小品いろいろ


[2017/5/8]

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【10】ある男の落とし物-回想-

えらそうに、体験談を回想風にまとめてみました

なんやかやいっても、60代の後半になって、自分の人生を振り返ってみるのも悪くない、と考えました。さらに、もしかして自分の経験したことが、どなたかの役に立つかもしれないと、エッセイ風にまとめてみました。

"落とし物"というタイトルは、どなたかが見つけて役立てていただけたらうれしい、という思いです。私が意識的に落としたので、手元に戻ってくることを期待しているのではありません。誰も拾う人がいなければ、いつの間にかなくなっているでしょう。大した邪魔になる物ではありません。

10項目を超えそうなので、切りがよいところで16項目としました。計算機ソフトの世界で生きてきた私にとって、切りがいいというのは10よりはむしろ16です。ほかのところで、トップ10と題した記事を書いていますが、10というのは人間の指が両手で10本あるからのことで、基本的な数値の2の階乗の16の方がより"切りのいい"数値のように思います。

(1) 大きな問題が発覚しそうになったら、たいしたことにはならないと腹を据える

明日、大きな問題が発覚して自分は攻撃の矢面に立たされる、といった状況になることは、長い人生で一度や二度はあるのではないでしょうか。

「今夜が永遠に明けなければいいのに」などと思い悩んだりして。

後になって振り返ってみると、それほど大きな出来事になるわけではないんです。

サラリーマンであれば、せいぜい職を失うくらい。命をたつ、なんてことはまずありません。

自分が貢献できることなど実に大したことはないのですが、どれだけ足を引っ張るか、という点でも大したことはできないのです。

どうにもならない局面になったら、「もうなるようにしかならない」と腹をくくって成り行きに任せる。その方がよいのです。

いいわけとか隠し事をしないで、全部さらけ出す必要はあります。そうすれば、たいていは周りの人がなんとかしてくれます。

一人ではとうていできないことも、周りの二、三人の協力があればなんとか回復できることがほとんどです。

逆に、他人がそのような状況になったら、あなたができる範囲で支援すればよいのです。

絶望したり、やけになったりするのは自分が損するばかりではなく、周りに迷惑をかけるのです。

(2) 失敗により問題が起こったら、自分から公開する。自分から騒ぎ立てる、それくらいがちょうどいい。隠していいことはない

誰にでも失敗はあります。

失敗したときに何が一番の問題か。それを修復する体制ができていてちゃんと動作しているのか、ということです。周囲の人、特に上司にとってそれが一番気がかりです。

ですから、だれかが失敗すると、周囲、特に上司からひっきりなしに質問、問い合わせが来ます。問題はわかっているのか、対策はできるのか、損害はどれだけか、顧客の反応はどうなのか、などなど。

これに対応していると、肝心の問題の対策をしている暇がないくらいになります。

それではどうすればいいのかというと、とにかくこちらから"やりすぎ"というくらいに情報発信することです。

どこまで分析できているのか、真の原因は何なのか、当面の対策はどうするのか、根本対策はどういう見込みか、顧客にはどう説明するのか、予想される損害の規模の見通しは、類似の問題がほかにも発生する可能性はないのか、などなど。

毎日少しずつ進展はあるはずです。決して遅れることなく、今日はここまで進んだ、ということを毎日毎日報告を発信します。

周りにとって、何がどうなっているのかわからない、というのが一番の不安なのです。特に、何か隠し事をしているのではないか、という疑いをもたれがちです。それは当然でしょう。

課長は部長に、部長は本部長に、本部長は社長に聞かれたときに、どうなっているか答えなくてはなりません。ですから、一度問い合わせをしてきた人には全員に報告します。

そうすると、やがて周りは静かになって、問題の対策に集中できます。

顧客に具体的な被害が発生したら、まず謝罪に行くことが先決であることは当然です。その際も、隠し事をしない、ということが最低限の信頼をつなぎ止めるために最も重要なことです。こちらが誠心誠意に対応すれば、わかってもらえます。場合によっては、以前にも増して信頼を得ることができます。

