日本語のあれこれ日記【9】
[2017/6/20]
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漫談家牧野周一さんのネタ
ずっと前にちょっと小耳に挟んだだけの言葉で、なぜか強い印象をうけて、いつまでも覚えている、という事がいくつかあります。
その一つは、漫談家牧野周一さんが話した次のような言葉です。
今の子供は勉強が楽になりました。北海道道庁長官に振り仮名をつけよ、という問題なら「ほっかいどうどうちょうちょうかん」とそのまま書けばいいのですから。昔はそうではなかった。「ほつくわいだうだうてふちようくわん」。
ああ、そうなんだ、と思いました。
調べてみました
広辞苑で確認しました。
北海道は「ほくかいだう」。道庁は「だうちゃう」。長官は「ちゃうくゎん」。
私が牧野周一さんの漫談で聞いたと思っていたのとはちょっと違いました。
具体的には次のような違いでした。
普通のサイズの文字と小さな文字(大書き・小書き)の区別は話ことばでは使い分けが難しいので、それは無視することにします。
北海道の海は「くゎい」ではなく、単純に「かい」でした。
道庁の庁は「てふ」ではなく「ちゃう」でした。
長官の長は「ちょう」ではなく「ちゃう」でした。
私の聞き間違い、あるいは記憶違いでしょうか。牧野さんの勘違いでしょうか。あるいは話が誇張されていたのでしょうか。
もしかして、仮名遣いの揺れがあらわれているのでしょうか。
牧野周一さんが実際にどのように話していたのか、今では録音など残っていないでしょうから、確認のしようがありません。
ちなみに、古語辞典(小学館・古語大辞典)を引くと、例えば、庁は「ちゃう」の見出しです。では"てふ"は、というと、牒(ある種の公文書)、蝶(ちょうちょ)、それと、『といふ』が変化した"てふ"の三つだけです。
現代仮名遣いの普及により、仮名書きはだいぶ発音通りという形に近づいてきましたね。でも例外規定がありすぎます。
現在の標準表記法の不徹底なところ―オ列の長音について
オ列の長音は、"う"を添える場合と"お"を添える場合があります。大きいは"おおきい"、東京は"とうきょう"です。これはどうやって判別するのかというと、歴史的仮名遣いて"ほ"、"を"と書いていた物は"お"を添え、"ふ"、"う"と書いていたものは"う"を添える、ということが基本です。ただし、このことは当初は隠されていて、"う"を添えるのである、としたあとで、例外規定として"お"を添える場合を列挙しています。
現在は、文部科学省のサイトの現代仮名遣いのページでは、以下のように書かれています。
「第1 語を書き表すのに,現代語の音韻に従って,次の仮名を用いる。」として、オ列の長音に対しては「オ列の仮名に「う」を添える」としています。
「第2 特定の語については,表記の慣習を尊重して,次のように書く。」とあります。その中で、「6 次のような語は,オ列の仮名に「お」を添えて書く。」としてたくさんの例が書かれています。説明として、「これらは,歴史的仮名遣いでオ列の仮名に「ほ」又は「を」が続くものであって,オ列の長音として発音されるか,オ・オ,コ・オのように発音されるかにかかわらず,オ列の仮名に「お」を添えて書くものである。」と書いてあり、旧仮名遣い派と表音主義派の対立があり、そして中途半端な妥協が行われたことを暗示しています。
福田恆存が「現代仮名遣いで書くには歴史的仮名遣いを知っていなければいけない」と攻撃したゆえんもここにあります。
現在の標準表記法の不徹底なところ―送り仮名について
これに似たことが送り仮名の規則にもあることに最近気づきました。
テレビのクイズ番組で漢字の送り仮名を答えさせる問いに対して気が付いたのです。
「(物を高いところに)上げる」は自動詞の「上がる」と区別する必要があるから「上る」ではどちらなのか判別できない、といいいますが(のぼる、という可能性も出てきます)、ある動詞を考えたとき、自動詞・他動詞を並べて共通でない部分を送り仮名にする、という規則は曖昧です。
