嫌いなものトップ 10


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今度は嫌いなものです。

今まで、好きなもののトップ10をテーマにいくつかの記事を書いてきました。

嫌いなものも書かないと片手落ちかな、と考えました。その場合、なぜ嫌いなのかを詳しく説明しなければいけないような気がします。好きな物なら、単に好きだ、といえばいいのですが。そこで、説明は長くなりますが、嫌いな理由を少し詳しく書いていきます。

嫌いなものトップ 10

  1. 12時間制
  2. 7セグメント文字
  3. NHK
  4. かもしれない
  5. 履歴の記録
  6. 六曜
  7. 和暦
  8. キリン一番搾り
  9. 生年月日のほかに年齢を書かせること
  10. ライトアップ

以下、解説です。

  1. 12時間制

時刻の表現の12時間制です。これに対抗するのはもちろん24時間制です。

嫌いな理由は、12時間制そのものというより、AM/PMあるいは午前/午後との関係です。もっとくわしく言うと、12時台のいい方です。

昼の12時30分は、PM12時30分というらしい。少なくとも手元の目覚まし時計はこうなっています。ここです。

12時30分だったら、11時30分の1時間後ではないのですか。AM11時30分の1時間後はAM12時30分ではないのですか。

AM/PMの表記と時刻の数値が対応していないのです。

12時台を使わずに0時という表現ならいいのです。PM0時30分なら何も問題はない。

ゼロは使わない、というのは確かに根拠はありますね。"ゼロの発見"は古代インド人によってなされた、といわれています。日本人にはなじみが"少ない"

多分、AM/PMはきちんと区別したい、という気持ちがあるんでしょうね。12時ちょうどを境にAM/PMを切り替えたい。その結果、AM/PMの表現と時間の表現がかみ合わなくなった。

24時間制なら、スタートは0時でしょう。24時ではない。

こう考えると、問題の原因は0時を使うかどうか、ということにあるようです。

  1. 7セグメント文字

デジタル時計では時刻を表す数値を7セグメント文字で表示します。電卓など数値を表す物の多くが7セグメント文字を使用します。

こんなみっともない表示をいつまで使っているのでしょうか。

確かに、昔は時代の最先端を表すというようなイメージだったんでしょうね。

もう一つは、表示の制御や必要なメモリ量が少なくてすむ、というコスト・メリットがあったのでしょう。

今では、表示制御技術が進んで、コストメリットはないはずです。ところが、もっと見やすい数字の表現がなされない。進歩がないのです。

いや、進歩がない、というのは言い過ぎです。7セグメント文字のデザインはかなり凝った物になっていると聞いたことがあります。デザイナーが苦労してあのパターンを設計しているようで、下手に何かのサンプルを公開したりすると、著作権の問題に引っかかる可能性があるらしい。

縦線が4本、横線が3本で、これを個別に点灯・消灯して0から9までの数字を表現します。計算機に関わる仕事をしていれば、16進数をよく使い、そこでは0~9とa~f(またはA~F)の16文字を使います。16進数計算機能を持つ電卓ではこの16個の数字・文字を7セグメントで表現します。

7セグメントなので、表現できるパターンは、理論的には、27=128通りありますから、16個の数字・文字の表現は楽々カバーしています。

小学生が使う算数の教科書にはこんな表現をする所はありません。(ひょっとして最近はあるのかしら。ちょっと不安)

実は私は、7セグメント文字ではない、もっとなめらかな数字を表示する電卓を持っていました。少しばかり複雑な数式を扱うことができる関数電卓だったので、数字は普通に印刷したような形でした。

やはりこちらの方が断然見やすい、と思ったことでした。

高村光太郎は「ぼろぼろの駝鳥」という詩の最後でこう書いています。

人間よ、
もう止せ、こんな事は。

こんな気持ちです。

  1. NHK

最初の二つは、世の中全般に関するものでしたが、次は具体的な、いわば"特定物件"です。

なぜ嫌いか。お金を取るからです。

独り立ちして、お金を取らないですむようにしていこう、という考えが見つかりません。法律の上にあぐらをかいて、いつまでもニート状態で済ませようとする。

お金を取ることが、どうして嫌いなのか。高すぎるからです。

安い方の地上契約(衛星放送は見られない)で、一番安い"12か月前払い額"は13,990円、1か月あたり1,165円。衛星放送も見ようとすると、"12か月前払い額"は24,770円で、1か月あたり2,064円。びっくりです。