だれだって、完璧なことが行われることを期待しますが、それがいつもかなえられるとは限らない、とということもわかっているのです。

(3) 失敗をどうやって償うか、別のことでの成功によって償う

人間というものは必ず失敗をすることがあるんですね。これはしょうがない。

失敗したら、一つ前に書いたように、誠心誠意、相手や周りの人に迷惑が掛からないように尽くすほかはありません。

事前に対策できることはありません。

対策ではありませんが、影響を軽くするには、成功した事例の積み重ねが効果があります。

誰だって失敗はするのですが、成功が多く失敗が少ない人、あるいは大きな成功を収めた人に対しては、「まあたまには失敗することもあるよ、気ににするな」などと言ってくれたりします。

成功の積み重ねで十分貢献していればこそです。

スポーツの世界だってありますよね。1回エラーとかミスをしても、別のところで得点していれば、エラーは目をつむってもらえる。得点の方が多い場合ですが。

(4) 気持ちが縮こまっているときは、自分で気持ちを切り替えるのは難しい。そういうときには機械的に自分を変える(たとえば、食べるもの・場所を変える、1サイズ大きな靴を履く)

気持ちの切り替えが必要とわかっていてもなかなかできないですね。

いつもの習慣を変えると気持ちが変わることがあります。

いままで行ったことがない店で食べてみる。今まで余りつきあいがなかった人を誘う。知らないところに出かける。

身につける物を変えるのもいいですね。

おすすめは靴を替える、それもサイズを変える。小さいと履けませんから大きくする。一サイズ違うと歩き方がずいぶん変わります。歩き方が自然にゆっくりとなるのです。

そうすると、気持ちが変わってきます。小さなことでうじうじしていた時でも、胸を張って、遠くをみて、自信を持って歩いています。自分がなんだか大人物になったような気がして。

とても簡単な方法ですが、効果は十分あります。

(5) 他人に遅れをとっていると感じたときには、自分は自分、世界に一人だけだから他人と比較しようがない、と考える

どうしても比べちゃうんですよね。

でも、考えてみると、何が幸せか、と言うことは自分で判断するしかない。

他人が自分のことをどう思うか、ということは、しょせん他人の問題です。自分にはどうしようもないから。

また、他人の評価がそれほど正しいか、という点でも大いに怪しい。「何もわかってないな」ということは誰もが何度も感じているのではないでしょうか。

他人が自分についてそれほど注目している訳がありません。誰だって自分のことが一番大事。そのような他人の評価を大切にする必要があるでしょうか。

そして、一番大事なことは、自分はこの世の中でたった一人だと言うこと。一人では比較のしようがありません。

たった一人の自分のことについて、当てにならない他人の評価を信頼するわけにはいかないじゃありませんか。

(6) 絶好調なときには、最初はどっぷりつかって楽しい思いをし、同時に、絶好調が続いている間に、まもなく起こる転落の事態に備える

誰にでも好調・不調の波があるのではないでしょうか。時には絶好調、時には絶不調という大波をかぶることもあります。

絶好調な時に何をすべきか。常に不調の時を思い浮かべる、というのはちょっと違うように思います。

絶好調な時にはそれを思い切って楽しむのがよいと思います。絶好調の期間をできるだけ伸ばした方がいい。貴重な経験ですから、存分に幸せ感に浸るのがよい。

その中で、少しずつ、不調の到来に思いをはせる。あくまでも少しずつです。

絶好調が少しずつ色あせてくる。このとき、そうか、この絶好調も終わりか、と他人事のようにつぶやく。

こうして、絶好調の時のできごとは思い出の中に閉じ込めておく。時々、思い出して、自分にもいいときがあったなあ、となつかしく振り返るのもすてきです。

しょせん、いいこともわるいことも、何度も繰り返すのですから。

(7) 常に長いレンジで物事を判断・処理する(1年のプロジェクトは前後1年の3年間を考える)

これは、ちょっと別のことがあって、それを考えた結果、このようなことに思い至りました。

きっかけは、昔、会社勤めをしていたとき、進行していた一つのプロジェクトについて顧客から1年間中断する、と告げられたのです。理由はわかりません。また、本当に再開するのか、という点についての確証は得られませんでした。

