これはすごいと思うyoutube動画トップ 10


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5つ目のトップ10です。

"これはすごいと思う"と書いていますが、ちょっと複雑です。

よくぞアップしてくれた、とか、著作権の点からよく削除されないでいたな、とか、いろいろと考え込んでしまうものとか、さまざまです。

聞く(または見る)ことができて本当に良かった、と感じるもの、というあたりが私の気持ちに一番近いですかね。

動画でないものがあります。マヤ・プリセツカヤはダンスですから動画でなければどうしようもありません。フルトヴェングラーは指揮の様子が重要な要素で動画が重要です。他は動画でなくてもかまわない。実際、ヴァレンティーナ・リシッツァ以外は動画ではなく、音声だけです。

なお、このページでは、人名に敬称はつけないことにしました。故人人の方、引退した方、現役の方といろいろで、一つのページで敬称が付いていたり付いていなかったりがあってはかえって紛らわしい感じがしそうなので。

私のトップ10

  1. Los Indios Tabajaras-熊蜂の飛行
  2. マヤ・プリセツカヤ-ボレロ
  3. ヴァレンティーナ・リシッツァ-Fur Elise
  4. フルトヴェングラー-ベートーベン 交響曲第9番==最後の数分だけ動画
  5. 古今亭志ん朝-高田の馬場
  6. 金原亭馬生-親子酒
  7. 小林旭-ダイナマイトが150屯
  8. 石原裕次郎-月の沙漠
  9. 本田路津子-死んだ男の残したものは
  10. 小鳩くるみ-惜別の歌

解説を少し

  1. Los Indios Tabajaras-Flight of the bumblebee(熊蜂の飛行)

これについてはすでに記事を書いていますので説明は省略します。

  1. マヤ・プリセツカヤ-ボレロ

約15分のほとんどを一人で踊る。これが飽きないのですね。これはすごいです。たいへん評判の高い人ですから当然と言うこともできますが、やはり"すごい"という他はありません。

"瀕死の白鳥"という名演もあります。"ボレロ"も"瀕死の白鳥"も、曲自体が名曲で、それをみごとに踊っているわけです。ここでボレロを上げたのは、演奏時間が約15分と長いこと(瀕死の白鳥は約4分)が最大の理由で、それだけ見応えがあります。もう一つの理由は"瀕死の白鳥"という言葉に違和感を覚えることです。英語の題名を見ると、"dying swan"となっています。"死にゆく白鳥"です。"瀕死"では、たとえば「瀕死の」といえばかなり危険な状態ですが、死の一歩手前です。

  1. ヴァレンティーナ・リシッツァ-Fur Elise

リシッツァは、youtubeにたくさん演奏をアップしていて、現在のクラシック音楽家が実演で稼ぐのが難しく、CDは売れない、という状況で、youtubeを精力的に使った開拓者の一人といっていいでしょう。

有名なのがベートーヴェンの月光ソナタの第三楽章で、再生回数が1400万回を超えています(2016/6/20現在)。この曲の全曲版は260万回なので、第三楽章の演奏が注目を浴びたようです。で、どうして"Fur Elise"かというと、こんな有名な、ピアノの入門者向けの、まあ"手あかのついた"曲を、アンコールとはいえ、真面目に弾くピアニストがいるんだ、という驚きですね。

たとえば、この曲が始まったとたん、聴衆のざわつきの声がかなりはっきり聞こえます。「ええっ、この曲かぁ」。肩すかしでしょうね。ピアノを習ったひとならほとんどの人が弾いているでしょう。ギターでいえば"禁じられた遊び"です。演奏はいろいろと表現できます。私の印象は、「男を手のひらで転がすような」というところですかね。