私の感覚では、テレビごときに出せるお金はせいぜい500円。もともと、ほとんど見ませんので。

さらに大きな問題は、NHK以外の料金を取らない衛星放送を見たいと思うと、見たくないNHKの料金も払わなければならないことです。

衛星放送を見たいと思ったことで記憶に明確なものは、すでに写真の部屋で書いた記事のケースでした。

この時の取材先で、たまたまTV局の取材とかち合い、話を伺うと、BS朝日の撮影隊で、そのときの取材内容はもう少し先に放送される予定、とのことでした。ところが、無料のBS朝日を見ようとすると、NHKにお金を払わなければいけないそうで、あきらめました。

BS放送を見るためには、新たにアンテナを取り付ける必要があります。何万円かは必要でしょう。でもそのときに1回だけ支払えばよいのです。ところがNHKの受信料は見ようが見まいが常に支払いの義務が生じる。

無料のBS朝日を見るのに、横から金を出せ、と(法的に許されているからということで)要求してくるのです。

受信料は全放送局で分配します、というのなら腹立ちもいくらかは収まりますが、そうではないのです。

私はNHKがあるために、無料の放送を見ることができない、という被害を被っているのです。

一度、NHkふれあいセンター(確か、そのような名前だったと思います)に電話して、このことを訴えたところ、確かにそういう面はあります、と同意されました。

勝手に電波を流しておいて、金をだせ、というのは、小包を勝手に送りつけて金を要求する"送りつけ詐欺"と結果的に同類ではないか、と思ってしまいます。少なくとも、BS放送になってからは、スクランブルをかけることは技術的に問題なくできるのですから。現実に、たくさんのチャンネルでスクランブルをかけて、契約者だけが見られるように運用しているじゃないですか。

  1. かもしれない

「かもしれない」という表現は、嫌い、です。主張しているのか、いないのかがはっきりしない、つまり責任逃れになっている。

さらに、自分でも、こう表現していまいがちなので、注意が必要。

「この問題の根本原因は、このようなところにあるのかもしれません」

このように書かれていたら、「この問題の根本原因は、そこにあるのかもしれないが、また、そうではないのかもしれない」と考え直さなければなりません。

「なるほど、そうかもしれない」などと、いい加減に考えてはいけない。

「かもしれない」が「きっとそうだ」になり、「それで間違いない」と信じてしまう危うさがあります。

  1. 履歴の記録

履歴の記録がいつの間にか、広範囲にわたって行われています。

パソコンやスマホでインターネット上の記事をあちこちみたり、検索したりすると、その履歴が残ります。

ネット通販を利用すると、購入履歴が残ります。

自分の行動が逐一記録されているような気がしてくる。

もともとは利用者に対するサービスとして始まったのかもしれませんが、最近では押しつけがましいレベルになっています。

ある写真家が、自分が撮影したプリントに対して、プリントという物はそのとき限りであって、以前のプリントを見るということは、昨晩飲み過ぎて嘔吐した跡(あと)をその翌朝目にするようなものだ、と書いていたのが印象的でした。

確かに、昔のことをほじくり返すのはやめてもらいたい。

便利だと感じる場合もあり、クレジットカードから引き落とされてことが記憶にない、という時に、通販の記録を見て、「ああそうだ、あれを買ったのだった」と納得するときがあります。

それにしても、やり過ぎてはないでしょうか。

一番驚いたのは、スマホを持って移動する(全く普通に起こることですが)と、その位置が自動的に記録されてしまうということでした。これって、知らない人が多いのではないでしょうか。
ロケーション履歴というもので、android系のスマホに搭載され、デフォルトではONになっています。

気持ち悪いこと、この上ない。

  1. 六曜

誰が始めたんですかね、こんなでたらめなことを。

人の弱みにつけ込んで、汚いことをするなあ、と思います。

キリスト教圏では13日の金曜日がきらわれる、ということがありますが、それより遙かに悪質です。

地方自治体が発行した物に六曜が印刷されていて、回収することになった、という記事を見た記憶があって、ネット上で探してみました。
ありました。「いったいなぜ?「六曜」記載カレンダー回収にネットがざわついてる」という記事でした。

発表によると、市側は、六曜が現在でも多くの暦に記載されている一方、前時代的な迷信で人権問題の解決を阻むものとの指摘があると説明。・・・・
六曜が記載されたカレンダーは、自治体の配布物としては好ましくないと判断したとしている。