自動車関係の仕事でしたので、1年間のブランクはとても大きく、再開はないだろう、と思っていました。でも、あくまでも中断だから、と言われていましたので、それまでのいろいろな資料はきちんとファイルして、再開すると言われたらさっと取りかかれるようにはしておこうと思いました。

結果は、本当に再開しました。驚きましたが、再開するのに必要な準備はしてあるので不安はないはずでした。

再開して1年くらい経過したとき、徐々に予想していなかった問題が明らかになってきました。

打ち合わせ議事録には、日付、タイトル、参加者名、議論・結論などを書くのですが、再開して一年だったころには、以前に議論した議事録を見たとき、それが1年まえのことなのか、2年前のことなのかがわからなくなっていたのです。議事録に記録したのは月日だけだったのです。

再開して2か月後の時点なら、2か月前の再開後のことなのか、中断直前の1年2か月前のことなのかはすぐに区別できます。ところが1年前なのか、2年前なのか、ということは意外にわからないのでした。

そのときに初めて、日付というものは年月日で記録しなければいけないのだと気づいたのです。私が関わっていた仕事では一つのプロジェクトが3年から4年に渡ります。

もし、1年間の中断ということがなければ、月日でも困ることはなかったでしょう。全体の流れの中で判断でできます。長い中断があるとそれがわからなくなる。

このことは、日付を年月日で記録する、いうことだけで済むことではありません。

もっと長いスパンで物事を考えるべき、という教えがあるように思います。

プロジェクトが始まるときには、その準備作業が必要でしょう。また、その一つ前のプロジェクトと深いつながりがあることもあるでしょう。あるいは以前に手がけた類似のプロジェクトが参考になるから、それをおさらいする、ということが必要かもしれません。

プロジェクトが終わったときには、後でその内容を参考にすることがあるかもしれないので、資料の残し方に気を配らなければならないこともあるでしょう。あるいはより積極的に、終わったプロジェクトを発展させて、次のプロジェクトを起こせるかどうか検討した方がよいこともあるでしょう。

多くの場合、一つのプロジェクトの次には、それに関連する次の何かが控えていることが多いと思います。

(8) 起こる可能性があることは、可能性がどんなに低くてもいつか起こる

仕事をしているときに教えられた重要なことがこのことです。実際に体験したことの詳細は守秘義務のために書けないのですが、どんなに確率が低くても、可能性があればいつかは起こるから、何か気になることを見つけたら、それがどんなに起こりにくくても起こることとして対策をしなければいけない、と。

このようなことは、たいていは、起こると一番まずいときに起こります。

起こる確率が非常に低い、ということは、たいていは、もともと起こる確率が低いことが同時にいくつも発生したときにしか起こらない、だからまずは起こらないだろう、と考えがちです。でも、"同時にいくつも発生する"ということが、案外、共通の根本条件に依存していることがあります。だから、その根本条件が起こると、それまでは、あれもこれも同時に起こることはないだろう、と考えていたことが一斉に起こってしまう可能性があるのです。

"共通の根本条件"ということに気づかないことが往々にしてあります。

身近な例で言うと、原発のあるところで大きな地震が起こったときに、どのようなことが発生するでしょうか。送電塔が破壊して外からの電源が供給されなくなる可能性があります。地震で引き起こされる津波のために、非常用発電機が作動しなくなる可能性があります。また、原発で事故が発生すると、近くの住民は避難しなくてはいけなくなります。そこで、この道路を使って避難しようと計画を立てます。しかし、原発で事故が起こる、ということは、かなり大きな地震の場合です。大きな地震の時には、山沿いの道路は土砂崩れで通行できなくなる可能性があります。海沿いの道路は津波で通行できなくなる可能性があります。また、放射性物質による被爆を避けるには、風向きが重要で、基本的に風上の方向に避難すべきです。ところが、大きな地震が起こっているのですから、停電したり、あるいは避難情報を流すはずの行政機関の各部署で通信網が分断されたりして、必要な情報を流す、あるいはそれを受け取ることができなくなる、という可能性があります。大きな地震を考えると、いろいろな問題が同時に発生する可能性があるのです。

