日本語のあれこれ日記【29】

原始日本語の手がかりを探る[20]―万葉集における"来"の読み"け"

[2017/11/26]


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カ変動詞来(ク)における"け"という音

引き続き、万葉集です。

前回の記事で"来"の文字について調べました。

その中で一つ気になることが出てきました。

"来"の文字に対する読み(訓)としての"け"です。

"来"は当然動詞"来(く)"として認識されるのが基本と思われます。

動詞"来(く)"の活用形は、「こ、き、く、くる、くれ、こ」であり、カ行の音としては"か"と"け"がありません。

"か"の読みは確かにありませんが、"け"という読みは大変多いのです。

"け"の読みはどこから出てきたのでしょうか。

そこで、動詞"来"の活用形以外の"来"の読みについて考えてみました。

調査において参照した本は前回の記事で書いたものと同じです。

動詞"来"以外の"来"

"来"の文字の使われ方を分類して集計しました。

今回、調査を見直して修正が出てきました。動詞"来(け)り"は前回は3例だったのに対して5例、助動詞"けむ"は前回は1例としたのですが、今回は確認できず、ゼロとしました。

これに基づき、前回の記事の表1を次のように修正します。前回からの修正量はわずかです。

表1

分類 出現数 割合(%)
助動詞けり 99 59.6
動詞来(け)り 5 3.0
助動詞けらし 8 4.8
動詞活用語尾+助動詞リ1 0.6
形容詞活用語尾ク3 1.8
形容詞、助動詞の活用語尾キ2 1.2
単なる音キ 3 1.8
単なる音ク 10 6.0
単なる音コ 3 1.8
去来イザ 9 5.4
比来コノコロ 11 6.6
日来コノコロ 1 0.6
往来・去来カヨフ 10 6.0
従来ムカシヨリ、ヨリ 1 0.6

"け"の読み

a.助動詞けり、b.動詞来(け)り、c.助動詞けらし、d.動詞活用語尾(け)+助動詞リの4パターンでした。

d.「動詞活用語尾(け)+助動詞リ」は1例だけです。

1207 粟嶋尓 許枳将渡等 思鞆 赤石門浪 未佐和来
     粟島に 漕ぎ渡らむと 思へども 明石の門波 いまだ騒けり

騒く(上古では"さわぐ"ではなく"さわく"という清音とされています)は四段活用なので、已然形"騒け"+継続完了の助動詞"り"ということになります。

この"騒けり"を原文では"佐和来"と表記しています。ここでの"来"は"けり"の音を受け持つとしか考えられません。"けり"の"け"は已然形"騒け"の活用語尾です。

漢字で表記するとき、"さわけり"は"さわけ"+"り"なのですが、そのような語の成り立ちは無視して"佐和来"と書いた訳です。

"けり"は"来"と書く、という認識がとても強かったのでしょう。

「d.動詞活用語尾(け)+助動詞リ」は以上の検討をもってひとまず終わりとし、残りについて考えます。

「c.助動詞けらし」ですが、"けらし"は、過去の助動詞"けり"の連体形"ける"に推定の助動詞"らし"が付いた"けるらし"が起源とされています。

ですから、"け"の音については助動詞"けり"と同類です。

また動詞"来(け)り"は成り立ちが"来"の連用形"き"に動詞"あり"が付いた"あり"の短縮形と考えられていて、この点で助動詞"けり"と同じです。

"けり"は"来(き)+あり"の短縮形とされていますから、上記のa,b,cは起源として動詞"来"を含んでいます。"け"の音は動詞"来"に起源があるわけです。

ところが動詞"来"の活用形を考えると、カ行の音としては、"き、く、こ"だけです。

"来"に対して"け"という音が多用されるということはどういうことなのでしょうか。

動詞"来"の已然形の古い形として"け"があった可能性がある、という説はすでに触れました。

古事記、日本書紀に共通の歌謡にたった1例あるだけなので、これだけではなんとも判断のしようがありません。

ここにきて、"来(き)"+"あり"が助動詞"けり"となり、この助動詞"けり"は頻繁に使われた結果、"来"と"け"の音の結びつきが出てきた、という可能性を考えることができます。

"来"を"けり"と読む例

(1)"け"の訓

2022 相見久 猒雖不足 稲目 明去来理 舟出為牟孋
     あいみらく あきだらねども いなのめの あけさりにけり ふなでせむつま

"来理"を"けり"と読むので"来"が"け"に対応します。

このように"来"が"け"に対応するような訓の例には次のようなものがあります。

1028 来流 ける

2771 (来二)来有 (きに)けり

(2)"け"で始まる2音の訓

"来"に対して"けら"、"けり"、"ける"のように2音を対応づける例は次のように多数あります。一部を以下に示します。

0181 来鴨 けるかも (0267,0316も同じ)

0269 来来 きにけり

0330 成来 なりにけり

0350 不如来 しかずけり

0573 有来 ありけり

0769 欝有来 いぶせかりけり

2934 (苦労有)来 (くるしかり)けり

2771番歌で、"来有"は"き+あり"から"けり"になった経緯を表しているものと思われます。ki-ariというところが、i-aが融合してeになる、ということからkeriとなったということです。

だから、音で"けり"という所を"来有"と表記したのでしょう。

この説明で行くと、0269番歌の"来来"は"来に来あり"ということになってしまいます。また0573歌は"有来"ですから、"有り来あり"です。

前者では"来"が、後者では"有り"がダブります。

ということは、万葉集の歌を採録している時点で、"けり"の由来は"来+あり"であるということがすでに意識されない状態になっていた、ということではないでしょうか。

まれに"来有"と表記することは、"けり"の由来が偶然に思い出されたということだと思われます。

「"けり"は"き+あり"すなわち"来有"」ということが通常は認識されないということは、次の歌からも予想されます。

1015 玉敷而 待益欲利者 多鷄蘇香仁 来有今夜四 樂所念
     玉敷きて 待たましよりは たけそかに 来(きた)る今夜し 楽しく思ほゆ

"来有"が"きたる"という読みになります。助動詞"たり"は助詞"て"に"有り"がついた"てあり"の短縮形ということを考えると、"来て+あり"で、その連体形として"きたる"が現れたということと思います。

ただし、"来有"を"きたる"と読む例は一つしか見つかっていないので、断定はできません。


万葉集における音の表記法はいろいろなパターンがあり、自由自在、融通無碍、遊び心も相当あります。

その中で、"来"を"け"という音に結びつける要因は、"来(き)+あり"が"けり"に変化した、ということしか見つかりませんでした。

結局のところ、万葉集が編纂された時代は、すでに"来(き)+あり"が"けり"に変化して定着してしまっていた、ということと思われます。

動詞"来"の活用形に"け"という音があったのかどうか、については、もしあったとしても、万葉集の時代ではすでに無くなっていて、さらに"来(き)+あり"が"けり"に変化したことにより"来"に対する"け"の音がつながりを持ったために、その痕跡は残っていない、ということが、今回の調査の結論となりました。


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