日本語のあれこれ日記【26】

原始日本語の手がかりを探る[17]―中間まとめ(その2)

[2017/10/11]


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続・中間まとめ

原始日本語の手がかりを探る[12]―中間まとめの記事で、そのときに考えていたことをまとめて書きました。

もう少し深く考えているので、その続きを書くことにします。

なお、この記事の前に、"れ"の文字の出現率について万葉集と古今集を比較する、という記事があるはずですが、その調査に時間が掛かりそうなので、後ほど追加することにし、番号だけは取っておくことにします。

ラ変動詞について

ラ行変格活用の動詞としては、まず"あり"を代表として考えてみます。

終止形が"り"という、"う"段でない音であることを除くと、ラ行四段活用と同じです。

終止形がなぜ"ある"でないのか、については、一つの理由として、形容詞"なし"との対比で"あり"を終止形とすることになった、ということを私は考えています。

"ある"と"なし"を対応づけると、"ある"が動詞、"なし"が形容詞という違いが前面に出てきます。これに対し、"あり"と"なし"を対応づけると、どちらも最後の音は"い"段であるということなどから、動詞と形容詞という食い違いの程度が目立ちにくくなります。

動詞"あり"には変わったところが有ります。

その反対の言葉は形容詞の"なし"です。動詞の反対語が形容詞なのです。

また、その否定は"あらず"と古文では表現できますが、現代語には"あらない"ということになりますが、その表現はありません。

図らずも"ありません"と書いてしまいました。"あります"の否定形は"ありません"です。

現代語で"ある"、"ない"は、動詞と形容詞が対になっていて、その関係性は変わりません。

"ある"は動詞なので丁寧表現の助動詞"ます"をつけて"あります"とすることができます。"ない"は形容詞なので丁寧表現の助動詞"ます"はつけられません。

ただし、まだ分かっていないことが多いです。

ラ行変格活用の動詞としては、"あり"の他に"居り"、"侍り"、"いまそかる"がありますが、意味としては"あり"と共通部分があります。

まだ整理ができていないのは確かなのですが、私の印象では、"あり"の活用形の種類はラ行変格活用として各活用の一つの種類というよりは、四段活用の変形したものです。

そこで、ここでは四段動詞の一つの変形として、四段のグループに含めることにします。

再度、活用の種類について

中古の古文の活用の一つ前の世代と想定する活用について、以前の記事「原始日本語の手がかりを探る[4]―動詞の活用」で、"原始ai正調"などと記述しています。

いま読み返してみると、その記事は説明が全く足りていないのですが、現在の私の考えに沿って再構成すると、以下のようになります。

以前の記事ではラ変は独立して扱っていたのですが、ここでは四段に含めています。

表1

原始活用の種類活用の型変化部分対応する中古の活用
原始ai正調ai型a/i/u(i)/u/e 四段a/i/u/u/e
ナ変a/i/u/uru/ure
ラ変a/i/i/u/e
原始ii正調ii型i/i/u/u/e 上一段i/i/iru/iru/ire
上二段i/i/u/uru/ure
原始ee正調ee型e/e/u/u/e 下一段e/e/eru/eru/ere
下二段e/e/u/uru/ure
原始oi正調oi型o/i/u/u/eカ変o/i/u/uru/ure
原始ei正調ei型e/i/u/u/eサ変e/i/u/uru/ure

すでに原始日本語の手がかりを探る[12]―中間まとめの記事で書いたように、私は"r化"という作用で活用が変化した(分化した)と予想しています。

その考え方を元に上の表1を見ると、すでに上記「原始日本語の手がかりを探る[4]―動詞の活用」の中の"疑問2"で書いたように、"ir・er"の挿入と"ur"の挿入のされ方に規則性が見られません。

この問題に対して、最近一つのアイディアが浮かびました。

起こったタイミングが別々だったのではないか。

第一次 "r化"

