小品いろいろ


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【2】谷崎潤一郎 「文章読本」について

谷崎潤一郎全集 第二十一巻
中央公論社
谷崎潤一郎

文章読本

このサイトの「前書き・後書き」のなかで、谷崎潤一郎の新々訳源氏物語にある「前書き」に相当する部分について書いた

谷崎には「文章読本」という著作があり、読んでみたいと書いたが、早速読んでみたので、それについて書く。


以下、引用に当たっては、漢字は「新漢字」とし、かな遣いは適宜「新仮名遣い」にした。

新々訳の谷崎源氏がすでに「新漢字」、「新仮名遣い」を受け入れ、この谷崎潤一郎全集ではその新々訳が収録されているから許されるだろう。


第一印象は、文章が古い、時代背景も古い

ざっと読んでの第一印象は、文章が古い、時代背景も古い、と言うことである。

ただし、昭和九年九月、という執筆の時期を考えると仕方がない。

(なお、執筆から出版までの経過については、ちょっとしたエピソードがある。注に書いたのでご参考まで)


実用と芸術で文章に違いはない、もっとも実用的なものが、もっともすぐれた文章だ

さて、この書の対象だが、冒頭に、「この読本は、いろいろの階級の、なるべく多くの人々に呼んで貰う目的で、通俗を旨として書いた」、とあり、さらに、「『われわれ日本人が日本語の文章を書く心得』を記したのである」とある。

つまり、小説家が芸術作品としての小説を書くという場合を想定しているのではない。

それでは、どのような文章を想定しているのか。

このように書かれている。

わたしは、文章に実用的と芸術的との区別はないと思います。文章の要は何かといえば、自分の心の中にあること、自分のいいたいと思うことをできるだけそのとおりに、かつ明瞭につたえることにあるのでして、手紙を書くにも小説を書くにも、別段それ以外の書きようはありません。・・・・もっとも実用的なものが、もっともすぐれた文章であります。

・・・・つまり韻文や美文では、わからせるということ以外に、眼で見て美しいことと耳で聞いてこころよいこととが同様に必要な条件でありましたが、現代の口語文では、もっぱら「分からせる」、「理解させる」ということに重きを置く。実に現代の世相はそれほど複雑になっているのでありまして、分からせるように書くという一事で、文章の役目は手一杯なのであります。

実用実用といいますけれど、今日の実用文は、広告、宣伝、通信、報道、その他種々なるパンフレット等に応用の範囲が広く、それらは多少とも芸術的であることを必要とするのでありまして、・・・・

ここまで読むと、小説家であっても、小説の範囲を超えて、文章一般に考えを広げていると感じた。

そういいながら、芸術作品しか頭にない

ところが、重要な転換が起こる。もっとも転換ではなく、進展であると作者は言うのだろうが。

「分らせる」ように、「理解させる」ように書くことが精一杯であると申しました。いかにも一応はそのとおりでありますが、ここで皆さんのご注意を喚起したいのは、「分らせる」ことにも限度があるという一時であります。

以下、いろいろとこのことについて説明している。私なりに要約すると次のようなことになる。

●どんなことでも「分らせる」様に書ける、というのは、大変な間違いである

●表現できることと出来ないことの限界を知り、その限界内に止まることが第一である

●昔から、名文というものは、表現できる限界をわきまえ、表現できないところはあいまいにして、読者の想像に任せている

そして、次の名文とは何か、ということについて、谷崎の考え方がくっきりと浮かび上がる。

かりに私が、名文とはいかなるものぞの質問にしいて答えるとしましたら、

・長く記憶に止まるような深い印象を与えるもの

・何度も繰り返して読めば読むほど滋味のでるもの

と、まずそう申しますでしょう・・・・

ここで、私の考えとまったく違っていることが分った。

谷崎の説では、表現できないことはあいまいにしておき、読者はそれを何度も繰り返して読むことにより、作者の表現したかったことの理解が徐々に深まり、深い印象を持つ、ということになる。

