気まぐれ日記 31 百人一首のマックミラン訳 その4


[2015/12/9]

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百人一首の81番歌の別の翻訳

我が家に「リポート笠間」という笠間書院のPR誌が届きます。無料で配布してもらっていますが内容はとても充実しています。ですから、感謝の気持ちで年に1冊くらいはこの出版社の本を購入するように心がけています。

2015年11月号(*1)が届けられたので中を眺めてみると、大変興味深い記事がありました。

「4 ◎これが面白い!古典の訳さまざま」の中の「『齋藤和英大辞典』▸福田武史」という記事で、その辞書の「ほととぎす」という項目にあげられた用例に百人一首の81番歌の英訳がある、と書かれているのです。

「齋藤和英大辞典」の用例(「リポート笠間」の記事に基づく)

The cuckoo sings his thrilling tune ―
My eye doth sweep the scene,
And only see the waning moon
Hang lonesome and serene.

同記事では、「百人一首を知らなければ、これが和歌(『ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる』藤原実定」)の翻訳とは誰も気づかないであろう」と書かれています。

マックミラン訳との比較

マックミラン訳(*2)と「齋藤和英大辞典」の用例とを比べてみます。

81 ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる


【マックミラン訳】
I looked out to where
the little cuckoo called,
but all that's left
is a pale moon
in the dawn sky.

【齋藤和英大辞典の用例】
The cuckoo sings his thrilling tune ―
My eye doth sweep the scene,
And only see the waning moon
Hang lonesome and serene.

上記の記事では、「一見して明らかなように、齋藤訳は厳密な逐語訳ではない。しかし、これほど的確に原作の雰囲気を読者に伝える翻訳はほかにないのではないか」と高く評価しています。

まず気が付く事は、マックミラン訳がとても平明な言葉であるのに対し、齋藤訳では古典的で格調高い、という印象です。古めかしい、とも言えます。詩の翻訳としては齋藤訳のあり方はある意味では当然かもしれません。"doth"という単語を用いているあたりはその印象を強くします。

齋藤訳で印象的なのは上の句に相当する部分です。先ずほととぎすが鳴いたことを述べ、それを聞いた作者は視線を鳴き声の方向にめぐらした、という動作の流れが明確に表現されています。この部分は、たとえば、ある百人一首の解説書(*3)では、「ほととぎすが鳴いた、と思ってその方を眺めると」という現代語訳があり、「鳴いたのでそちらに目を向けた」という時間の流れと捉えています。齋藤訳では"sweep"という動詞が視線の移動を明確に表現しています。これにたいしてマックミラン訳では、ほととぎす("little cuckoo"ですが、なぜ"little"が付いたのかは分かりません)が声を出した所を眺めた、というもので、時間の経過、あるいは連続的な動作の表現がありません。この点で私は齋藤訳の肩を持ちます。

下の句の部分は、私はマックミラン訳のほうがすっと入ってきます。まず"pale moon"という表現が"有明の月"にぴったりだと思うのです。まだ空が真っ暗な時には月は煌々と輝いていますが、次第に空が明るくなると、月の背景の空の明るさで月の輝きが減少します。月自身の明るさは変わりがないのですが、背景との明暗の差が小さくなるために月の明るさが目立たなくなるわけです。これを"pale"と言っている。輝きが薄れているのです。"色あせる"という感じもするので、"faded"というのもよさそうです。それから、"残れる"という言葉に対して"left"を使い、"有明"に対しては"dawn"を使ってその時間帯を明示します。これもいい。空が明るくなって、それまで輝いていた月は何か時間の変化に取り残されて輝きを失っているというような姿か表現されています。

齋藤訳では"有明"という時間帯は"waning"という言葉で示されます。"waning"は満月から新月に至る間の、月がだんだん細くなっていく期間を全て含んでいるのではないでしょうか。一方、"有明"は"満月を過ぎてから"、とはいっても、典型的には陰暦の二十日以降を指すものとされます。このことは、陰暦十七日が立待ちの月、十八日が居待ちの月、十八日を寝待ちの月などということからも満月直後の月は"有明の月"ではないと思うのです。

もう一つ気になるのは、齋藤訳で月の様子を"Hang lonesome and serene"といっていることです。"lonesome"は"寂しい"とか"もの悲しい"ということでしょう。"serene"は"澄みわたった"とか"穏やかな"というニュアンスでしょうか。このような感情表現を出すべきかどうかについては判断が難しいところです。私の感じるところはこの歌は叙景にとどめるのがいいのではないか、というものです。

ということで、上の句は齋藤訳を、下の句はマックミラン訳をとりたいところです。では、両者を合せればいいかと言うと、それは無理そうです。最初に書いたように、マックミラン訳の現代的な平明さと齋藤訳の古典的な格調高い表現は融合しません。

参照した資料

(*1) 福田武史 『齋藤和英大辞典』(4 これが面白い!古典の訳さまざま) リポート笠間 No.59 笠間書院 2015.11

(*2) 英詩訳・百人一首 香り立つやまとごころ マックミラン・ピーター著 佐々田雅子訳 集英社新書 集英社 2009年3月

(*3) 新版 百人一首 島津忠夫=訳注 角川ソフィア文庫 角川グループパブリッシング 2008年7月



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