次のように考えれば整合性がとれます。

(1)ナ変動詞の発生…ai型動詞の一部の動詞において、連体・已然形で語幹と変化部分の間に"ur"が挿入された

(2)下二段動詞の発生…"ee"型動詞の一部の動詞において、連体・已然形で語幹と変化部分の間に"ur"が挿入された

(3)上二段動詞の発生…"ii"型動詞の一部の動詞において、連体・已然形で語幹と変化部分の間に"ur"が挿入された

(4)カ変動詞の発生…"oi"型動詞において、連体・已然形で語幹と変化部分の間に"ur"が挿入された

(5)サ変動詞の発生…"ei"型動詞において、連体・已然形で語幹と変化部分の間に"ur"が挿入された

(6)上一段動詞の発生…"ii"型動詞の一部の動詞において、終止・連体・已然形で語幹と変化部分の間に"ir"が挿入された

(7)下一段動詞の発生…"ee"型動詞の一部の動詞において、終止・連体・已然形で語幹と変化部分の間に"er"が挿入された

つまりこういうことです。

◎ 第一次 "r化" により、一部の動詞において、連体・已然形で語幹と変化部分の間に"ur"が挿入された

◎ 第二次 "r化" により、一部の動詞において、終止・連体・已然形で語幹と変化部分の間に"ir"または"er"が挿入された
("終止"の語が漏れていたので追加 2017/10/16)

これに基づき、先ほどの表1は、第1次 "r化" に対して、次のように書き換えられます。

表2

原始活用の型 中古活用の種類 変化部分
ai型 四段・ラ変 a/i/u(i)/u/e
ナ変 a/i/u/ur-u/ur-e
ii型 i/i/u/u/e
下二段 i/i/u/ur-u/ur-e
ee型 e/e/u/u/e
上二段 e/e/u/ur-u/ur-e
oi型 カ変 o/i/u/ur-u/ur-e
ei型 サ変 e/i/u/ur-u/ur-e

第1次 "r化" は"ur"の挿入です。

表2では、変化が起こった所を水色で塗り、さらに挿入された部分が目立つように"ur-"のように表示してあります。それは後述の第2次 "r化" 、第3次 "r化" でも同様に表現します(色は変えます)。

対象となる動詞は、"ai型"では"往ぬ"、"死ぬ"の二つ、"ii型"、"ee型"からはある数の動詞が、"oi型"はもともと"来"の一つ、"ei型"は"す"、"おはす"の二つともともと少数なのでその動詞、というように(結果的に、ということですが)選択されました。

"ii型"、"ee型"ではどの動詞が対象になるか、その選択基準はいまのところ皆目分かりません。

"ai型"ではなぜこの二つの動詞だけが対象になったのかについては、原始日本語の手がかりを探る[9]で、「唯一、"往ぬ"、"死ぬ"の2語を犠牲に捧げて「"r"音の侵入」を許し、その代わりに、残りのすべての原始ai正調動詞は「"r"音の侵入」を受けないですんだ」などと書きましたが、全くの想像(または妄想)でしかありません。

"oi型"(カ変)、"ei型"(サ変)はもともと動詞が少数でしたが、これにしても、「動詞が少数だったので "r化" の対象にならなかった」ということもあり得ることです。

従って、あくまでも、結果を見るとそうなっている、ということしか今の段階ではいえません。

第2次 "r化"

中古の時代の活用には、さらにもう一回 "r化" があった、と想定します。

この第2次 "r化" を書き加えると次のようになります。

表3

原始活用の型 第1次 "r化" 第2次 "r化" 中古での活用
ai型 a/i/u(i)/u/e a/i/u(i)/u/e四段・ラ変
a/i/u/ur-u/ur-e a/i/u/ur-u/ur-eナ変
ii型 i/i/u/u/e i/i/ir-u/ir-u/ir-e上一段
i/i/u/ur-u/ur-e i/i/u/ur-u/ur-e上二段
ee型 e/e/u/u/e e/e/er-u/er-u/er-e下一段
e/e/u/ur-u/u-re e/e/u/ur-u/ur-e下二段
oi型 o/i/u/ur-u/ur-e o/i/u/ur-u/ur-eカ変
ei型 e/i/u/ur-u/ur-e e/i/u/ur-u/ur-eサ変

第2次 "r化" は、第1次 "r化" の対象外だった所に作用しました。

ただし"ai型"については対象から外れています。これは、"ai型"がそもそもの基本の形で"強固"だった、というように"とりあえず"想定しておくことにします。

そうすると、残ったのは"ee型"と"ii型"のなかで第1次 "r化" で対象外になった動詞です。

第2次 "r化" では、挿入される"r"音は"ur"ではありませんでした。

"ee型"、"ii型"というように未然・連用で音が連続しているために、それに引きづられるかのように、"ee型"では"er"、"ii型"では"ir"が挿入された、という見方ができます。そして、第1次 "r化" では "r化" の対象ではなかった終止形までも対象となることにより、"i/i/iru/iru/ire"、"e/e/eru/eru/ere"と、変化部分の第1音が統一されることになりました。活用が"一段化"したということです。