  1. Furwangler-Beethoven 交響曲第9番 1942年ライブ

1942年の実演です。見出しの画像にナチスのシンボルマークが写っていて、会場の雰囲気が分かります。"Fuhler's birthday"と説明書きがあり、ヒトラーの誕生日の祝賀のための演奏会だったようです。70分を超える演奏時間のほとんどは数分ごとに切り替わる静止画で、ナチスの幹部と思われる面々が写り込んだものもあります。最後の4分ほどが動画です。フルトヴェングラーの演奏は結尾部で極端にテンポを上げるところが一番の特徴だと私は思っているので、そこが動画で見ることができ、ありがたいことです。この動画でも、最後でメチャクチャなほどテンポを上げて、オーケストラが付いていけない状態ですが、意外なほど指揮者は冷静で、そこが面白いですね。最近ではこんなにテンポをあげたりはしませんが、ほとんどの指揮者は髪を振り乱し、汗を飛び散らすように演奏を終えることが多いのです。ここではもちろん手の動きは忙しくなりますが、上体の動きは意外に少ない。いままでは没我の状態でテンポを上げているのか、と思っていましたが、計算通りなのかもしれませんね。ここは合唱が終わってオーケストラだけの演奏ですが、その前の合唱・ソロも含めた部分では指揮者も体全体を忙しく動かして、没我というならこの部分の方が近い。

  1. 古今亭志ん朝-高田の馬場

落語です。youtubeには若くして亡くなった古今亭志ん朝の動画がたくさんアップされていて、いろいろ楽しめるのはありがたいことです。どれか一つを選ぶのはとても難しく、"すごい"と感じるものがたくさんあります。"高田の馬場"はその中でもセリフが長く、落語家としてはやりたがらない演目の様で、アップされている数はかなり少ない方です。長いセリフを威勢のいい早口でまくしたてるところは江戸ッ子が活躍する落語にぴったりです。そして、口ごもったり、言い間違えたりがほとんどない。志ん朝の話は全部そうで、本当に稀有な落語家でした。

  1. 金原亭馬生-親子酒

落語をもう一つ。古今亭志ん朝の兄で、この二人の兄弟が昭和の名人と呼ばれた古今亭志ん生の子です。

金原亭馬生は、古今亭志ん朝について上に書いた「口ごもったり、言い間違えたりがほとんどない」があてはまりません。一瞬言葉に詰まったときなどは、聞いているこちらが"はらはら"するところがあります。でも、引かれる理由の一つは、話の所々で、解説の様な部分があり、とっても新鮮なのです。

たとえば、江戸時代は大名行列というものがありました。農民や町人は大名行列に出くわすと、道端で土下座をしなければいけない。そうしないと「無礼者」と言うことで首をはねられるかもしれないのです。ところがこれは江戸の町の外のことで、江戸市中(東海道で言えば品川の宿が境界になる)では土下座は必要なく、端によけていればよかったらしい。馬生はこれを「いちいち土下座をしていては江戸の町の機能が止まってしまいますから」と端的に解説するのです。考えてみると、方々から大名が江戸市中のそれぞれの大名屋敷まで行列を進めるのですから、街中でいちいち土下座をしていては町人は仕事にならない。確かにそうですね。でもこのことを知ったのは馬生の落語を聞いたからなのでした。

もうひとつ、「目黒のさんま」という話で、殿さまが突然に遠乗りをすると言って目黒を目指して馬を走らせる。家来が大慌てで後を追う。目黒について殿さまは馬を下りて弁当を出せと言う。しかし家来はあまりに突然なことであったため、弁当を持ってきていないと言う。この時、殿さまは家来をしかりつけることはしないのです。

馬生の解説はこうです。「なぜ弁当を持参しなかったのだ、と家来を責めると、誰かが責任を取らなければならなくなる。そうなってはいけませんよ、と小さいときから教育されています」。

ああ、そうなんだ、とよく分かるのです。殿様が家来に無理なことを言って、その結果、家来が罪をかぶる様なことがあると、家来から支持されない。そのような組織は弱い。そういうことに気付かせられるのです。なるほど、殿様も家来のことを気にかけなければならない。決して気楽なものではないのですね。

さて、親子酒ですが、酒好きの親子(親はそろそろ身代を跡取りの子供に譲ろうか、と思い始めているが、この跡取りの酒癖が悪いことが悩みの種)が禁酒の約束を交わすが、ある日、二人とも禁を破って飲んでしまう。親は店にいて、禁酒の我慢が限界になり、理屈を付けて飲みだす。そうなると止まらない。一方跡取りの方もお得意先に行ってそこで強く酒をすすめられ、ついに禁を破り、こちらも止まらず。"へべれけ"になるまで飲んで店に戻る。そこで、父親の前で「おとっつぁん、ただいま」と大声で言うのですが、これがまるで呂律が回らない。この言葉を馬生は実にリアルに話すのです。親子酒は比較的有名な演目なので、youtubeにいくつか動画がアップされていますが、こんなに呂律が回らない話し方をする人は他にいません。