しかし、谷崎は、上記で引用したように、

実に現代の世相はそれほど複雑になっているのでありまして、分からせるように書くという一事で、文章の役目は手一杯なのであります。

と書いている。

私の考えは、こちらであって、「相手がわかるように書く」ことがすべてだ、ということである。

もっとはっきりいうと、「相手が分った範囲がその文章の価値のすべてである」ということである。

谷崎が「実に現代の世相はそれほど複雑になっているのでありまして」と書いたように、複雑でスピードアップしている現代なのだ。

読む相手に、何度も読み返して考えれば徐々に真意がわかるようになります、という様に期待してはいけないと思う。

大事な事は、「私がどのように深いことを考えていたか」ではなく、「相手にどれだけのことを伝えることができたか」である。

つまり、「相手にどれだけ理解していただけたか」ということであり、「理解が足りない」のなら、「私の伝え方に問題があった」のである。


私が仕事としてかかわってきたモノ作りでは、お客様が求めるものを作り、お客様が認めてくれる価値に相当するだけの代価を得る。

私がどれだけ良いものを作ったか、ということは、私が主張することではない。

実質的には、何を作るのかはお客様が決め、その価格もお客様が決めるのである。

実は、このことを理解するまでには時間がかかった。

とくに、価格については、作るための労苦の量で価格が決まるものと考えていた。

そうではないと、今では確信をもっていうことができる。


最初の目的から外れた展開で、内容は今では陳腐化してしまった

もうひとつ、私の考えと隔たりの大きな事をあげる。

「○ 品格について」と「○ 含蓄について」の章に書かれている。

長々と書いてあり、読めば分るのであるが、一部を切り取って引用するのは難しい。

それで、以下のように要約してみた。

品格を保つためには、饒舌を慎むことが大事である

日本人は、内気な性格があり、「控えめ」、「内輪」にする傾向があり、これは美点である。

文章ついては、はっきり書かない、意味のつながりを省略する、ということが良いのである

本当の実力を備えた人は、大概は「寡言沈黙」で、自分の実力を隠しており、いよいよというときでなければ外に出さない

現代の文章の書き方は、あまりに読者に親切すぎる。もう少し不親切に書いて、後は読者の理解力に一任したほうがよい

「控えめ」、「内輪」がいい、というのは、今となってはまったく当てはまらない。

「広告、宣伝、通信、報道、その他種々なるパンフレット等」と谷崎自身が書いているが、そのようなものでは、「控えめ」がいいということはない。

せいぜい、「過度のいいすぎは避けるべき」、という程度だろう。逆に、言い足りない、というのもいけないということになる。

「饒舌を慎むことが大事」、「寡言沈黙がよい」とは、かつて、色々な場面で出てきた。

たとえば、優れた芸術家は多作ではおかしい、寡作であるはず、なども同様だろう。

このようなことは、今では誰も納得しない。

優れた芸術家は多作である。レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェリ、レンブラント、ピカソ、みな多作である。

なにより、谷崎潤一郎は多作である。

自分の実力を隠そうとしているところなどない。


再び、陳腐化してしまった説

これに似たことが、別のところにもある。

本書の「第一章 文章について」では、日本語の文章の特徴を色々な側面からあぶりだしているが、そのなかに、「西洋の文章と日本の文章」という一節がある。

そこでは、日本語には語彙が少ない、と論じ、その中で、「日本人はおしゃべりでない」と国民性に結びつけて論じている。

次の一節はその端的な例である。

われわれの間には支那(ママ)にもない「腹芸」ということばがあって、沈黙を芸術の上にまで持ってきている。又「以心伝心」とか「肝胆相照らす」とかいうことばもあって、心に誠さえあれば、黙って向かい合っていてもおのずからそれが先方の胸に通じる、千万言を費やすよりもそういう暗黙の了解の方が貴いのである、という信念を持っております。

このような論を読むと、第二次世界大戦の日本軍の戦いのうちのもっとも無謀な代表例のひとつとされるインパール作戦を思い出す。

下記は、インパール作戦の失敗が明らかになり、撤退せざるを得ないという状態になってきた時点で、二人の責任者が話し合う機会を持ったときの状況である。この段階で撤退を決定しなかったために、多くの生命が犠牲になったという。

河辺ビルマ方面軍司令官と牟田口15 軍司令官の会談が行われた。先行研究で何度も紹介されているこの会談は全く面妖なものである。


牟田口;私は「もはやインパール作戦は断念すべき時機」であると咽喉まで出かかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである

河辺;「牟田口軍司令官の面上にはなお言わんと欲して言い得ざる何物かの有する印象ありしも予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る」(河辺日記6 月6 日の項)


かくして両者は決断を先送りし、多くの将兵の命が救われる機会を逸した


この件は、ネットに色々な書き込みがある。上記の文章は次の記事によるものである。ただし太字は"富士雲に月"の管理人による。

日本の戦争指導におけるビルマ戦線 -インパール作戦を中心に- (防衛省 防衛研究所)


