【4】茨城県常陸太田市 佐竹寺―改訂版


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茨城県常陸太田市にある佐竹寺です。

ふたたび撮影に行き、今までのものをまとめ直しました。(2013/2/6)

参考までに、最初にアップした内容を別ページに残してあります。


【仁王門】

仁王門です。左右に仁王像が見えます

入口手前からの仁王門

入口手前からの仁王門

右端に、坂東二十二番霊場佐竹寺と彫られた石碑があります。


仁王門が目の前にあり、その奥に本堂が見えます。

入口手前から

仁王門から本堂

「妙福山」の額の上に佐竹氏の「月印五本骨」の軍扇が見えます。


仁王像です。写真は左右に並べていますが、表示するウィンドウの幅が狭いと
縦に並んでしまいますのでご注意願います。

入口手前から 入口手前から

仁王、阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)

向かって右側が阿形(あぎょう)、左側が吽形(うんぎょう)です。

通常の仁王像は、右側に口を開いた「阿形(あぎょう)」、向かって左側に口を閉じた
「吽形(うんぎょう)」とされます。

阿形は、左手を上げているのが多いです。

合せて、「あうん」の呼吸、などと言いますね。


後で述べますが、昭和十四年早春に火事が類焼し、仁王門は焼失したが、
仁王像は「里人必死の努力に依り」運び出されて難を逃れたと、石碑に書かれています。

像の一部が欠けているのは、そのためでしょう。

歴史的建造物の歴史は、火災との闘いです。


説明文

説明文

常陸太田市がつくった佐竹寺の説明があります。


仁王門の佐竹氏軍扇

仁王門の佐竹氏軍扇

仁王門の正面高く、佐竹氏軍扇の「月印五本骨」の軍扇が見えます。

額に書いてあるのはは、「妙福山」でしょうか。


仁王門左側

仁王門左側


仁王門右側

仁王門右側

このような大寺は、修理するにも大変です。


仁王門左側_境内内側から

仁王門左側_境内内側から


仁王門右側_境内内側から

仁王門右側_境内内側から

瓦が欠落しています。


説明文の全体

説明文の全体

上に載せた佐竹寺の説明文ですが、全体的にみると、このように痛みが激しい状況です。

なお、上に載せた写真とは別の日の撮影ですので、影のでかたが違っています。


【本堂】

本堂の遠景です。

本堂遠景

本堂遠景


観音堂と呼ぶこともあります。別のところにあった本堂は失われてしまったという説があります。


もう少し近づくと、左右に、崩れた石灯篭でしょうか。

本堂全景

墓参りに来たと思しき方が歩いてきたので伺うと、
東日本大震災(具体的には東北地方太平洋沖地震)の時に崩れたものということでした。

お寺の修復には莫大な費用がかかりますので、大変な状況ですね。


【追記】この地震の直前に撮影された写真がネット上にありました。

川本君の「夫婦二人の山歩き」:Y32.常陸太田・歴史の里ウオーク

作者の方にお願いして、当時の写真を掲載させていただく許可をいただきました。ありがとうございました。

写真が別ウィンドウで開きます。

撮影は 2011/3/9、地震の二日前です。本当に崩壊直前の撮影です。

これほどまでに崩壊してしまったのかと驚きでした。


本堂の正面中央

本堂の正面


裳階があるので、向拝はないのでしょう。

中央上部の曲線的な部分が唐破風です。

左右の丸窓が左右の端なので、正面の全体が映っています。

寺院建築のさまざまなものがあります。

唐破風の中央部です。

唐破風の中央

唐破風の中央


中央上部の「経の巻」のところにも、佐竹氏軍扇である「月印五本骨」の軍扇があります。

写真下部の蛙股(かえるまた)は、随分こった造形ですね。

奈良期、平安期、室町期と時代が進むにつれて模様が複雑化していったと言われています。
これは室町期の特徴を示しています。


唐破風の下部

唐破風の下部


唐破風の下部の空間です。

左右の木鼻が目を引きます。

木鼻は貫の両側にあります。

ただし、この形状は、貫の突き出したものに細工をした、というものではないようです。
明らかに貫の材より大きいです。

「江戸時代には、頭貫とは別の材でつくり柱にひっかける掛鼻(かけはな)とよぶものが多くなった」
(参考文献(2) P.77)ということから、掛鼻でしょうか。

佐竹寺は江戸時代に大きな改修がなされたようですから、その時に付け加えられたものかもしれません。

(この部分は 2013/2/8 に追記)