馬生の落語の特徴は何でしょう。私はリアリズムの追及ではないか、と思うのです。

たとえば、この親子酒の中で、父親が禁を破って飲みだしたとき、独り言を言う場面があるんですね。「誰がこんなもの(酒の事)を考え付いたのかね。探し出してひどい目にあわせてやりたいね」。酔って言うこの言葉なんか実にリアルです。

金原亭馬生のリアリズム追及は、やりすぎを厭わない。誇張するところまで行ってしまう。もとより落語は演技です。演技は誇張と表裏一体で、誇張をさけたら物足りなくなってしまう。

馬生の父である古今亭志ん生は自由奔放な芸風、と言われることがありました。志ん生に追い着こうとするのではなく、別の道を探した。そして"リアリズム"追及の落語の路線に"収れん"していった、のではないかと感じます。

志ん朝のように言葉が威勢よく飛び出す人ではありません。然し、リアリズムの追及という点で、他の誰よりも完璧だったと思います。

他の落語家がこの演目をやるのを聞くと、まるで棒読みのように聞こえてなりません。

  1. 小林旭-ダイナマイトが150屯

これもすでに別のページで取り上げました。"150屯"のところを"ヒャクゴジュットン"ではなく"ヒャクゴジットン"と発音していることを取り上げた記事です。オリジナルの録音と最近の録音の二つがアップされていました。いつのことか最新録音の方はリンクが途絶えてしまいましたので、著作権の問題があったと思われます。小林旭が歌う歌は、言葉の一音一音が明快で、貴重な存在です。

もう一つの音源がアップされているのに気付きました。動画ですが、音質が良くないので、かなり古いものでしょう。こちらの方が150屯を"ヒャクゴジットン"と言っているのがより明らかです。

  1. 石原裕次郎-月の沙漠

今回のトップ10の中で、「驚くべき」という言葉が一番合うのがこれです。

あの石原裕次郎が童謡である「月の沙漠」を歌う。これほど考えられないものはないでしょう。マリア・カラスが秋田音頭を歌うとか、アインシュタインがアメ横でイカの燻製を値切っている、というレベルではないでしょうか。

現在、朝日新聞に漱石の「吾輩は猫である」が復活して掲載されていて、それに引きずられてこんな表現が出てきてしまいました。ちょっとやりすぎかもしれません。

歌ですが、これが実にいいんです。原曲の歌詞は4番まであり、たいていの歌手は3番まで歌っているのですが、ここでは2番までです。しかもアカペラ。マイク1本だけで一人で歌っているような感じです。伴奏がないので、演奏会ではない。個人的におふざけで録音したものか、あるいは親しい人間だけの内輪の集まりで余興として歌ったときに偶然録音されたのか。

これを聞くと、この人は本当に歌がうまいんだなあ、とつくづく感じます。石原裕次郎は歌がうまい、などと言ったら、「当たり前だ、ばか野郎」と言われるでしょうが、童謡を歌ってもうまい、とは知りませんでした。

石原裕次郎が渡哲也の持ち歌の「くちなしの花」を二人並んで歌っている動画がアップされています。一番を裕次郎が、二番を渡哲也が歌っているのですが、裕次郎の方がはるかにうまい。渡哲也にとっては、"大将"の前で歌うというだけで緊張してしまったのかもしれませんが、それを差し引いても断然裕次郎の方がうまい。

石原裕次郎が童謡を歌って、こんなにいい味を出している、ということはまったく予想外で、私がこのトップ10の記事を書いた一番の要因は、この曲を紹介したかったから、と言っても誇張ではありません。

  1. 本田路津子-死んだ男の残したものは

本田路津子、懐かしい。私にとってはこの人はキーが高めで、私には苦手の部類に入るはずでした。

でも、この歌はすごい、と思いました。まあ、曲自体がすごいですよ。作詞が谷川俊太郎、作曲が武満徹、と大御所の名前が並びます。

「二木紘三のうた物語」というサイトのこの歌のところには「昭和40年(1965)4月24日に開かれた『ベトナム平和を願う市民の会』で発表」と書かれています。更に詳しい解説がありますので、興味のある方はリンクをたどってください。

