気まぐれ日記 36 小野小町の夢の歌


[2017/7/7]

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古今集での小野小町の夢の歌

古今集に収録された夢が歌い込まれた歌としては、次の歌はその代表ではないでしょうか。

852 思ひつつ 寝(ぬ)ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを

(古今集の歌の表記はこの記事ではすべて「高田佑彦訳注 新版古今和歌集 角川ソフィア文庫」による。ただし短歌の句間には空白を追加した)

この本では、おもてカバーのデザインとして十二単の女性が描かれ、その脇にこの歌が変体仮名で書かれています。いわゆる連綿調で私にはその文字は読めませんが、とても印象的です。


ですが、この歌の解釈が今ひとつすっきりしません。


有名な歌なのであちこちにその訳や解説を見つけることができます。

おおむねは、「あの人のことを思いながら寝たから夢の中にあの人が出てきたのでしょうか、夢だと知っていたなら目をさまさなかったのに」というところです。

上の3句は問題ないんです。

私があの人を恋しく思いながら寝たので、あの人は夢の中に出てきたのでしょうか。

通常は「相手が自分のことを思っていると、自分がその人を夢見る」という、昔はこのように考えられていました、と説明されることの裏返しで、「あの人が私のことを思っているのではない、私があの人を思っているだけ」、という一方通行の恋であることが"思い"の悲しさを表している、などと言われます。

下の二句

「夢と知りせば さめざらましを」

この部分がすっきりしないのです。

第四句

"せ"は助動詞"き"の已然形とされます。

さらに「せぱ…まし」という構造で"反実仮想"を表す、と言われます。

辞書に当たると「現実に反することを仮定する」という様なことをどの辞書でも書いています。

おもしろいことに、この"せ"について、助動詞"き"の未然形としながらも、これとは別に動詞"す"の未然形という説もある、と必ずと言っていいほど書かれています。たとえば、「久保田淳・室伏信助編 角川全訳古語辞典」など。この「動詞"す"の未然形」とする説は、"せば"の項か助動詞"き"の項にかかれ、動詞"す"の項にはありません(私が見た範囲では)。

「現実に反することを仮定する」のですから、歌の言葉を追っていけば、現実は「夢だとは知らない(知らなかった)」ということなのでしょう。

それではいったい、いつの時点での気持ちを歌っているのでしょうか。

歌が表現している状況を考えれば、「あの人のことを思いながら寝たから夢の中に出てきたのでしょうか」と思ったのですから、目を覚ました直後のことでしょう。

「恋しい人があらわれたのは、ああ、夢だったんだ」と思った時です。


現実とは、歌の言葉から見ると、「夢だとは知らない」状況であり、歌われている場面を考えると「夢だったんだと思っている」状況なのです

このあたりがしっくりこないのです。

第五句

「さめざらましを」ですが、"さめ"が問題です。

"覚む"は自動詞です。他動詞は"覚ます"ですからこれではありません。

ですから、「目が覚めた」で、それに否定の助動詞"ず"の未然形"ざら"が続きます。

「覚めないでほしかった」、「覚めなければよかった」ということではないでしょうか。

解説書、辞書の訳を見てみます。

角川ソフィア文庫 新版古今和歌集…夢だと知っていれば、目をさまさずにいただろうに

角川全訳古語辞典…もし夢と知っていたならば、そのまま目覚めないでいたものを

三省堂 全訳読解古語辞典…もし夢とわかっていたなら、目が覚めないままでいたのになあ

笠間文庫 古今和歌集…夢だと知っていたら、いつまでも覚めないでいたものを

第四句の部分についてはほとんど同じです。

第五句の部分は、私の考えからすれば、「目をさまさずにいた」は"さます"といっているのでダメです。「覚めないでいたものを」も自分の意思で"覚めないでいる"というのですからダメです。

上に引用した訳では「夢から(あるいは眠りから)覚める」ことを自分の意思でコントロールしているかのように感じられるのです。

「そろそろ目を覚まそうか」と考える自分がいるかのようです。


本当のところは「目が覚めなければよかったのに」ということではないでしょうか。

再び"夢"について

「夢だと知っていれば」ですが、「夢であることを知る」のは現実でしかあり得ません。夢の中ではあくまでもすべてが現実です。

一つ前の「胡蝶の夢」の記事がそれそのものです。

第五句の解釈、あるいは訳文が上に引用したような表現にどうしてなるのかというと、第四句のためでしょう。

「夢だと分かる」のは夢から覚めた後です。夢の中ではすべてが現実ですから。

「夢だと知っていれば」といいますが、知っていてもどうにもならないのです。

「目覚めないでいる」ということは「ずっと夢を見続けている」ことです。ですからそこには「これは夢だ」と判断することはありません。

そこで「その部分が反実仮想なのだ」とすると、「夢の中で、いまは夢見ていると"もしも"わかったなら」と理解するにしても、「目覚めないでいたものを」とすると、「目覚めないでおこう」と言うようなことになってしまいます。