(9) 起こってほしいことは起こらない、起こってほしくないことは起こる、と考える

これは誰にでも大なり小なり経験があるでしょう。

宝くじはあたらず、交通事故に遭う、とか、ひいきのスポーツチームの主力選手が突然のけがで休むと、相手チームの目立たない選手が突然調子がでてヒーローになる、とか。

世の中は、基本的に"期待外れ"のようです。

(10) 悪いことはしない、さらに、(疑いをかけられたときに備えて)悪いことをしていない証拠を残す、その上、(疑いをかけられないように)悪いことをしていないことを普段からアピールする

とかくこの世は住みにくい、とはよく言ったものです。

この世の中で生きて行くには、我が身は自分で守らなくてはいけません。

悪いことはしない。会社とか役所は守ってくれません。会社のために、役所のために、という思いで、多少は危ない橋も渡らざるを得ない、などと考えて、またその状態を上司や周囲はよしとして見ている、と思われる。ところが、いつの間にか自分が悪者になっていて、"自己責任"などという言葉を持ち出されたりします。

でも、現実的には、周りがみんなそうしているところで、ひとり我が道を行く、というのは難しいでしょう。そんなときには、すくなくとも、いままでは褒められていたことが責められる、というように風向きが変わったときにそれをいち早くキャッチして遅れないように心がける、こんなところですかね。

悪いことをしていれば、いつか露見します。最近の例では、時間外労働がいろいろな所で問題視されています。企業会計のごまかし(典型的には粉飾決算)も相変わらず続いています。いつかは露見するだろうし、そうなったら大変なことになる、とわかっていてやるのは、露見しなかったケースが多々あるのでしょうか。

悪いことはしない。これが基本ですが、これだけではあまりに心許ない。

疑いをかけられたときに、正々堂々と反論できるように常日頃から証拠を揃えておく。

まだ足りません。一度疑われると、回復が難しい。そもそも疑われないようにすることが大事なのです。自分はこのようにやっているから、問題ないですよね、と常に宣伝する。ここまでやらないと安心できません。

会社だってそうですね。よい製品を安く提供しようと一生懸命にやっていると、思いも寄らないところから攻撃が始まる。

我が社はこのようなやり方をしていますよ、と、何もないときでも訴える。場合によっては、公共活動としてこんなことまでやっています、などと言って得点を稼いでおく。

(11) わからないことは追求してみる。とことん追求していくと、思いかけない関係性を発見したり、思っていた以上に問題に肉薄でき、解決の糸口が見えてくる

以前に、企業コンサルタントの方が書いた本を読んで印象に残っていることかあります。

ある製造メーカー(A)で、顧客への納品が遅れることが問題になった時、そのコンサルタントに相談が来た。調べてみると、主な原因は下請け会社から部品が納品されなくて製造が間に合わない、ということがわかってきた。下請け会社からの納品の問題だ、ということで、どの下請け会社からの納品が遅いのか統計を取ってみると、ある一つの下請け会社(X)からの納品遅れが飛び抜けて多いことがわかり、(A)社に報告すると、その(X)社は我が社で一番古くから利用している会社で、古いつきあいだから油断しているんだ、と怒っていた。コンサルタントは何か気になることがあり、さらに深く調査すると、下請け会社に発注するのが遅れたために納期が短くなる場合があり、そのような場合の発注先は(X)社に集中していたことがわかったので、依頼元に報告した。そこで明らかになったことは、下請け会社に発注するのが遅くなって、ほかの下請け会社に引き受けてもらえないとき、一番古いつきあいの(X)社に泣きつくように頼んでいた、ということなのです。依頼元の会社では、(X)社が悪い、と最初は思っていたのが、実は悪いのは自社だった、ということがわかったというものです。

(X)社からの納品遅れが飛び抜けて多い、ということで終わっていたら、いろいろな問題が出てきたことでしょう。(X)社を責め立てれば、(X)社は、それなら今までは無理な案件も長いつきあいから引き受けていたが、もうやらないことにしよう、とか、もうこの会社とは縁を切ろう、などということが起こるかもしれません。

