考えてみると=まじめ編=原発=


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【9】問題の大きな論文==核燃料の再処理に当たって== (2012/7/14)

核燃料の再処理

以前から、核燃料の再処理が気になっていました。

原発の重要な問題点の一つです。


原子炉で核燃料を燃やす(核分裂反応させる)と、使用済み燃料が出ます。

その中にはまだ使えるウランやプルトニウムがあるので、再処理工場でそれを取り出します。

残りは使い道のない"カス"であり、高レベル放射性廃棄物と高レベル放射性廃棄物の二つに大きく分けられます。

とくに高レベル放射性廃棄物は、文字通りの高レベルの放射性物質を含むので、人間から隔離して長期保管する必要があります。

最初の30~50年は多量の熱を放出するため、常に冷却し、その後、最終処分として、放射能が十分低下するまで安全確実に保管することになっているといわれています。


最終処分の方法は、いろいろと提案されてきましたが、日本では、300~1000mほどの深さの地中に埋めて保管(地層処分)することが法制化されました。

実は、どれだけの期間にわたって保管するのか、というところは、あまり明確ではありません。

あまりにも長すぎで、見当がつかない、というのが実情のようです。


放射性廃棄物を1000年にわたって管理するなんて、正気の沙汰ではない

それで、まず、1000年を目安に対策を考えよう、ということになっています。

1000年とは大きく出ましたね。


いまから1000年前というと、平安時代の中期。

藤原道長が権力を支配し、紫式部や清少納言が活躍した時代です。

ですから、たとえていうなら、藤原道長が、現在までの鎌倉時代、室町時代、戦国時代をへて、江戸時代、さらに、明治、大正、昭和、そして平成という時代の流れを通じて、一貫して、「危険なもの」をどこどこに埋めてあり大変危険だから、人が決して近づかないようにするために、策をめぐらす、というような話です。


そんなことが可能であると考えるのは、正気の沙汰ではありません。


日本大百科全書(ニッポニカ)-放射性廃棄物 の項目には、この問題点が、次の様に簡潔に述べられています。

最終的な安全をどのように評価すべきかについて、多くの未解決の問題が残されており、なかでも数百~数千年、あるいは数十万年にわたる未来についての安全を保証し、社会的合意を得ることは、従来の技術が直面したことのなかった問題であろう。

"放射性廃棄物", 日本大百科全書(ニッポニカ), ジャパンナレッジ (オンラインデータベース), 入手先<http://yw.jkn21.com>, (参照 2012-07-13)


放射性廃棄物、あるいは高レベル放射性廃棄物の地層処分などの問題点については、ネット上で検索すると、色々な情報がヒットします。

私もそれを始めましたが、すぐにとんでもない論文に出合い、"いてもたっても"いられなくなりました。


この論文は問題だ

地層処分にかかわる記録保存の研究 - 位置付けと方策 -

原環センター技術報告書 RWMC-TRJ 02001

平成14年12月 財団法人 原子力環境整備促進・資金管理センター


内容を手短かに言うなら、次の様なことでしょう。

大変危険なものを地下深く埋め立てて、1000年などという極めて長期間にわたって、絶対に人が近づかないように保管するためには、そのことをドキュメント化して後世に伝えていく必要がある。その際、どんな課題があり、現時点でどのような見通しができるかか、について分析・検討した。

このような長期間を考えると、言語、社会制度、人々の知識レベルなど、世界のあらゆる要素がどう変わるか、予測がつきません。

それで、いろいろなパターンを想定して、どのような問題があるかを検討するというわけです。


まあ、勝手にやったら、という感じでしたが、決して見逃せないことを発見しました。

「要約」の中の「背景」

地層処分に対する社会的信頼性向上のための方策として、科学や技術による処分の安全性にかかわる理論やデータを提供するとともに、社会・倫理的観点からの方策が実施されることが重要と考えられる。地層処分に関する記録を保存することは、世代間倫理の観点から重要な意義をもつものと考えられる。

将来世代の意思決定のために残す記録は、廃棄体の放射能濃度が比較的高い最初の数百年から千年程度までが意味を持つものと考えた。一方、最初の約千年を過ぎても廃棄体の放射能は引き続き残ることから、より耐久性が期待できる方策により、将来世代による地層処分場への意図しない接近の防止・抑制に必要な情報を可能な限り長期間伝えることが妥当な目標であることが考察された。


