書き物 小品


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【1】 「蟹」から始まった

高校の時の現代国語の時間に、クラスで俳句競争があり、クラス全員の投票で私の作品が同率一位になった。

こわれたる波の下にも蟹二つ

その後、蟹にちなんでもう一つの作品を作った

蟹缶の影に隠れる小蟹かな

これには解説文がついている。

さる俳人が、都会の喧騒を逃れて房総・御宿に宿をとり、二日ばかりの休息をとることにした。翌日、朝食前に浜辺に散歩に出た。二日前の台風の通過のためか、木材などがいくつか打ち上げられていた。すこし歩いてすがすがしい空気を楽しんでいると、足元にさっと動くものがある。子蟹が一匹、急に現れた人影に驚いて逃げたのだ。子蟹は、半分砂に埋もれて、赤く錆びた空き缶の影に隠れたのだった。しゃがみ込んでよく見ると、錆びた空き缶には「蟹」の絵がかすかに見て取れた。この子蟹は蟹缶にすがって隠れたのだ。かつて漁師に採られて缶詰にされた蟹は、蟹缶におしこめられ、蟹の身がたべられて缶はすてられ、流され、錆びて砂浜に埋もれていても、同族の子蟹を助けようとしたのだった。俳人はこの句を作ると宿に帰って行った。この句が起こす感興もさながら、「か」というはぎれの良い音を多用して、感情におぼれることもなく、深い情感を醸し出している。彼が40台後半の、油ののりきった時代の代表作と言えよう。この様な言い方は好まないのだが、このような名句に出会えて、日本人に生まれて本当によかった、とつい思ってしまう。

まあ、駄文はそれくらいにして、この句には「か」の音が4回出てくる。濁音も許すと、5回になる。17音のうちの5回だから30%ほどになる。これはかなり多いといえる。「か」という"はっきりした"音は確かに何らかの情感を醸し出しているだろう。それで、通勤電車の中で、「か」の音をいくつまで入れることができるだろうか、と考えた。とりあえず、持っていた文庫本の余白にメモした。その中で一番良いできのものがこれだ。

カカオ缶抱えて帰る案山子(かかし)かな

これにも解説文がある。

ここでいう案山子は擬人化した存在で、山里に住むパティシエである。チョコレートを使った作品を得意としている。町からちょっと離れた物静かなところを選んで工房をつくり、町の菓子店に品物をおろしている。特徴はチョコレート自体を原料から自分で作ることにある。原料のカカオ豆をひいてまずチョコレートを作り、その次に菓子作りにかかる。カカオ豆は町にある輸入商社から直接買いつけている。ガーナから輸入されたカカオ豆は大きな缶に入っている。昨今の円高にも関わらず値上がりしているのはマネーゲームの波が押し寄せているからか。お得意様なので価格を5%引いてもらっているが、これは他言無用と言われている。毎週水曜日にカカオ缶を3個買っている。豆をひいてチョコレートを作り、菓子にすると、ちょうど売れ行きが良いウィークエンドにタイミングが合うのだ。今日は水曜日、そのパティシエ案山子はいつものようにカカオ缶を3個買い、両手で抱えて、とび跳ねながら彼の工房に帰る。

こう考えると意味が通るように思う。それほど無理をしてもない。

それで、「か」だが、9回出てくる。17音のうちの9音だから半分をこえる。これはかなりものだ。濁音もなく純粋に「か」の音(おん)である。「かか」と続くところが3か所あり、これで回数をかせいでいる。


これで限界だろうか。更に考え、無理はあるが一つできた。

母の歯はハバナの母もはばかる歯

季語がないので俳句とはいえないかもしれないが、川柳の趣はない。季語を含まない前衛俳句とする。解説がまた必要である。

若い女性がいた。名前をヒカルという。音大でラテン音楽を学んでいる。3年生の時1年間、キューバに留学してハバネラを勉強することにした。首都ハバナでのホームステイ先はなんとか見つかった。その女主人ローサは夫が貿易商として成功し、二人の子供も独立したので、今はのんびり暮らしている。夫は海外の支店を飛び回って家にはいないことが多い。それで、海外の若い女性に自宅の一部をホームステイ用に提供している。ところで、キューバ人の女性は歯がきれいで、いつも競争している。ローサは特にきれいで、ハバナで美しい歯のコンテストがあれば確実に入賞できるだろうといわれている。ヒカルは留学を終えてもローサとの交流を保ち、「ハバナの母」と言って慕い、手紙のやり取りを絶やさなかった。ある年の夏、ローサの夫が日本支社の立ち上げ準備のために日本に来ることになり、ローサも同行してヒカルの家を訪ねることになった。ヒカルの母は娘が世話になった人が来るというので準備に余念がない。その日、ついにローサが現れた。挨拶が終わると、ローサはいつもの習慣でヒカルの母の歯をチェックする。が、どうしたことか、ヒカルの母の歯はローサの歯よりもきれいだったのでたいそう驚いて、ヒカルにそのことを言ったときに、ヒカルが詠んだ歌である。