私の体験からもう一つ。

このサイトの別の記事で、「気まぐれ日記」というシリーズを書いています。そこで扱ったテーマの一つが、枕草子の「第32段 網代ははしらせたる」の文章で、なかにひとつ気になることがあり、調べ出しました。それは、牛車がとても速く走ることを書いた所ですが、それ以前に私は牛車の動きは遅い、ということを書いていたからです。

牛車は速く走ることができるのか、ということについていろいろと調べていく中で、牛車の軸受けの構造やそこに注す油などを調べていくと、延喜式とか正倉院文書の中の建築の記録などが出てきて、そのほかにもある企業誌の特集記事とか、日本銀行金融研究会の議事録とか、実に様々な文献につながりました。

その結果、牛車はかなり速く走れる、と確信できるようになりました。実は、いくら調べてもそこまでわかるとは思っていなかったのです。

(12) 世の中にはいろいろな考え方があるということを念頭に置いておく

「人は人、自分は自分」と言うことを上の方で書きました。

このことは、「自分は他人と違う」ということを言いたかったのですが、ここではその逆で、「他人は自分と違う」ということになります。

自分ではこう思っていても、違う考え方の人もいて、みんな尊重されるべきです。

今まで見聞きしたことを二つ取り上げようと思います。

ひとつは、ある意味で典型的なものですが、「今日できることは今日やる」と「明日すればよいことは今日はしない」という考え方です。

前者の考え方は、たとえば、「明日でもいいが、明日何か起こるかわからない。だから今日のうちにやっておく」と考えます。後者の考えは、「後でやればいいことはたくさんあるので、今日のうちに全部やろうとしたら身が持たない」と考えます。

どちらが正しい、というのではなく、自分はこうする、それによって問題が起こればそれは自己責任、と納得すればいい。

もう一つは、「目標を立てたら紙に書いて目立つ所に貼っておく」というのがありました。それを見るたびに決意を新たにすると同時に、周囲の人にも理解してもらい、時には協力してもらう、という考え方です。

これとは逆に、「目標は自分の腹の中に納めて、内省の中で再確認する」、というものです。"貼り出す、なんてダサいよ"というニュアンスがあったように思います。面白かったのは、後者の意見の人が、「(大リーグの)イチローは目標を張り出す、なんてことはしない」、と言っていたことです。イチローが実際にどうなのかは知りませんが、滅多にいない天才的努力家を引き合いに出しても仕方がないだろうと思いました。

ちょっと極端な例を出しましたが、要は、「自分のことを尊重してもらいたい」と考えるのと同時に、「他人のことも尊重する」ということですね。

(13) 自分が間違っているかもしれないことをつねに考えておく。間違ったら、まず謝り、それから対策を考える

自分の間違いを認めるのは難しいことがありますが、「他人は間違うことがある」ということを承認するならば、「自分が間違うこともある」と認めざるをえません。

大事なことを一つ言うなら、自分が間違っているかもしれないから、自分が正しい、と言うことにこだわりすぎてはいけない、ということです。後で間違いがわかったときに引っ込みが付かず、傷口を広げます。それに対して、自分が正しい、と言うことにこだわることのメリットは案外小さいものです。

正しいことを主張しているときでも、自分の間違いの可能性を認める姿勢が、他人から高く評価されるのです。そしてそのような姿勢をとることにより、自分が間違っていることを早く明らかにできることにつながります。間違いは誰の間違いでも、できるだけ早く見つかることがすべての人にとって有益です。