これだけでは、ちょっとわかりにくいですが、後の記述を読むとイメージがわいてきます。

第1章 本研究の目的と背景

1.2 地層処分の記録保存の背景

我が国及び世界各国で検討されている高レベル放射性廃棄物の地層処分システムは、人間による制度的な管理に頼ることなく長期間にわたり廃棄物を人間の生活環境から安全に隔離できる最も現実的な方法であるとの国際的なコンセンサスがある(OECD/NEA, 1995)。一方制度的な管理は、安全を確保するための本質的な方策ではないにしても、不用意な人間の侵入の可能性をできるだけ低減したり、将来世代に意思決定の余地を残すという倫理的な視点など、地層処分の安全に深くかかわる視点から有益である。したがって、制度的管理をある程度は組み入れることが地層処分事業に対する信頼や理解を増進するうえで有効であるとの考え方が近年広がってきている(例えば、IAEA, 1999)。


「人間による制度的な管理に頼ることなく」とは、人間が意識して管理しなくても安全なように、決して人間が近づかない、地中深いところに保管する、ということです。

「制度的な管理」とは、人間が、放射性廃棄物の存在を認識して、人間はそれから隔離されるような制度を作り、管理していく、ということです。

「将来世代に意思決定の余地を残す」とは、現在のわれわれが考えて、最善の、そして十分に安全が確保される方策を取るが、将来世代は、彼ら自身の考えのもとに、自ら判断して、放射性廃棄物の処置を見直す余地を残す、と読み取れます。


では、「将来世代に意思決定の余地を残すという倫理的な視点」とは何でしょうか。

「倫理」とは、「ひとが守るべき道」、言い換える言葉としては「道徳」がそれに近いでしょう。

何という傲慢さ

「将来世代に意思決定の余地を残す」ことが、どうして「ひとが守るべき道」に合致しているのでしょうか。どうして「道徳的」なのでしょうか。


「将来世代」は、先祖が残した高レベル放射能廃棄物の処置に関して、意思決定できることを喜ぶのですか。

大変なお荷物を背負わされた、と憤るのではないですか。

われわれ先祖のふしだらで無責任な行為を嘆くのではないですか。


東電は、電気料金を値上げするとは、当社の権利であり義務である、といいました。

みずからおかした失敗の後始末を、顧客が負担するのは当然である、という特権意識です。


発想が同じですね。

自分たちの世代が生じさせた危険物の後始末を、将来の世代が負担するのは当然である。内容について、きちんと文書化して渡してあげるよ。それが人としての道だから。


なんという傲慢さ。


このようなとんでもない危険物を置き去りにすることについては、将来の世代にたいして、ひざまずいて頭をさげて、ただひたすら許しを請う、というのが、人の道ではないですか。


「倫理性」なんて、"蚊のまつげ"ほどの重さも感じ取れません。


「約千年を過ぎても廃棄体の放射能は引き続き残ることから、より耐久性が期待できる方策により、将来世代による地層処分場への意図しない接近の防止・抑制に必要な情報を可能な限り長期間伝えることが妥当な目標である」、なんて、"どの面下げて"いうのか。


「子や孫、ひ孫に対して、お前たちの父、祖父、曽祖父は、こんな恥ずかしいことをしてお前たちに大変な迷惑をかけてしまった。どれほど悔いても悔やみきれない。本当にすまない」、と涙ながらにあやまる、というのが「ひとの道」ではないのか。


ひとこと付け加えておきますが、この論文の大部分は、純粋に技術的な内容です。まじめに検討されているのだと思います。


そのなかに、ちらほら現れているのです。無責任と傲慢が・・・・いわゆる原子力ムラの。


問題の本質は、高レベル放射性廃棄物の処理の困難さにあり、現在とられている方策(たとえば地層処分)は、無責任で傲慢です。この点からも原子力発電はやってはいけない、ということがよくわかりました。


【追記】 本ページを最初にアップしたときには、もっと過激な表現でした。しかし、その矛先は、第一に高レベル放射性廃棄物の地層処分という方法に向けられるべきで、さらにその先には、原子力発電そのものがあります。地層処分の情報管理に関するこの論文に対して非難を集中するのは、お門違いとまではいきませんが、やりすぎかもしれない、と考え直して、アップの翌日に一部を修正して再アップしました。



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