などと報道されています。

私が住む茨城県の県民手帳には六曜はありませんでした。ああ、よかった。

  1. 和暦

和暦もいやですね。

役所かどこかに提出する用紙で、大正・昭和・平成の一つを丸で囲んで選択するところで、すべて二本線を書いて消し、西暦年を書いたことも幾度かあります。

要するに、不便なのです。

もっとも、日本独自の年の数え方をするのは別にかまわない。それがころころ変わるからだめなんです。

昭和の生まれの私は、平成になるまでは和暦というのはさほど気にならなりませんでした。もちろん海外との取引では西暦に変換する必要がありますが、昭和は25を足すと西暦になって、簡単だったんです。終戦の昭和20年は25を足して西暦1945年です。

これが平成では平成の年から12を引いたのが西暦です。逆に考えると、西暦の下2桁に12を足すと平成になります。ですから1989年は平成元年(1年)なのです。

実は、これを詳しく考えていくと、平成0年がないのは不便だ、ということにつながり、上に書いた12時間制の問題点にも関わることになり、ややこしくなりますのでやめます。

一つだけ。紀元1年の前年は紀元前1年です。つまりAD1年の前年はBC1年です。ADx年からADy年までの期間は足かけ何年かというと(y-x+1)年ですが、BCx年からADy年までとなると、(y+x)年です。期限後でy年、紀元前でx年ですから。また、BC1年を(-1)年というように考えると、足かけ(y-x)年です。AD0年がないので、(y-x+1)から1を引くのです。式が違ってきます。

もう一つ気に入らないこと。

明治、大正、昭和、平成、これらの起源はみんな中国の古典なんですね。易経、書経、史記から採用しているんです(精選版日本国語大辞典 for ATOK による)。
どうして、日本人の文献から探さないのですかね。

日本人も漢文で優れた文章を書いていると思うのですが。あるいは漢字表記の万葉集から採る、というのも有望でしょう。

右寄りの人は和暦も重視すると思うのですが、中国の古典が起源ということに疑問を持たないのでしょうか。

平成天皇が自ら生前退位を希望するという発言から、平成の次の年号の検討が始まったと最近のニュースにありましたが、今回はどうなるのでしょうか。

末尾に追記を載せました。

  1. キリン一番搾り

ビールの話です。

たった一つの新聞記事を読んで嫌いになったものです。

アサヒスーパードライの発売開始は、ネットで調べると1987年3月。キリン一番搾りの発売開始は同様に1990年3月。

おそらくその間のことだったと思います。アサヒスーパードライの発売開始以来、急激にシェアを伸ばしていたのですが、その前は、キリンラガービールがシェアNO.1でした。

で、アサヒスーパードライがシェアNo.1になってから、キリンラガービールはなんとかシェアを回復しようと、いろいろと宣伝をしていたような記憶があります。

そういうなか、キリンビール直営のビヤホール(銀座店だったような気がしますが、定かではありません)の店長が新聞に寄稿したのです。その内容は、スーパードライがシェアNO.1になったが、客はその味を支持しているのではない、味なんかわかる物ではない、飲み比べて差が出る物ではない、単なるブームだ、という趣旨でした。

この人はわかってないなあ、と、これは実感でした。個人的な体験です。

私はすっかりスーパードライばかり飲むようになったのですが、実家に行くと出されるビールはほとんどキリンラガービールでした。確かに味がはっきりと違うと感じるのではありません。ただし、時々、ああ、今回はビールがうまいなあと感じるときがあり、聞いてみると、そのときに限ってスーパードライだったのです。味の違いを感じていたんです。

このことから、キリンビールが嫌いになったのです。

その後、キリン一番絞りが対抗商品として出てきて、飲んでみると、どうも一番絞りの方がうまい、と感じたのです。ところが、キリンビールはあんな記事を書いてけしからん、と思ったので、選ぶときにはキリン一番絞りは除きました。

私の気持ちの上で一番絞りを解禁したのは、今から2,3年まえですから、結局、一番絞りの方がわずかながらうまい、と思っても、約25年もの間、意識的に買わなかったわけです。一番絞りの解禁は、特別のきっかけがあったのではなく、さすがにもういいか、ということだけでした。