「は」の音は8個、濁音も許すと10個、音ではなく文字として数えれば助詞の「は」も含められるので、11個になる。

11/17=約65%。

私は最近、日本の古典文学を勉強しだしたので、濁点を無視するということには抵抗がない。

また、助詞の「は」は、現代の発音は「ワ」だが、「は」と書く以上は昔は「ハ」と発音した時代があったと思う。

とはいってもだいぶ無理をしたのは確かだ。これ以上は無理だろう。

ははのはは はばなのははも はばかるは


この句を作っている時に、いくつかこれと似た物を思いついているが、できの良いものを二つだけ。

ハバナのバナナとバハマのバナナ、パナマで食べるパパとママ

ハバナ、バハマ、パナマと中央アメリカの三つの地名を織り込んでいるところがミソ。七七七五で都々逸(どどいつ)のかたち。

称えたれ 民のたたりは 絶たれたり

ある村に疫病が続き、何かのたたりに違いない、と村人は恐れた。高名な僧が通りかかり、祈祷すると疫病がぱったりとなくなった。村人はこの僧を長くたたえたという。


真面目なものを二つ挙げる。まず万葉集から(*1)。

[527] 来(こ)むといふも来ぬ時あるを来じといふを来むとは待たじ来じといふものを

引用書による現代語訳:来ようといったって来ない時のあるものを、来られないだろうといっているのに来るだろうなどと待ってはいますまい。来られないだろうとおっしゃっているものを。

私の試訳:行くよといった時だって来ないときがあったのだから、まして行けないよといってきた今日は来るかもしれないと思って待つことはしません、行けないよと言ってきたのだから。

女心ですねえ。来(こ)む、来(こ)ぬ、来(こ)じ、というように、来(く)という動詞が、すべての句に出てくる。また、「来」の読みが全部「こ」に統一されている。それなのに、言葉遊びのために無理をしたという印象がありません。みごとですねえ。
この引用書には、類似の歌が二つ紹介されています。ご参考まで。

[27] よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見つ

引用書による現代語訳:立派な人がよい処としてよく見て「よし(の)」といった、この吉野を、よく見るがいい。立派な人もよく見たことだ。

[2640] 梓弓引きみ弛(ゆる)べみ来(こ)ずは来ず来ば来そを何(な)ど来ずは来ばそを

引用書による現代語訳:梓弓(あずさゆみ)を引いたりゆるめたりするように、来ないなら来ない、来るなら来るとはっきりしてほしい、それだのにどうして。来ないなら来ない、来るなら来ると。それなのに。

もう一つは和泉式部の作品(*2)。

[930] 思(おも)はんと思ひし人と思ひしに思ひしごとも思ほゆるかな

詞書(ことばがき)によれば、和泉式部が中宮彰子のサロンに女房(話し相手兼教育係という役目のようです)として招かれて初めて行ったときに、伊勢大輔(いせのたいふ)が応対に出てきたので語りあい、あとで大輔に贈った歌とのこと。

これに対する大輔からの返歌もあります。

[931] 君をわが思はざりせばわれを君思はんとしも思はましやは

930の歌をもらった時には、931のような歌をさっと返すと、「こいつできるな」、と一目置かれるのでしょうね。現代語訳は後で追加します。

さらに追加です。言葉遊びの趣が強い二首。

[776] いとへども限りありける身にしあればあるにもあらであるとありとや

最後の七七に「あり」を4回たたみかけます。

[1287] あはれあはれ哀れ哀れとあはれあはれあはれいかなる人をいふらん

詞書はこうなっています。

男の、女のもとにやる文を見れば、「あはれあはれ」と書きたり」

コケにされていますね、この男は。


(*1)万葉集 全訳注原文付 中西 進 講談社文庫 講談社
(*2)和泉式部集・続和泉式部集 清水文雄校注 岩波文庫 岩波書店



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