【4】日立市の市名の由来 その4 -日立という地名の出現-


次のページに進む  前のページに戻る  「生まれ育ったところのあれこれ」のトップページに戻る


【4】日立市の市名の由来 その4 -日立という地名の出現- [2015/3/17]

日立という地名の起源

このシリーズの最初の記事に書きましたが、日立という地名の由来は、水戸藩第二代藩主光圀の発した言葉とするのが、最もポピュラーな説明です。ただし、具体的な言葉ははっきりしません。

「日の立ち昇るところ領内一」
「朝日の立ち昇る様は領内随一」
「日の立つ処領内一」

いずれにしても、ずばり「日立」と言っているのではありません。

志田諄一氏は、この水戸光圀の言葉が起源と言う説に疑問を投げかけ、次の二つの可能性を挙げていることは、このシリーズのその2で紹介しました。

(1) 常陸風土記に、この辺りに建御狭日の命(たけみさひのみこ)赴任してきたという伝説が記録されており、このタケミサヒから「高いところにのぼって朝日をみる」という着想がでてきた。

(2) 日立地方には古くから日の出を拝し、願文を唱え・・・・いわゆる「踊り念仏(時宗)」が盛んだったらしい。・・・・天道(太陽)に祈願し、五穀成就を祈るために建てられた文化年間の天道塚があり、・・・・このような天道礼拝の信仰から、展望のきく神峯山などでも太陽の礼拝が行われ、日立なる村名が生れていった。

ここでも、「日立」という呼称の地名は文献には現れてきません。

日立という地名が出てきた

偶然ですが、地名として「日立」と書かれた文献が見つかりました。このサイトの「前書き・後書き」の部屋の46.で「日本の名著 15 新井白石」の46.折たく柴の記を取り上げましたが、同書に「古史通」という作品も収録されています。ただし初めの部分のほんの一部だけです。そこに、「日立国」という表記がまず生まれ、その後に「常陸国」という表記に変化した、ということが書かれているのです。少し長くなりますが、その部分を引用します。引用部分では、[ ]は原注、( )は訳者注と区別しています。

わが国がひらけた最初に、天地の中に生成した神の名を国常立尊(くにのとこたちのみこと)という。または国底立尊(くにのそこたちのみこと)ともいう。

(中略)

国常立尊は、『古事記』では国之常立と記している。このように書かれているのは、常国(とこくに)に立たれた「御事(みこと)」ということであろう。また名を国底立ともいったのは、その語の音が転じただけで、異なった意味があるわけではない[これは世に五音相通などといっているものであり、以下、語の音が転ずるというのも、みなこれに同じである]。

常国というのは、すなわち常世(とこよ)の国のことである。古い時代には新治国(にいはりのくに)・筑波国(つくばのくに)・茨城国(むばらきのくに)・仲国(なかのくに)・久自国(くじのくに)・高国(たかのくに)などの地は、すべて常世の国といった。また日高見国(ひたかみのくに)ともいった。現在の常陸国(ひたちのくに)(茨城県)がそれである。この国は、日の神がお立ちになった土地であるから日立国(ひたちのくに)ともいったし、またそれにもとづいて衣手漬国(ころもでのひたしのくに)などとも呼んだと見えている。その後、いまの漢字を選んで、仮りに用いるようになって、常陸国と記すようになった。これは道路が続いて郡郷の境界が互いに接しているという意味であるという[『旧事紀』『日本書紀』『常陸国風土記』に見えている記載によった]。

なお、上記で仲国・久自国・高国は現在の表記では那珂国、久慈国、多賀国となるところでしょう。

上記の引用は現代語訳ですが、明治4年に松山堂から出版された本を近代デジタルライブラリで見ることができます。コマ番号18の左ページに「日立國」を確認できます。「ヒタチノ」という読みがなが付けられています。

考察

はっきりと日立国と書いてあります。最初に日立国と書いていたものが常陸国に変化した、としています。

この「古史通」は著者がかなり力を入れて書いたものであることは、冒頭に10ページにも分かる「読法」があることでも想像できます。ここには読者へのメッセージとして記述の基本方針や読む上での注意点などがこまごまと書かれています。

さらにそのあとには2ページの「凡例」が続きます。凡例の2番目の項目には「典拠は明示したこと」という見出し(これ自体は訳者が追加した)のもとに、次の様な記述があります。

一 およそ撮要(さつよう)(要点を選びとること)や注釈について、その説の根拠としたところは、各説の初めにその出典の書名を記したり、あるいは各説の下に注として書き加えている。これは、いやしくも自分かってな考えにもくづくものではなく、みな論拠があることを証明し、またはその説の出典を明らかにして、それらの書物を参照するのに便利なようにしたのである。

凡例にはこう書いてありますが、「最初に日立国と書き」ということの根拠が見つかりません。『日本書紀』には出てきません。『常陸国風土記』には常陸の由来を直道(ひたみち)としています。また衣手漬国については、倭武(やまとたける)が東征のおりに新治に至ったときに井戸を掘らせ水で手を洗ったときに袖が水に漬ったので、衣袖漬国(ころもでひたちのくに)とよばれるようになった、というようなことが書かれています。常世の国については、「古の人、常世の国といへるは、蓋し疑ふらくは此の地ならむか」と記しています。

残るは『旧事紀(または旧事本紀)』です。天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから)」というサイトに「先代旧事本紀の世界」というページがあり、「旧事紀」の現代語訳を読むことができます。この現代語訳で「日立」を探しましたが見つかりません。

つまり、「日立国」の根拠が見つからないのです。

私の想像では、「日の神がお立ちになった土地であるから日立国(ひたちのくに)ともいった」というところは、他の文献に依ったのではなく、「国常立尊(『古事記』では国之常立)」から「常世の国」を推定し、常陸風土記の記述からそれを常陸国と比定し、「常陸(ひたち)」の言葉の由来として「日立(ひたち)」を想定して、さらに「日の神がお立ちになった土地だから日立国」という解釈を持ちだした、ということではないでしょうか。

古史通では、「高天原」について「高は常陸国の多珂郡」といっていて、その解釈は"ユニーク"というより"特異"といっていいくらいです。世の中の古史通に対する評価がどのようなものか分りませんが、ついていけない、というのが実感です。

ただし、このあたりはよくわからないことが多いので、今後の研究課題とします。

とりあえず、「日立」という地名が江戸時代中期の文献にあったことを記録しておこうと思った次第です(「古史通」が書かれたのは1716年とされています(「日本の名著 15 新井白石」巻末の年譜による)。それにしても、上記の私の想像によれば、「日立」という地名は、「常陸」という地名の起源を推測した結果"生みだされたもの"、ということで、結果的には進展はほとんどありませんでした。



[ページの先頭に戻る]