(14) やり過ぎるくらいがちょうどいいことが時々ある

ちょうどいい程度というのがなかなかわかりにくい。

やり過ぎて初めて"やり過ぎた"、ということがわかります。

あまり手前で様子を見たりすると、いい程度に到達するまでが遅くなります。

やり過ぎるくらいに進めて、「あれ、このままではやり過ぎになりそうだ」ということにペースを落とし、やり過ぎたら少し戻す、というのが良いことが多いと思っています。

良い例が見つからないのですが、"位置決め制御"というものがあります。目標位置に最短時間で持っていく。わかりやすい例では、エレベータのかごを目標階まで移動させる、というものです。現実にはエレベータのかごの制御はものすごく高度で複雑なことが行われていますが、簡単に言えば、最初は加速し、次に定速で動かし、最後に少しずつ減速して目標階のところで止まる、という制御になります。途中の速度は遅いほど制御は簡単です。しかし、できるだけ高速化しないと、利用者の待ち時間が長くなります。できるだけ短時間で目標階に到達するには、途中ではスピードを上げすぎるくらいにして、目標階が近づいたら減速する。ただし、目標階を行きすぎてゆっくり戻る、なんてことは全体の速度が低下するだけでなく、いかにも下手な制御だな、と思われるので絶対に避けなければいけません。このさじ加減は難しいですね。たとえば、乗っている人と荷物の重量はその都度かわりますし、目標階が次の階だったり、ずっと離れた階だったりしますし、途中で停止する階が追加されることもあります。しかも、急激な加速・原則は乗っている人を不快にします。

どこからがやり過ぎなのか、という限界はどうしたって難しいですね。

(15) 他人(他社)と比べず、内容を比べる

「罪を憎んで人を憎まず」というのに似ています。

あの人に比べて自分はまだまだだ、などと考えるのではなく、目標を具体的に決めます。陸上競技の100m走で、次の大会で誰々に勝つと言うことを目標にするのではなく、自己ベストの更新を目標にする、あるいは10.5秒を切ることを目標にする、などです。

少し前のことですが、政府の事業見直しで、スーパーコンピューターの開発が議論になり、「2位じゃあダメなんでしょうか」という発言がでて、あちこちで批判されました。私の周囲でも、「全くあきれた話だ」という受け取り方が多かったようです。私は、この発言はちっともおかしなものではなく、さらに、「1位なら何がいいのか」ということが議論されないのはおかしなことだ、と思っています。

スポーツの世界なら「1位」を目指すのは当然です。しかし、技術開発なら、それが到達できたときにどれだけの利益があるのか、の見通しを立てるのが必要ではないでしょうか。

予算には限りがあるのです。「演算速度をAAにする」というのなら半分はわかります。その場合、その演算速度を達成したならどれだけの効果があるのか、という見通しを立てなければなりません。たとえば、天気の長期予報で、今までは1週間先の精度が1か月まで長くなり、その結果、農業生産でXX億円のコストメリットが生まれる、というような議論です。

「演算速度をAAにする」と農業生産でXX億円のコストメリットが生まれ、「演算速度をBBにする」とそのメリットがYY億円に到達するが、さてどちらにするか、というような議論であるべきだと思うのです。

とにかく1位を目指して頑張ると、その過程と結果でいろいろな点でメリットがある、という考え方も理解できる面があります。目標を立てて邁進したときの、なんというか、エネルギーですね、それで目標に到達する、そういうことでもしないと高い目標をクリアするなんてできないよ、と。そういう一面もあるのでしょうが、もう少し冷静に、つまりクールに対処すべきと思います。

(16) やるかどうか迷ったら、まずやってみる

昔から言い古された言葉ですね。

「やらないで後悔するよりは、やって後悔した方がいい」という言い方をすることもあります。

ここで私が言いたいことをもう少しはっきりさせるなら、「やるかどうか迷ったら、まず"少し"やってみる」ということになります。

投資を例にとりましょうか。

「どうも、世の中では投資というものが注目されているから、自分もやろうか、でも大損したら困るな」、などと迷っているときです。よし、一つやってみよう、といって大金を注ぎ込む。こけはいけないです。

まず少額で始めて感触をつかむ。現在では、少額で始める、ということが簡単にできるようになっています。これもネット社会のたまものです。以前は担当者が付くことになり、対面して少額を申し込むのは気が引ける、ということもありますが、ネットを利用すれば、少額の申し込みでも気が引けることはありません。誰が見ているのでもないのですから。

そして様子を見ながら、そのまま続けるか、拡大するか、あるいはやめるか、を決める。

さて理由付けですが、経験則からそうなる、ということしかいえません。



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