  1. 生年月日のほかに年齢を書かせること

これはそれほど強くきらい、というのではないのですが、これくらいどうして処理できないんだろうか、と不満に思うことです。

いろいろな場面で、生年月日の記入が要求されます。それと同時に年齢を書くことが求められることがあります。

年齢は生年月日がわかればわかるじゃないか、と思うのです。

二つのデータを要求すると、矛盾が発生する可能性があります。たとえば、単に書き間違えることがあるからです。

一般に、二つのデータがあって、相関関係があると、矛盾がないか心配が出ます。だったら最初から一つのデータだけを要求すればいいんじゃないか。そういうことです。年齢は生年月日から計算できるのです。

たとえば、ドック検診を申し込んで、期日が決まった時、いろいろと書面で連絡します。そのときに生年月日と合わせて年齢を書くとなると、記入時点の年齢なのか、検診日当日の年齢なのか、という疑問が起こります。疑問を感じなくて、どちらかだと思い込んで書く場合もあり得ます。求める側の期待に反することになりかねません。このような不確実なことが起こるのです。

  1. ライトアップ

最近、いろいろなところでライトアップが行われています。

どうしてこんなことをするのですかね。夜は暗いのが当たり前じゃないですか。

お城だったり、ビルだったり、あるいは桜や梅や紅葉だったり。

ライトアップのために、天体観測に支障が出ている、という話もあります。

夜は暗いのが当たり前、ということでは、東日本大震災の夜の夜空のきれいだったことを思い出します。梅見に出かけた日の午後で、通常は1時間ほどで帰れる所を、道路の通行止めや混雑のために8時間をかけてようやく深夜に帰宅できた、その途中で見た夜空の星の明るかったこと。"星降る"という言葉が実感できました。"星明かり"などという言葉を思い出し、また、古代や中世、あるいは近世の人々はこのように"星がぎらぎらと光る"夜空を感じていたんだろうな、と考えたものでした。

ライトアップのあの薄気味悪い色の光に皆さん平気なのでしょうか。


追記 7.和暦 について 【2019/4/1】

上記のように書いてアップしたのが 2017/4/7 でした。それからほぼ2年が過ぎ、ついに新年号が決まりました。(2019/4/1発表)

「令和(れいわ)」です。

出典は、万葉集からだそうです。上に書いた通りになりました。

以下、万葉集の文に付いては、以下を参照しています。

中西進 万葉集 全訳注原文付 講談社 昭和五十九年九月 第一刷

万葉集815番歌の直前に、「梅花歌卅二首并序(梅の花の歌32首と、その序文)の意」と題された文章で、"令"と"和"の文字は次のように現れます。

初春令月、気淑風和

読みは、「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ」です。

万葉集から新しい年号を選ぶ、というので、これは期待通りになったと考えるべきでしょうか。

令(れい)も和(わ)も音読みですから、出身は中国語です。

最初にこの記事をアップしたときから私の気持ちはさらに進んでいて、今では"和語であるべき"、と思っています。

(もっとも書いている漢字が中国から来たものですから、どうしようもないところもあるのは確かですが。)

"さわやか"、"いそしみ"、"なごやか"、"かがやき"、"あめつち(天地と書く)"、まるでピンときませんね。"天地"以外は当てる漢字も難しい。

"みずほ"は漢字で"瑞穂"ですから書き方の問題はありませんが、有名な企業と同じです。

"日向(ひゅうが)"はいいですね。でも宮崎県をひいきにしているととられそう。

また、最後の二つは、ローマ字書きした時の先頭文字が「明治・大正・昭和・平成」とダブらないこと、という原則に反するので、その意味でもダメです。

やはり難しいですね。

さらに追記 【2019/4/30】

和暦の年号について、「どうして、日本人の文献から探さないのですかね」、と以前に書いて、今回新年号が"令和"と決まり、「日本人の文献から探す」ということが実現しました。

でも"令和"がなじめないのはどうしてだろうか、と考えたとき、日本語の古い形の規則から外れているから、ということに気づきました。

今の五母音の構造ができる前の古い日本語は四母音(aiuo)で、"e"の音(おん)はありませんでした。また、濁音とラ行音は語頭に立たない(擬音語・擬態語は除く)、というルールがありました。

"令和"はこの二つの規則に反しているのです。だから、"古くからの日本語"とは異なるものなのです。

"令"の中国音である"レイ"を使うのは中国語の進出の結果です。外来語です。

"れいわ"のようにラ行の音(おん)で始まることがどれほどまれなことか、ということは、和歌の全句索引で知ることができます。

角川書店の新編国歌大観で万葉集は第二巻私撰集編に含まれています。この索引本には万葉集から夫木和歌抄(延慶3(1310)年頃)までの16の和歌集が収録されています。

