気まぐれ日記 9


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[2012/12/3] 満月の夜に枕草子の一節を思い出す その2


ひとつ前の記事「月のいとあかきに」の段についての続きです。


「うつくしきもの 枕草子」という題の文章が、ジャパン・ナリッジにありました。

http://club.japanknowledge.com/jk_blog/utsukushikimono/026.html

著者は滝川妙という方です。

その中で、この段に触れている箇所があります。

月明の夜に川を渡る牛車の輪に、“水晶(すいそう)などの割れたるやうに”砕け散る水しぶきをみつめる目(二百十六段「月のいと明かきに」)。

「牛車の輪に・・・・砕け散る水しぶきをみつめる」

とあります。

これによると、

「『牛車の車輪』から水が滴(したた)り落ちるのを見る」ということになります。


私は、牛車を引く牛の足が水面から出るときと入るときに水しぶきがあがるのを見た、と理解していました。


さて、清少納言は、どこの水しぶきを見ていたのでしょうか。


「牛車の車輪」。

今では観光用として水車が回っているのを、ときおり見かけますが、
確かに、水車の周りに水しぶきがかかるのは、あり得ます。

牛車の車輪ではどうでしょうか。

牛車の図を見ると、車輪はとても大きいです。

そして、乗車する人は、おおむね、車輪の真上付近に座るようです。

牛車の側面には、物見と称する小窓のようなものがありますので、それを開けると外の気色が見えるのでしょうが、
車輪はその物見の真下にあります。

物見は頭が出るほど大きくはないように見えます。

そうすると、物見は、遠くの景色をながめるには差し支えありませんが、真下の車輪を見るのは難しそうです。


では、二台の牛車が並んで川を渡る、というのはどうでしょうか。

これなら、隣を進む牛車の車輪を眺めるのに、物見はちょうどいい具合です。

しかし、川を牛車でわたるとき、横に並んで進むでしょうか。

ふつう、川床は見づらいし、とくに夜は見づらいでしょう。

そういう中で、安全に川を渡ろうとするとき(中宮に直接仕えるような女房を載せているのですから安全第一でしょう)、前の牛車の後を追うように、一列になって進むのではないでしょうか。

大規模な戦で、多数の武士が一気に川を渡る、というのなら、横に広がって一気に進む、ということはあるでしょう。

清少納言たちが乗った牛車の一隊が、それほど多くの台数になるとは思えません。


また、「牛歩」という言葉が、遅い、という意味をもつように、牛の歩みはかなりゆったりしたものです。

そして、車輪の径も大きい。

ということは、車輪の回転する速度もまた、とても遅いことになります。

試しに計算してみましょう。

いろいろなところで、牛車と随身など側に控える人たちが描かれたものを見ることができます。(*1)

ほとんどの例で、車輪の直径は随身たちの胸のあたりから頭くらいの高さになっています。

当時の人々の身長は低いとされていますので、身長を150cmとすると、車輪の直径は、100~150cmと予想されます。

従って、円周は3m~4.5mということになります。

牛が歩く速度は、私の想像するところでは、1秒間に1mにもならないのではないでしょうか。

川を渡っている時であれば、一段と遅いでしょう。

とすると、1秒間に回転する車輪は、内輪に見積もっても角度にして120度にもならず、川床に当たっているところが一番高い位置まで回るのに少なくても1.5秒かかります。

そのようなゆっくりとした回転では、車輪からこぼれおちる水というのは、水面近くの低いところでしか見られないと思われます。

そうすると、車輪から水滴がこぼれることを目にすることは考えにくいのではないでしょうか。

西部劇の映画に出てくるように、幌馬車が勢いよく川を渡っていく、
というような場面では、車輪からはじける水しぶき、というのはよく分るのですが、
牛車ではだいぶ様子が違うように感じます。

牛車は、一列に進みそう、また、車輪の回転は遅く、車輪から水滴がこぼれることを目にすることも少ないのではないか。


以上の点から、車輪から落ちる水しぶきが水晶の様に見えた、という可能性は低いように思えます。


では、牛車の前でそれを引く牛、というのは、どうでしょうか。

牛車では、後ろから乗り、前から降りるというのが普通とされています。(*2)

つまり、乗降のための出入り口が前後にあったようです。

簾が掛かっているのでしょう。

賀茂祭で、帥宮と和泉式部がとても目に付く乗り方をしたというエピソードが大鏡にあります。
牛車の前方の簾を縦にふたつに割って、帥宮が乗った方の簾をを高く上げ、式部の方は下ろして云々、といいます。

清少納言が、月に照らされた辺りの様子を見ようとして、前の簾を上げれば、牛の姿が見えます。

牛の尻が見えるわけですね。

最初からすだれを上げさせて、月に照らされた辺りの様子を見て、楽しみながら進んだのかもしれません。


後ろの簾を上げて、後続の牛車を引く牛を見た、という場合も考えられます。

この場合、牛の頭の方からみる、ということになります。

やはり、牛の足元はよく見えそうです。


ということで、私には、牛車の車輪からこぼれ落ちる水が水晶の様に見えたのではなく、

前方で歩んでいる、または後方から歩んでくる牛の足元の水が散った様子が水晶の様に見えた、ということではないかと思うのですが。


はたして真実はどうでしょうか。


【追記】 2014/8/3

「枕草子解環」をチェックしました。第225段の[論説]ではこうなっています。

「・・・・車を挽いて川瀬を渡る牛の足もとに飛び散る水しぶきがおりからの月光に璀璨(さいさん)と輝く一瞬をとらえた文章・・・・」

枕草子解環 四 萩谷朴著 同朋舎 1981.10発行

「牛の足もとに飛び散る水しぶき」ですから、すでに書いたように「牛の足元の水が散った様子」ということではないでしょうか。

なお、「璀璨(さいさん)」とは、「玉の光がさえるさま、またきらきらと光って玉がたれさがるさま」(漢字源 改訂第四版 学研)ということのようです。


(*1) たとえば、新版 新訂総合国語便覧 稲賀敬二・竹盛天雄・森野繁夫監修 第一学習社

(*2) たとえば、池田亀監著 平安朝の生活と文学 (ちくま学芸文庫) 第十五章 女性美としての調度・車輿 「乗車の作法」


【追記】2014/5/31 車輪の回転速度の計算が間違っていましたので修正しました(修正前では直径の値を半径として計算していました)。


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