よく見ると、貫の側面は何かの形に彫られて彩色されています。

わずかにアーチ状になっていて、虹梁のような形です。

これを虹梁と呼んでいいのかどうかについては、わかりません。


さらに、正面のすぐ前まで進んで天井を見上げます。

千社札に目を奪われないように注意して構造物を見上げます。

両側の海老虹梁が母屋の柱と接続しているところの直下に、木鼻がありました。

左側の木鼻

獅子でしょうか。

歯をむいていいるようで怖そうですが、柱に「ちょこなんと」座っているようで、かわいらしくもあります。

実はこの左右にも木鼻がついています。

下の2枚の写真は左右に並べていますが、表示するウィンドウの幅が狭いと縦に並んでしまいますので
ご注意願います。

左側の木鼻 右側の木鼻

左右の端の木鼻は、長い牙を見せています。
獏(ばく)鼻でしょうか。


虹梁に彫られ彩色された意匠、屋根裏の組み物など、ここには調味深いものがたくさんあります。


もう一度、中央の天井方向を見ると、複雑な形の蟇股(かえるまた)があります。

中央の高いところの蟇股

中央の高いところの蟇股

天井裏の高いところなので、目を凝らしてもどうなっているのかよく分りません。

写真を撮ってアップで見ても、何の形なのか分りません。
しかし、ほとんど見えないところにも、随分と凝った細工をしているものと感じ入りました。


さて、正面は不思議な空間です。

右を見ると、こうです。

正面右方向

正面右方向


左を見ると、こうです。

正面右方向

正面左方向


中央の戸の部分がだぶるように撮影しています。

母屋の柱は円柱で裳階の柱は角柱でしょうから、丸窓の外側の柱までが母屋でしょう。

丸窓がついた一間分が壁の様に突き出した格好です。

そうすると、丸窓の窓枠で両端をふさがれた間口五間桁行き一間の空間は何なのでしょうか。


これを外陣(げじん)と解説板には書いてあるようです。


私の理解している外陣のイメージは、母屋の囲いの中で、何かの仕切りで内陣と仕切られた空間、
というものでした。

一般に、内陣には僧侶だけが入ることができ、檀信徒は外陣に控えている、というものと思っていました。

これでは母屋の外のように思えます。

裳階の下の一間の空間と一体になっていて、間口五間奥行き二間の広々とした空間と見ることできそうです。

吹き放ち(ふきはなち)というものがあります。

ここでは丸窓をつけている、という点で、それと同じ効果(風通しをよくする)をあげるためのもの、
という感じもします。

もう一度上を見上げます。

二種類の虹梁

二種類の虹梁

左の面は、母屋の前面から一間奥のところにあります。

そこから、二種類の虹梁が伸びています。

太くて赤黒く、長さは二間で裳階の先まで届くもの(A)と、それより一段と上部から長さ一間分の
赤くてより細身のもの(B)です。

また、Aでも、一番外側の虹梁(A1)とその内側の虹梁(A2)では、左側の柱に取り付けられた高さが
違っていて、そのため、軒梁を支えるにも、A2では虹梁に溝を掘って直接軒梁を乗せ、A1では、
組み物を介して軒梁を支えています。

つまり、屋根の作りとしては、母屋の前面の一間分と裳階の一間分が一体になっています。

どうなっているのやら。

私の乏しい知識では何とも判断できません。


とりあえず、花頭窓と丸窓のアップした写真を載せておきます。

花頭窓は火燈窓とも書くそうですが、寺院建築では火事を嫌うことから花頭窓が用いられるとのことです。

右の花頭窓と丸窓

右の花頭窓と丸窓

左の花頭窓と丸窓

左の花頭窓と丸窓


中西忠さんの極めて充実したホームページ(*4)の解説では、下記の様に書かれています。

伝来した当時の仏教寺院の「窓」はすべて四角い「連子窓(れんじまど)でした。
・・・・「鎌倉時代に「禅宗寺院」が伝来しますと、「禅宗様」の「花頭窓(かとうまど)」が現れます。
・・・・寺院建築の「窓」は「連子窓」と「花頭窓」だけでしたが、「丸窓」が出てまいりました。