このことは大きな影響を及ぼしました。

たとえば、"ee型"では、"e/e/u/uru/ure"という二段に変化する活用より、"e/e/eru/eru/ere"の一段だけで変化する活用の方が「変化が整っているように感じられます」。これは"ii型"における"i/i/u/uru/ure"と"i/i/iru/iru/ire"の比較でも同様です。

さらに、他の活用との差別という点でも、"ai型"が "r化" した"ナ変"型、そして"ee型"、"ii型"が "r化" した上二・下二型、さらに"oi型"・"ei型"では終止・連体・已然の活用部分が同じ"uru/ure"ですが、これと同じであることは不利に見えます。

上一・下一型の登場で終止形も変化させる、というアイディアが目の前にあることから、二段型が一段型に移行する、という変化が生じた、と考えることにします。

このことから考えると、第2次 "r化" では終止形まで "r化" が及んだ、という理由は、一段化するため、ということで説明することができます。

第3次 "r化"

第3次 "r化" では全体的に見直しが行われました。

表4

原始活用の種類 第1次 "r化" 第2次 "r化" 中古での活用 第3次 "r化" 室町以降での活用
ai型 a/i/u(i)/u/e a/i/u(i)/u/e四段・ラ変 a/i/u/u/e四段
(中古の上一段"蹴る"を含む)
a/i/u/ur-u/ur-e a/i/u/ur-u/ur-eナ変
ii型 i/i/u/u/e i/i/ir-u/ir-u/ir-e上一段 i/i/ir-u/ir-u/ir-e上一段
i/i/u/ur-u/ur-e i/i/u/ur-u/ur-e上二段
ee型 e/e/u/u/e e/e/er-u/er-u/er-e下一段 e/e/er-u/er-u/er-e下一段
e/e/u/ur-u/u-re e/e/u/ur-u/ur-e下二段
oi型 o/i/u/ur-u/ur-e o/i/u/ur-u/ur-eカ変 o/i/ur-u/ur-u/ur-eカ変
ei型 e/i/u/ur-u/ur-e e/i/u/ur-u/ur-eサ変 e/i/ur-u/ur-u/ur-eサ変

ナ変動詞は、 "r化" はキャンセルされ、元の"ai"型(四段型)に戻りました。"往ぬ"が使われなくなり、"死ぬ"の一つだけが残ったので、ナ変として独立させておく意味が薄らいできていますが、もともと、なぜ二つの動詞だけがナ変型に分離していったのか分からず、"元のさやに収まった"という感じがします。

またラ変動詞は、終止形が"ある"になったためこれも四段型に合流しました。

カ変、サ変については、上記の変化の結果、終止・連体・已然が"u/uru/ure"で、このうち、終止形が"u"から"uru"に変化しました。 "r化" が終止形まで進んだ、と考えることが可能ですが、終止・連体が同じになる(具体的には連体形が終止形としても使われる)という変化との関係は、私にはまだ分かっていません。

中古の"蹴る"は、第3次 "r化" ではカ行下一段からラ行四段に変化しています。これについては、次のトピックで触れます。

第3次 "r化" とは、おおむね、現代語で広く進んだ音便などの音の変化を除いたもの、簡単に言うと旧仮名遣い、ということができます。

四段動詞のたとえば"書く"について言うと、助動詞"む"がついて"書かむ"が、"む"の"mu"の内の"m"が弱くなって"u"になり、"書かう"に変化し、さらに"かう"が"おの長音"に変化することによって"書こう"が発生しました。このため、活用は五段にわたることになり五段活用とされますが、"書かう"という段階までを指すものを想定しています。