1ページに約約200項目(句の数)があり1170ページですから234,000句となります。短歌以外に長歌のようなものもありますが、大部分が短歌ですので、すべて短歌とみなすと、単純計算で46,000首となります。

ラ行の音(おん)で始まる句は"らりるれろ"に対して5/8/4/1 です。しかも、一つを除いてすべてはもっとも新しい夫木和歌抄で、ただ一つの例外というのは万葉集の3853番歌です。

ラ行の音(おん)で始まる句は、この16の和歌集でたったの0.008%しかないということになります。

あるいは、万葉集は4500首余の歌を収めています。その中のたった1首だけにラ行音で始まる句があるのです。歌を単位とすると0.02%です。

3853 池上の力士舞かも白鷺の桙(ほこ)啄(く)ひ持ちて飛ぴわたるらむ

"力士の舞"という舞があったようで、力士(リキシ)という言葉が使われています。

"力士"という言葉がいつ頃から現れたかというと、精選版日本国語大辞典では天平19(747)年に"金剛力士"の略として現れたものが最古の文例です。

この頃には仏教はかなり普及しています。それでも和歌の世界ではラ行の音(おん)は語頭には使われることは大変まれであったということです。

中国語が日本に侵入したのではなく、日本人が主体的に中国語を取り入れた、ということはできますが、和暦という日本独特のものに、わざわざ中国由来の言葉を持ってくる必要はないだろう、と感じてしまうのです。

おそらく、変化の第一歩とみるべきなのでしょう。

また追記 【2019/7/13】

上に書いた"さらに追記 【2019/4/30】"では「日本語の古い形の規則から外れている」として、具体的には「古い日本語は四母音(aiuo)で、母音"e"はなかったということ、また、濁音とラ行音は語頭に立たない(擬音語・擬態語は除く)、というルールがありました」と、二つのことをあげました、

これはちょっと修正すべきと思うようになってきました。

基本的には、「(古い日本語では)ラ行音で始まる言葉はない」という部分は今でも考えが変わらないのですが、母音"e"は漢字・中国音が入ってくるよりはるか昔から使われていると思われるので、母音"e"は使ってもいいのではないかと今では思うのです。

というのは、雨(あま、あめ)、風(かざ、かぜ)、天(あま、あめ)、稲(いな、いね)、酒(さか、さけ)などの変化形の対は相当の歴史があります。また一音の"ヤ行のエ[Ye]"である"兄、江、枝"などがあります。ですから、"古い日本語にもある"としてよいと思うのです。

稲(いな、いね)、酒(さか、さけ)などは稲作が日本にもたらされてから生じた言葉だろうと思うのですが、雨、風、また[Ye]である兄、江、枝などの言葉はさらに古い縄文時代でも日常生活に必要な言葉だったのだろうと思うのです。

このあたりの議論は根拠がまるでないので想像でしかいえないのですが、私は現在はそう感じています。

漢字の導入はそれより後のことと一般的にはいわれています。ですから、これらも漢字・中国音が入ってくる前に生れた言葉だろうと想像します。

何も根拠がない事を想像して言っているので具合が悪いのですが、仕方がありません。

縄文時代の大規模な集落跡が最近、いろいろなところで発掘されて報告されています。またそのころから日本列島の広い範囲での交易があった事がわかってきました。それらを考えると、この時代には相当高度な言語が話されていたのではないかと思います。

雨に対して"あま"、"あめ"の使い分けもそうでしょうし、動詞活用でいえば四段活用の已然形、下二段活用の未然・連用・已然形に出てくる"e"の音(おん)なども現れていた様に思われます。

未然形と連用形はまだ分離していなかった可能性はありますが、未然形と已然形、つまり、まだ行われていない状態と、既に行われた状態は言葉でそれを区別できないと、あのような大規模な建築物や構造物は作れなかったのではないか、と思うのです。

つまりこういうことで、冒頭に書いたように「母音"e"は縄文時代頃には使われていたのだろう」、また「ラ行音で始まる言葉は漢字・中国音が入ってくる事で使われるようになったもので、母音"e"が発生した時代よりはだいぶ後のことだろう」、と考えるようになったのです。


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