大規模な作戦が失敗し撤退せざるを得ない、と考え出したとき、二人の責任者は、そのことについて発言せず、「私の顔色によって察してもらいたかった」、「相手が何か言いたそうな感じがしたが、私は"露骨に"それを確認しようとはせずに別れた」。

失敗したときには、「万事控えめ」で、責任を取ることを避ける、という態度である。


いや、もうよそう。


要するに、谷崎の「文章読本」には賛同できないことがたくさん書かれており、参考にはならない。


谷崎の「文章読本」自体は、そこに書かれた方法と逆の書き方をしている

ところがそれだけでは終わらない。


この「文章読本」自身は、そこに書かれた内容にしたがって書かれてはいないのである。

たとえば、「表現できないところはあいまいにして、読者の想像に任せ」るというが、この書では、「あいまいにして読者の想像に任せる」、というようなところがない。

十分に説明を尽くし、言葉で説明しにくいことは、たとえば、例文を挙げで解説して「分らせようとしている」。

饒舌を慎み寡黙でいる、というような態度ではなく、必要なだけ言葉を尽くし、言わんとするところが読者に届くように心がけている。

極論すれば、文章の書き方はこうすべき、と書いているのだが、その書自体はその内容と反対の書き方をしている。

そして、「反対の書き方」が功を奏して、著者の主張するところが読者によく伝わる。

読者にしてみれば、書いてあることに対して、それはおかしい、と感じるのだが、「そう感じる」というのは、書き方が適切なので、著者の主張が読者によく伝わるのである。

著者は、「良い文章の書き方」を"実践している"、といえる。


「読めば読むほど滋味が出る」、というのはどうだろうか。

そのような側面があることは確かだと思う。

だが、「読めば読むほど」著者の主張が的外れであることがますます明らかになるという一面もある。

おもうに、何事でもくりかえせば、その都度なにか新しい発見があり、あるいは、さらに理解が深まるということはある。

書き物に限らない。

たとえば映画は、二度目に見たとき、三度目に見たとき、その都度、新たな発見と感動がある。


谷崎の「文章読本」に書かれた内容は役に立たないが、それ自体は最良の見本

結局、この書は、主張する内容はあまり役に立たないが、書き方としてはよい書き方を実践しており、大いに参考になると思う。

今回、書いてある内容を確認しようと、全編をさっと流し読みすることを幾度となく繰り返したが、書き方の論理的な構造が大変すばらしく、書いてあるところがすぐに分った。

また、その前後をちょっと眺めると、そのあたりでどのような議論がなされているのかが実によく分った。

私がここに書いている自分の文章のひどさが絶望的になる思いである。

いつになったらこのような明哲な書き方が出来るのだろうか。


考えてみると、谷崎潤一郎に対して「文章がうまい」というのもおかしな話だが、小説ではなく、論説文においても名手であった。


【注】

谷崎潤一郎全集の第二十三巻は、「序跋・雑篇」と「翻訳」という内容であり、谷崎が書いた「序文」が集められている。

他の巻にも序文のいくつかは収められているから、すべての序文を集めたのではないだろうが、「序跋・雑篇」には200弱の文章が収められている。

序文がまとめて収録されているというのだから、「前書き・後書き」というコーナーを書き続けている私にとっては興味をそそられる。

その第二十三巻のなかに、序文ではないが、「『文章読本』発売遅延に就いて」という一文がある。

発刊の予告が出ているにもかかわらず、著者の事情で遅れている、という。

これがまた"名文"である。

・・・・中央公論社出版部では、・・・・八月中旬にはすでに校了を終え、・・・・爾後は私が眼を通すばかりになっていたのでありますが、校正中、内容に不満を覚ゆるところ少なからず、しかも全国からの注文が未曾有という報告を聞きましてはますますその責任の重大さを感じまして、できるだけ完璧なものに致したく、ここに全文にわたっての改定を思い立ったのであります。しかしながら、他の用務をも控えておりますために案外に手間取りまして、ついみなさまに御迷惑をかける結果になったのであります

この文章全体が分りやすく、同時に格調高く感じられるが、それにも増して、この「文章読本」に谷崎が力を注いでいたことが感じとれる。

最後の校正の段階で、「全文にわたって改定することにした」、ということにそのことがよく現れている。

谷崎自身は、この書は十分に力を尽くして書きました、などとは言わない。

日本人はそういうことは言うべきではないと考える。

わかる人にはわかる。それでいいのだ。

それで、結局よくわかるのである。

これは、まさに谷崎が主張したことである。

たしかにそうだ。

(そのように書いている私の気持ちをこれ以上は書かないことにする。書かなくてもわかる人にはわかるはずだ。)



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