあります。

(「90度左に回転」だと思います。少なくとも"上から見れば"、ですが。)

私の理解はこのように阿弥陀仏信仰によって東西に堂宇が並ぶ形式が広まったという理解でした。

土地の形状で伽藍配置が左右される、というのは山奥に建てる場合に土地の制約が強い時などの例外的なことだと思っていました。しかし、奈良の法隆寺という日本を代表するお寺も東西の向きで、その原因が土地の都合だったことが分かりました。

西岡常一、宮上茂隆著 新装版・法隆寺 草思社 2010年3月 新装版第一刷

670年に焼失したのち、再建にあたって、「広い道の北側に決まった新しい敷地には、せまい平地があるだけで、北側には、なだらかな丘の斜面がせまっていました。そこで丘のすそを削り、土砂を南側の低いところに整地する工事をしなければなりませんでした。(改行を省略)また、焼けた法隆寺のように塔と金堂を南北に並べる配置は、新しい敷地ではできないので、金堂を東に、塔を西にならべて建てることにしました。」(P.11)[太字指定はサイト管理人]とあり、堂宇の望ましい配置を敷地の都合であきらめて、別の配置にしたようです。ですから、堂宇の配置が土地の形で決まることもあるようです。

【追記 2016/1/23】

この仏性寺八角堂の修理についての報告書(*1)が発行されていることが昨日わかりました。

(*1)重要文化財佛性寺本堂保存修理工事報告書 pp.26-27 公益財団法人 文化財建造物保存技術協会編集 宗教法人 佛性寺発行 平成26年3月

その第3章第三節で堂の向きの変更については、以下の様な説明です。

元禄六年(1693)には正面を南向きから東向きへと改めており、須弥檀を西面の入側柱筋に東向きに移動し、

と本文にあり、以下の注がつけられています。

正面を南面から東面に改めた理由は詳らかでないが、現在は塗装によって判読不能になっている北入側筋の柱に「モトコノ二ノ柱の方ハ須弥檀ナリシヲ、水戸義公ノ令アリテ、今ノサマニ造リナシタリ」(『新編常陸国誌』「佛性寺」条、明治三ニ年刊行)という旨の墨書があったという。近隣では貞享五年に薬王院本堂の正面を南面から東面に改めた事例が知られており、関連をうかがわせる。また、佛性寺本堂の東側に位置する山門に設置された金剛力士像の銘が元禄七年であることから、正面の向きを改めたのは、露盤の銘にある元禄六年頃であると考えられる。

薬王院本堂の向きを変えたこととの関連性の可能性はすでに書いたので新しいことではありません。

ここでは、金剛力士像の銘が元禄七年である、という点が重要で、本堂(八角堂)の正面を南面から東面に改めた時期が、金剛力士像が造られた時期(おそらくは山門が造られた時期)と同時代である、という点です。

これはすでに書いていますが、山門を造ることができた場所は土地の空きスペースの点から東方だったので、山門を通って本堂に近づいたときに本堂の正面に到着する、という構造を造るために向きを変えた、という考えに合致します。まだまだ想像の域を超えませんが。

【感想2】

2014年春に修理が終わったという事はわかっていましたが、9月に撮影に行ったとき、まだ石畳の工事中で、その方向からの写真が撮れませんでした。東向きから南向きに変わったのですから、南から北に向かって手前に石畳があってその向こうに本堂の正面がある、という構図が一番オーソドックスだと思うのですが仕方がありません。機会があったら再度訪問しようと思います。



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