「目を覚まそうか、このまま夢を見続けていようか」ということを選択することはあり得ないのではないでしょうか。

「目をさまさずにいた」、「目覚めないでいたものを」、「いつまでも覚めないでいたものを」などと、いかにも当人の意思でどうにかできるようなことではないはずです。

ここがどうしても違和感を感じざるを得ないんです。


「夢の中で、いまは夢見ていると"もしも"わかったなら」と理解することを前提にして、「目が覚めなければよかったのに」とすると、「夢であの人と会っている、その時間は長いほどいい」というのはどうでしょうか。

「あの人とは夢でしか会うことができない」、「あの人が私を思ってくれて夢で会う」ということは期待できないから、「私があの人を恋しく思いながら寝て、それで夢の中で会えたなら、それがいつまでも続いてほしい」ということなら理解できます。

でもそうなると、上に上げた解説書や辞書の訳はどれも違っています。

「せば…まし」の構文

どの辞書でも、「せば…まし」の構文についてはどこかで解説を載せているようで、例文も挙げられています。その代表例は以下です。

古今集53 世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし 在原業平

古今集712 いつはりの なき世なりせば いかばかり 人の言の葉 うれしからまし よみ人しらず

わかりやすくて、何も引っかかるところがありません。

古今集で「せば…まし」の構文を検索すると、今までに挙げたほかに以下の10首が見つかりました。

古今集118 吹く風と 谷の水とし なかりせば 深山がくれの 花を見ましや 紀貫之

古今集302 もみぢ葉の 流れざりせば 竜田川 水の秋をば たれか知らまし 坂上是則

古今集336 梅の香の 降りおける雪に まがひせば 誰かことごと わきて折らまし 紀貫之

古今集465 春霞 中し通ひ路 なかりせば 秋来る雁は 帰らざらまし 滋春

古今集531 早き瀬に みるめ生ひせば わが袖の 涙の川に 植ゑましものを よみ人しらず

古今集576 いつはりの 涙なりせば 唐衣 しのびに袖は しぼらざらまし 藤原ただふさ

古今集765 忘れ草 種とらましを 逢ふことの いとかくかたき ものと知りせば よみ人しらず

古今集791 冬枯れの 野辺とわが身を 思ひせば 燃えても春を 待たましものを

古今集895 老いらくの 来むと知りせば 門さして なしとこたへて あはざらましを

古今集1003 呉竹の 世々の古言 なかりせば いかほの沼の いかにして 思ふ心を のばへまし(長歌であり、以下略す)

こうしてみると、「せば…まし」の構文でも簡単に反実仮想と一言で括るのはできませんね。

118番、302番、465番の歌はいかにも反実仮想という印象ですが、そのほかはそれほどでもない、と感じます。

336番歌は、"せば"が現実と反する仮定である、といっても、歌全体の調子が現実離れをしていて、正岡子規が「歌よみに与ふる書」において「1文半文の値打ちもない」と攻撃した躬恒の「心あてに」の歌に通じるところがあります。

古今集277 心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花 凡河内躬恒

正岡子規の同書には、「躬恒のは瑣細(ささい)なことをやたらに仰山(ぎょうさん)に述べたのみなれば」とあるとおり、誇張表現の面白さを無視するなら、そのような見方になるでしょう。

出典は青空文庫の歌よみに与ふる書

私などは、"些細なこと"を、"誇張して表現する"ことが文学の本質の一つだと考えるので、正岡子規のこの説には、そう思う人もいるだろうね、と通り過ぎるだけです。

また、765番歌は、「しておけば良かった」という表現がぴったり来る物で、高田・古今和歌集でも訳文では「忘れ草の種を採っておけばよかった」としています。

791番や895番歌も事実・現実に反する仮定をする、というものではありません。しかし1003番歌は長歌ですが、「昔から伝えられてきた古い歌がなかったとしたら」と言うわけで、是は典型的な反実仮想の表現です。

最後に

このように、「せば…まし」の構文だからといって、反実仮想に結びつける必要はなく、一つ一つ内容を吟味することが重要だ、と言うことでしょう。

小野小町のこの歌で「夢と知りせば」は、"事実・現実に反する仮定"というよりは、「今では夢だったと分かってしまった、夢であるならできるだけ長い間覚めないでいてほしかった」という、反実仮想から離れた解釈がしっくりきます。それなら"せ"は何なのか、という疑問は残ります。

参照した資料

高田佑彦訳注 新版古今和歌集 現代語訳付き 角川ソフィア文庫

久保田淳・室伏信助編 角川全訳古語辞典 角川書店 平成14年10月

三省堂 全訳読解古語辞典 三省堂 2011年2月

三省堂 全訳読解古語辞典 三省堂 2011年2月

原文&現代語訳シリーズ 古今和歌集 片桐洋一訳注 笠間書院 2009年4月 



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