とすると、この形は、少なくとも、禅宗寺院の形式が普及した後のものでしょうか。

ただし、通常の花頭窓は、下部が広がっているもので、このように裾のところがつぼまっているのは珍しいかもしれません。



正面から見て右手から

正面から見て右手から

これを見ると、奥行きが五間であることが明解です。

こうなると、正面は一間分だけひっこめてある、ということでしょうか。

ひっこめて、向拝の様な空間を幅五間にわたって設けたのでしょうか。

次の様にして眺めると、正面の構成がよくわかります。

正面の構成を側面から見る

正面の構成を側面から見る


上の2枚の写真で、斗栱(ときょう)と、中備(なかぞなえ)が見えます。

中備は蓑束。
装飾は蓑とは違いますね。

下記の参考資料(1)では、「蓑束」について、「束の上部に文様彫刻のあるもの」とされています。

最初は蓑の様な装飾だったのが次第に形が変化したが、名称は蓑束のままだった、という
ところでしょうか。


蓑束に関して一つ気づいたことがあります。

正面の構成

左端と二番目の蓑束ですが、装飾のデザインが違うのです。

5個の蓑束を並べてみます。

蓑束_左の2個

蓑束_左の2個

蓑束_右の3個

蓑束_右の3個


奥行きが五間なので、5個の蓑束がありますが、左端の1個が他の4個と違っています。

このようなことはよくあるのでしょうか。


実は、この蓑束の装飾は、正面のものはまた別のものでした。

垂木の断面と蓑束

垂木の断面と蓑束

正面右端の部分ですが、明らかに別のデザインです。正面の蓑束は皆同じようです。

(ただし、唐破風の後ろのものは隠れて見えにくいため、まだ確認していません)。


これらの写真ではっきり分りますが、屋根のすぐ下の垂木の間隔が、比較的広いと感じました。
この前見た白水の阿弥陀堂では、これよりずっと密です。

垂木の間隔の広い疎垂木(まだらだるき)と間隔のせまい繁垂木(しげだるき)の違いがあると、
後になって知りました。


また、佐竹寺では垂木の断面が五角形です。

尾垂木(斗栱から突き出した部材、佐竹寺にはない)では、断面が四角形が和様、五角形が
唐様と言われていますが、普通の垂木で断面が五角形という事についてはまだ分りません。