第3次 "r化" の結果は「原始活用に戻った」という感じがあります。ここで比較表を作っておきます。

表5

原始活用の種類 第3次 "r化" 室町以降での活用
ai型 a/i/u/u/e a/i/u/u/e 四段
(中古の上一段"蹴る"を含む)
ii型 i/i/u/u/e i/i/ir-u/ir-u/ir-e 上一段
ee型 e/e/u/u/e e/e/er-u/er-u/er-e 下一段
oi型 o/i/u/u/e o/i/ur-u/ur-u/ur-e カ変
ei型 e/i/u/u/e e/i/ur-u/ur-u/ur-e サ変

変化の様子はいろいろと変わりましたが、活用の種類はai型、ii型、ee型、oi型、ei型の5種類と変わりません。変化したのは、ai型を除く4つの型に対して、変化部分の前に、ir、er、urが挿入された、というもので、ii型、ee型にはそれぞれir、erが、oi型、ei型にはいずれもurが挿入されています。

実に規則的に変化したものだと感心します。

"蹴る"

上記の説明で除外されるのが"蹴る"で、第3次 "r化" ではカ行下一段からラ行四段に変化しています。

これは "r化" が未然・連用にまで及んだ、つまり "r化" がさらに進んだ、ととらえることも一つの見方です。

"蹴る"は古くは"くゑ"、"くゑる"の二つの例があるとされています(各種古語辞典類に記載があります)。

従って、活用の種類としては、可能性があるのはカ行下一段、あるいはカ行下二段、さらに"kw"の音とすると"kw"行の下一段か下二段になります。

古語大辞典では"くう"の項の語誌で解説があり、下二段説を採っています。

中古の時代には下一段活用になっていますから、第2次 "r化" で下二段から下一段へ、そして第3次 "r化" で下一段から四段へと変化していった可能性が考えられます。

これは第3次 "r化" で下二段が下一段に変化した先駆けだったのではないか、という想像につながります。ということは現在の下一段は将来はラ行四段に移行する、ということになります。

"見る"は"見らない、見ります、見る、見る時、見れば"という変化です。

今のところ、その兆候はないですね。

根拠が十分でない説が承認されるためには

このような「根拠が十分でない説(まるでない、と言う方が近い」が正しいかどうかはどのように判断されるのでしょうか。

基本的には、その説を支持する根拠がたくさんあり、否定する根拠がない、あるいはとても少ない、ということでしょう。

ひとつ決定的なことがあります。その説が今まで知られていないことを予言し、その後でその予言が正しいことが証明された、という場合です。

このような場合は、その説は「まず間違いないだろう」と受け入れられます。

その点で、この"見る"というマ行上一段動詞の活用がラ行四段(五段ということもできますが)に変化することがあれば、「もしかして正しいかも」という程度には考えられて不思議ではないと思います。

ラ抜き言葉と可能動詞

"見られる"、ではなく"見れる"、"食べられる"ではなく"食べれる"、というようなラ抜き言葉が増えてきた、と指摘されています。

言葉の乱れなのか、結局は認められて日本語の一つの形態として受け入れられるのか、まだ分かりません。

ラ抜き言葉の擁護論としては、"見られる"、"食べられる"では、可能・自発・受け身・尊敬の区別が付きにくいので、ラ抜きは可能の意味で独立させたもので意義がある、というようなことが言われています。

また、五(四)段動詞は可能動詞を作ることができる("書く"に対する"書ける"など)ので、それを他の活用の動詞に横展開したもので、不自然ではない、という考え方もあります。

"書く"は"kak-a/i/u/u/e"で、"書ける"は"kak-e/e/eru/eru/ere"ですから、。このように "r化" が働かなかった五(四)段動詞で、ある意味の部分(上記では"可能"という意味)が取り出されて部分的に "r化" が成された、と見ることもできます。

ラ抜き言葉ではどうでしょうか。

"見られる"は"m-ir-ar-e/e/eru/eru/ere"、"見れる"は"m-ir-e/e/eru/eru/ere"です。"m-ir"という表記にしたのは、見るが"m-i/i/iru/iru/ire"であることに合わせたものです。

助動詞"られる"はこのように見ると、"irar"という部分を持っています。二つの"r"は一つにしてもいいのではないか、として、"m-i"の形は強固ですから"ar"を省略したように見えます。

このように、日本語の活用では、"れる"とか"られる"などを付ける場合、"re"、"rare"ではなく、"ir"、"ar"、"er"のように"母音+子音"のペアで付いたり外れたりする、と見る方がわかりやすいことが多いのです。

不思議だと思います。


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