この歌は多くの人が歌っていて、youtubeにもいろいろな演奏がアップされています。フォーク系の歌手が多いようです。いいな、と思う演奏も他にいくつかあります。本田路津子を選んだのは、このキーで(高さという意味ですが)歌うのが聞きにくくない、という一点です。高さが気にならなず、直接心にしみてくる。それが何なのかは分かりません。私は、キリスト教には興味がないので、本田路津子がキリスト教に深くかかわり、讃美歌やゴスペルソングのCDをいくつか出している、ということはネットで調べたときに出てきましたが、そのことには何も反応しません。

ただ、歌手であり、そのほかは特に何も、という人と、他に何か持ちネタがある、という人では、人生の楽しみ方に違いがあって、それか歌にも影響している、という印象を受けることがあります。この辺りはうまく表現できないのがもどかしいのですが、この音の高さがこの人に限って"気障り"ではない、というのはどうしてなんだろう、と思うのです。"相性"何ですかね。

  1. 小鳩くるみ-惜別の歌

この歌を聞いたとき、「恐るべし、小鳩くるみ」というフレーズが浮かんできました。

この曲は、島崎藤村の若菜集にある「高殿」から一部を取り出し、その中の「わが姉よ」という部分を「わが友よ」に替えたものなのですが、それを「わが姉よ」に戻して歌っているのです。

一部でも原詩を変えるのは良くないとかねてから私は思っていたのです。

私がyoutubeで聞いたこの曲は、小鳩クルミの歌以外はすべて「わが友よ」なのです。その中で、ただ一つ、「わが姉よ」と歌ったことに感動したのです。

でも、この曲には、よく考えると、色々な問題があります。

「わが姉よ」という部分を「わが友よ」に替えた、という点がその第一です。なぜ「わが友」なのかというと、中央大学の学生が太平洋戦争中に、学徒動員の中から戦地に赴く学友を送る歌として作られものです。

然しながら、原詩は、姉が嫁いでいく時の別れの悲しみを姉と妹が交互に呼び掛ける、という構成の歌だったものなので、一部分を抜き出し、一つの語句を変えたものとしているのは、法的には著作権の問題がないとしても、あまりにも勝手なやり方であり、これはいけないことだ、と感じるのです。

それでは、「わが姉よ」という部分を「わが友よ」に替えただけで、うまく内容が変わったか、というと、どうもそうとは思えません。この歌は、3番の歌詞が次のようになっています。この部分は原詩も同じです。

君がさやけき 目の色も
君くれないの くちびるも
君がみどりの 黒髪も
またいつか見ん この別れ

「みどりの黒髪」とはわが国では男女ともに使うのでしょうか。私は女性の形容と感じていました。ですが、男女ともに使われるのかもしれません。その可能性はあります。しかし「さやけき目の色」、「くれないのくちびる」、と並ぶと、どうしても女性に対する形容としか感じられません。戦地に赴く男子学生に語りかれる言葉にしては場違いな印象を受けます。

太平洋戦争中(おそらくその後期でしょう、学徒動員が激しくなる頃ですから)、本当にこの言葉が使われたのでしょうか。

別の問題もあります。この曲のメロディーは「わが友よ」という歌詞に対して作られたものです。それを勝手に(かどうかは分りませんが)、原詩に戻す、ということで、「わが姉よ」と歌ったなら、そのことが勝手に歌詞を変えて歌ったことになります。

「勝手に」と書きましたが、もしかして許可を受けていたのかもしれません。でも、私は、許可を受けたのであっても、改変には反対の立場なのです。

と言うわけで、釈然とはしないのです。ですが、あくまでも「筋を通した」という点で、つまり「わが姉よ」を「わが友よ」と詞を変えたことに対して問題意識を持ち、そしてオリジナルの詞に従ったという点が大したものだと感じたのです。

それで、歌自信はどうかと言うと、これは聞く価値があります。小鳩くるみと言うと、童謡歌手というイメージが付いて回りますが、スタンダードな歌曲がどれも予想を裏切ってうまい。それはこの歌に限りません。一つだけ例を上げておきましょう。

月の沙漠


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