次に背面です。

背面

背面


正面から見て左側の面です。

右側面

右側面


右端に、丸窓が見えます。


ここで木鼻をみてみます。

木鼻

木鼻

木鼻はこの本堂のあちこちに見られます。

形もいろいろですが、これくらいが一番"木鼻"らしいのではないでしょうか。

いかにも、貫などが突き出た部分に装飾を施した、という感じが出ています。


前記の中西 忠 さんのホームページでは、下記の様に書かれています。

「大仏様木鼻」には象鼻・獅子鼻・獏鼻などがあり、「禅宗様木鼻」には
渦紋・植物紋などがあります。

これは、鼻が長く伸びているので、獏鼻に相当するのでしょうか。


屋根裏の作り

屋根裏の作り


舟肘木(ふなひじき)とはこのようなものです、という説明がそのままあてはまりますね。


このお寺は、全体的に、部材が細いように感じます。

どっしりした、というのではなく、軽快な、とでもいうのでしょうか。

建築技術が進んで、必要十分な強度が追及されたかもしれません。

写真の右側にみえるのは、海老虹梁(えびこうりょう)でしょう。
彫刻されて彩色が施されているところが部分的に見えます。

これで一周したことになります。

次は、私のとっておきの場所、左側面の裳階の下の空間です。

左側面の裳階の下

左側面の裳階の下


正面のみにくい千社札はこちらにはまばらです。目立たないと意味がないようです。


裳階は本堂を囲むように作られています。
雨から母屋を守る、ということでしょうか。

濡れ縁のようなものではなく、土間になっています。
通路としても使うものかしら、と考えました。ちょうど人がひとりゆったりと歩ける幅があります。

法衣を抑えながら、衣擦れの音を立てて、僧侶たちが歩いている様子を想像してしまいます。


本堂は北東に向いていますから、この写真の視線方向が北東の向きになります。

午前中から昼過ぎまで、たっぷり日差しが入ります。

寒い季節にはこの空間は気持ちの良いところで、
また暑い季節には、この裳階が母屋を直射日光からまもり、暑さを和らげます。


さて、本堂の左手にひっそりと鳥居があります。

鳥居

鳥居


神仏習合の結果でしょうか。でも、これほど密着しているのは珍しいのではないかと思います。


少し傾いた建物の扉が開いていていたので、中をのぞきました。

ほこら

ほこら


ほこりをかぶったほこらがあり、その足元に小さな狐の像がたくさん並んでいました。
「見たわね」といった様な顔つきで、にらまれたような気がしました。


裳階の外側の柱(裳階柱)の根元に使われている礎石の形が面白いです。
正面から見て左側の一列分を撮りました。

礎石 礎石2
礎石3 礎石4
礎石5 礎石6

縦の柱の下に、重量を支えるために礎石を配置しますが、礎石の上面の形に合せて
横柱(土台となる水平の材)を削っています。

礎石とその上の横柱の位置関係がずれないように、ということでしょうか。

母屋の礎石は平たい石で、上部は平面になるように加工されていますが、(写真を追加の予定)
こちらは、自然な形のままです。

横柱の材を、現物合せで、石の形に合せて棟梁が削ったのでしょう。


さて、お寺の敷地の入口右手に大きな石碑がたっています。

石碑

石碑


題字には、「仁王門再建碑」とあります。

日付は昭和十六年ですから、佐竹寺の歴史から見ると、つい最近のことですね。


上部を拡大して、文字が読みやすいように、モノクロに変換し、ネガ表示にしました。

石碑上部の拡大

石碑上部の拡大


題字の「仁王門再建碑」の下に、常陸国久慈郡、聖徳太子などの言葉が見えます。

文章を読んでみました。
(クリックすると別ウィンドウに全文が表示されます)

間違いがあるかもしれませんが、ご容赦ください。

概略は以下のようになります。

(1)佐竹寺は、寛和元年(985年)に 花山天皇の勅に基づき、僧元密が創建した。

(2)佐竹氏が代々信仰してきたが、徳川秀忠、水戸藩の諸侯も保護してきた。

(3)宝永年間(1704~1710)に、相模の国浦賀の石龍坊が広く浄財を集め、仁王門を建てた。

(4)昭和十四年、仁王門が類焼したが、仁王像は里人が避難させてほとんど無傷だった。

(5)住職・檀信徒の努力により、昭和十五年に仁王門は再建された。

(6)再建の時に、偶然、仁王像の由来が明らかになった。

(7)一基は石龍坊の浄財による、もう一基は三組の願主夫妻の寄進によるものだった。

(8)このことは250年後の今日、初めて明らかになったもので、人々は讃嘆した。

(9)昭和十六年に落慶式を行い、合せてこの仁王門再建の碑を作り、後世に伝えるものである。


さて、佐竹寺にはもう一つの石碑が、本堂の右手にあります。

本堂わきの石碑

「佐竹寺本堂重修碑」です。

「仁王門再建碑」は昭和になってつくられたものですが、こちらは大正十四年です。

伝統的な漢文調の文章です。

という事で、私には歯が立ちません。

ネットで調べた碑文解読の記事と漢和辞典を頼りに、大胆な推測も恐れずに読もうと試みました。

もちろん完成できるわけがありません。

いつか、知識のある方のご支援を受けて完成させようと思っていますが、今回は中間発表ということに致します。

[追記:2016/11/5]
漢和辞典「全訳 漢辞海」の編者のひとりである濱口富士雄氏からアドバイスをいただきました。本文に
返り点を付けていただき、さらに書き下し文を合せた文章をお送りいただきました。また、翻刻の際に
一文字まちがえているのではないか、という指摘もいただきました。それに基づき、下記のリンク先の
ファイルを修正しました。
そのいきさつや修正内容はリンク先のファイルの末尾に「追記2」としてまとめてあります。濱口富士雄氏に
感謝申し上げます。なお、いただいた返り点付きの文と書き下し文は掲載許可をいただきましたので、
リンクを張っておきます

中間発表の内容はこちらです。(クリックすると別ウィンドウに全文が表示されます)

これには縦書きのところがあります。縦書きの文章が正しく表示できない環境があるようですので、横書きバージョンを用意しました。

間違いが多数あると思いますので、ご注意並びにご容赦ください。

(1)佐竹寺は、寛和元年(985年)に 花山天皇の勅に基づき、僧元密が創建した。

(2)治承元年(1177)に佐竹昌義は永樂三百貫の土地を寄進した。

(3)天文十二年(1543)に兵火に遭い、伽藍、堂塔、多数の宝物、記録を全て失った。

(4)それまでは鶴池観音山にあったが、天文十五年(1546)年に今の地に移して再建された。

(5)徳川家光が八石の土地を寄進した。

(6)その後、寺の勢いは次第に衰えていった。明治のはじめのころが最も荒廃していたときである。

(7)住職・檀徒・その他有志は、たびたび明治政府に訴えた。

(8)工学博士関野貞の調査に基づき、明治39(1906)年に、特別保護建造物に指定された。

(9)住職檀信徒等は修理のために、浄財を募り、大正5(1916)年には文部省から補助金が下りた。

(10)坂谷良之進、柳田菊造を招いて工事担当とし、岡田宇之助・力石雄一郎の両知事が監督となった。

(11)大正6(1916)年に修理が完成した。

(12)関係者は今回の再修理の事を後世に伝えようとして、石碑を建てたものである。


【備考1】:裳階(もこし)と廂(ひさし)  [追記:2013/1/22]