また、「絶える」は「絶る」ではないのか、というと、「絶やす」という他動詞があるから、共通部分以外を送り仮名にすることから、送り仮名を「える」、「やす」にする、という説明がなされます。でも自動詞の「絶える」の場合、その他動詞は何なのか、と考えたときに、「絶やす」だと気がつく保証はありません。
現実問題としてどうすればいいのでしょうか。
結局は文語での表記に従う、としかいえないと感じます。
「上げる」に対応する文語は「上ぐ」ですから、「上」の振り仮名は「あ」で、「げる」が送り仮名になります。「絶える」では「絶ゆ」が文語ですから、「絶」の振り仮名は"た"で、「える」の部分が送り仮名になります。
仮名遣いを完全に表音主義にすることは可能です。「東京え行きます」、「今日わ良い天気です」などと書くのは慣れの問題で、少なくとも幼児の頃からこの表記に慣れていれば問題なく、50年程度が過ぎれば世代が変わり、違和感はなくなっているでしょう。
送り仮名はそうはいかないですね。思い切って、「漢字の振り仮名は1文字に限り、残りは送り仮名とする」、などという極端なことでもしないと解決できないように思います。でもそこまですることのメリットがあるかというと、はなはだ疑問です。
もっとも、現代仮名遣いが考えられた当初は、「明日、東京へ行かうと思ふ」と書いていたものが、「明日、東京へ行こうと思う」と書くのだ、といわれたら相当に驚いたに違いない、という気がします。「へ」と書いて「エ」と発音するのは「へ」のままで、「行かう」「思ふ」は「イコ-」「オモウ」と発音するので「いこう」「おもう」になるとか、いったいどういう規則なんだ、と思ったでしょうね。
「イコウ」という発音は「憩う」が当てはまる気がします。「行こう」は旧仮名遣いでは「行かう」で、「憩[いこ]う」は同様に「憩[いこ]ふ」ですから違うんですね。
「漢字の振り仮名がなは1文字だけで残りは送り仮名にする」とすると、「思う」は「思もう、」、「従う」は「従たがう」、「重なる」は「重さなる」。うーん、抵抗がありますね。「本当に慣れだけの問題なのでしょうか。」
時代の変化についていくということ
テレビの地デジ放送が始まって、テレビや新聞の番組表でのチャンネルの並びは、4~8チャンネルについては、「4,5,6,7,8」という順序のものと、「4,6,8,5,7」という順序のものの両方が出てきました。関東の話です。我が家の2台のテレビで番組表を表示させると、一つは「4,5,6,7,8」で、もう1台は「4,6,8,5,7」と見事に分かれています。
あとで理由が分からなくなるかもしれないので書いておきますが、現在の地デジ放送の5,7チャンネルは地デジ放送が始まる前は10,12チャンネルでした。地デジへの移行の際に、それまでの10,12チャンネルが5,7チャンネルに変わったのです。それまでのチャンネルの並びのイメージを変えないとすると「4,6,8,5,7」という並び方になります。でも、新しい世代の人にとっては、この並びは全く理解できないでしょう。
この文章を書いての雑感
「ふりがな」はこの文章を書いている途中で「振り仮名」に書き換えました。「送り仮名」という表記に会わせたのです。「ふりがな」と「送り仮名」では統一感がまるでありません。でも「仮名をふる」という時に「振る」と書くのは抵抗があります。一方、「おくりがな」というとき、少なくとも「おくり」は「送り」だろうな、という気がします。
「かな」なのか「仮名」なのか、についてもしっくりきません。「かな」といっているのにそれを漢字で表記することに違和感を感じます。ただし「仮名」と書くと、「かな」「がな」のどちらにするのかという判断を曖昧にしておけます。はっきり言って書くときには気が楽です。
旧仮名遣いと歴史的仮名遣いという言葉の違いは、この記事ではきちんと使い分けしていません。ネットでこのことについての記事を探してみると、「歴史的仮名遣と旧仮名遣を峻別(しゅんべつ)せよ」(作者は明星大学の古田島洋介氏)という記事が見つかりました。なにしろこのあたりの詳細はとても多くの事柄が関係しているので、深く追求するのは今回は止めにします。今後の課題とします。(なお、「今後の課題にさせていただきます」というような「○○させていただきます」は無礼な表現と思うので意識的に使いません(ほかのところですでに使っているかもしれませんが)。)