本堂の大きな屋根の下に、本堂を取り囲むように小さな屋根があります。

最初は廂(ひさし)と考えていたのですが、母屋の屋根の下に、別の屋根をしつらえてあり、
どうも裳階(もこし)というのが正しいようで、この部分の文章を修正しました。

目的は、主に母屋を雨から保護する、と言われています。
そのためには土間でいいわけです。

修正前は次のように書いていました。


正面から見て左側の廂(ひさし)です。

廂は本堂を囲むようにあり、四面廂という造りでしょうか。

濡れ縁のようなものではなく、土間になっています。土間廂です。
通路として使うものかしら、と考えました。ちょうど人がひとりゆったりと歩ける幅があります。

法衣を抑えながら、衣擦れの音を立てて、僧侶たちが歩いている様子を想像してしまいます。


【備考2】佐竹寺の古い写真  [追記:2013/4/22]

大正6年の修理直後と思われる写真がネット上で見つかりました。

「国立国会図書館ホームページの近代デジタルライブラリーより
特別保護建造物集成. 第1至6輯 コマ番号122コマ目
「佐竹寺本堂」

掲載許可(国図電1301044-1-1457 号 平成25 年4 月4 日)に基づき掲載いたします。

データ源のアドレスはこちらhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/961079/122

大正時代の佐竹寺本堂

大正時代の佐竹寺本堂


大正8年の出版です。屋根の様子の真新しさから、大正6年の修理直後の様子が写っていると思います。

この時に見たかったですね、
千社札も最初はないでしょうから


【参考資料】主として、以下の資料を参考にさせていただいたいています。

(1)単行本: 図解 文化財の見方―歴史散歩の手引き 人見春雄・野呂肖生・毛利和夫編 山川出版社
  新書版のコンパクトな本ですが、図解が詳しいです。私のサイトでは、用語で迷った時は、
  この記述に従うことを基本にしています。

(2)単行本: 文化財探訪クラブ 3 寺院建築 濱島正士監修 山川出版社
  写真を多用して、現物の説明が助かります。

(3)専門家により、社寺建築の詳しい解説が述べられているサイトです。
  日本建築の底流

  その中で、佐竹寺についての解説があります。
  佐竹寺本堂 茨城県 室町時代後期・江戸時代中期改修

(4)この本文中に触れました。実に多くの寺社の写真が載っています。仏教全般をカバーした、充実したサイトです。
  中西忠さんのホームページ

(5)組み物(軒下の部材)について、とても分りやすい説明があります。初心者のわたしには大変ありがたいです。
  組み物の各部の名称


【感想】

福島の白水阿弥陀堂の撮影で刺激を受け、茨城県とその周辺の重要文化財の寺院を撮影しようと思い立ちました。

その第一弾となる佐竹寺です。


ですが、この本堂の荒れ方、千社札ですが、それを見て、愕然としました。

こういうひどいことを日本人がするものでしょうか。

その下卑た書体を見ると、たとえば、「年老いた親あるいは幼い我が子の病気の快癒を必死に念じて」、
などというものは感じられません。


それと、お寺の荒れ方です。

本堂と仁王門を急いで修復しなければ。

大修理になります。資金はどうしたら良いのでしょうか。

お寺の随所に整備の跡があり、ご住職や檀家の方々の御苦労がしのばれます。

特に、落ち葉などがきれいに取り除かれていて、これだけ広い境内をきれいに保持するの
は大変だろうと感じました。


一度、茨城県庁に保存活動について電話で問い合わせたのですが、
「屋根にかかった枝を払うというような事はしている、それ以上は基本的にお寺と檀家の問題です」
という趣旨の回答でした。

このような貴重な歴史的建造物の保存については、国や県、市町村が積極的にならないといけません。


もう一つ、石碑の碑文です

仁王門の脇の石碑は、作られたのが昭和16年で、私が生まれるたった9年前です。
その文章を読むのに一苦労でした。

問題は漢字で、いわゆる旧漢字、特に異体字です。

戦後の国語改革で、現代仮名遣いと当用漢字が制定されました。

当用漢字の制定の意義は、使用すべき漢字の数を制限したもの、と今まで思っていましたが、
字体を一つに定めた、ということも大きいのですね。

また、本堂脇の石碑は、大正時代に建てられたものですが、漢文で、
私から見ると、こんな分りにくい文章を書いて、どういうつもりなのか、とさえ感じました。

当時の常識ではこれが普通なのかもしれませんが、このような文章では、後世に伝える、という
目的にかないません。



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