[2015/4/7]
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八代集の序文はどうなっているか
前書き・後書きの部屋で、新古今集と古今集の序について書きました。
それでは、他の勅撰和歌集はどうなのだろうか、とふと思い立ったのです。
二十一代集となると大変です。序文を読もうとすると、おそらく角川の新編国歌大観になるでしょう。
その場合、問題は私の力では理解するのが難しすぎる、ということです。新編国歌大観では注も現代語訳もありません。さらに、あの細かな文字を読むのは、視力の衰えた今では無理に近い。もっとも序文が全部にあるとは限らないのでしょうが。
さらに、続後拾遺和歌集とか新後拾遺和歌集とか、名前にも抵抗があります。拾遺というのだから、"前回拾い残した"歌を集めた、というものに対して、"その後"集め(後拾遺和歌集)だけでも大変なのに、"そのあとさらに続けて"集めなおした(続後拾遺和歌集)とか、"さらにまた新たに"集めなおした(新後拾遺和歌集)とかなんて、なにそれ、と思ってしまいます。
ということで、八代集について調べました。
基本的には、「合本 八代集」に当たりましが、新日本古典文学大系も参照しました。
まず、どれに序文があるのかということですが、結果は、古今集、後拾遺集、千載集、新古今集の四つでした。
これはなかなかおもしろいです。
初めての勅撰集である古今集、「『古今』『後撰』『拾遺』の三代集によって形作られてきた王朝和歌の展開において、一つの大きな屈折点となった(*1)」といわれる後拾遺集、前の二つ(金葉・詞歌)が10巻本と小規模だったものに対して、本来の20巻に戻して意気込みを示す千載集、2000首を集めて「『万葉集』『古今集』とともに聳立する古典和歌の巨峰」(*2)とされる新古今集と、それぞれ力の入ったものだけに序が添えられているわけです。
序がない後撰集、拾遺集、金葉集、詞花集とは格が違う、とみてよさそうです。
(*1) 岩波書店 新日本文学大系 後拾遺和歌集(久保田淳・平田喜信校注訳注)の解説による。
(*2) 角川学芸出版 角川ソフィア文庫 新古今和歌集 下(久保田淳訳注)の解説による。
序文の長さはどうなっているか
まず長さを見てみます。幸いにも「合本 八代集」では、改行が「千載集」の1か所以外にはありません。これは珍しい。編集の時に段落に分ける、ということをせずに、底本の形態がそのまま残っています。原型により近い、と考えてよいでしょう。
新日本古典文学大系の「後拾遺和歌集」、「千載和歌集」の序文では、凡例で断っているように句読点が追加され、また凡例にはうたっていませんが改行が何個所もあります。手もとの角川ソフィア文庫の「古今和歌集(高田佑彦訳注)」「新古今和歌集」でも凡例で断っているように句読点が追加され、段落が分けられています。
「合本 八代集」に収録された序文には読点がありますが、底本(正保4年(1648年))にもともとあったのかどうかは分かりません。凡例に「適宜に濁点及び読点を打ち」とあるので、編集の際に加えられた可能性があります。ただし、底本に読点が全くなく、編集の時に読点を加えた、という可能性を考えると、どうせなら句点も加えたのではないか、とも感じられます。底本にすでに多数の読点があって、編集時に一部において読点を加えた、というように考えた方がスムーズでしょう。
序文の長さは文字数で数えることにします。読点については、読点がなくても、読むときにはある長さで区切りとなり、文の切れ目でも区切りが入るのが自然でしょうから、読点付きのままで文字数を数えることにします。
ひとつ問題があります。「合本 八代集」の古今集の序文では、文字サイズが一回り小さくなっているところがあるのです。角川ソフィア文庫の「古今和歌集(高田佑彦訳注)」の脚注によれば、「本来の仮名序とは別に後から書き加えられたもので、古注と呼ばれる」ということです。内容はおおむね「分かりにくい言葉に対する注釈」となっていて、最初に紀貫之が序文を書いた時にはなかったものでしょうから、カウントから除く事にしました。
細かいことをいうと、古注は多くの場合、始めと終わりに読点があります。古注がなければ句点でつながるところですので、古注の始めの読点は数え、終わりの読点はあっても数えない、という数え方にしました。
その結果はこうなりました。
歌集名 | 文字数 |
古今集 | 2504 |
後拾遺集 | 2477 |
千載集 | 1599 |
新古今集 | 1189 |
序文の長さにどのような意味があるか、などということについては考えてもよく分かりません。
選者の意気込みによるような気がしますが、選者の個性も強く反映するでしょう。政治経済情勢にも影響されるでしょうし、そのほかランダムな要因もいろいろとあるでしょう。
新古今集の序文はこの四つの中で一番短いのは不思議な感があります。2000首とこれらの中で飛びぬけて多い歌を収録しているのだから、もっと長い序文を載せてもよさそうに思います。
新古今集の序文は、漢文による真名序を持っていること、編者の名前を記録していること、完成した年月日が示されていること(議論の余地はあるようですが)など、古今集と一致しています。古今集に範をとったという姿勢の表れでしょう。
古今集、後拾遺集の序は随分長いもので、一番短い新古今集の序の2倍以上あります。
序文の構成
それぞれの序がどのような構成になっているのか検討してみます。解釈の仕方は人によって異なります。私の感じ方ということになります。
古今集 | 書き出し | 歴史 | 分類 (和歌論) | かつてのよき時代 | 先行歌集 (万葉集) | 現状を憂う (6作家批評) | 編纂の指示 | 完成した歌集 | 結び |
後拾遺集 | 書き出し (歴史) | 編纂の指示 | 編集経緯 | 完成した歌集 | 編集方針 取捨選択 | 歴史(万葉・三代集) | 歴史 (私歌集) | 選者の歌を収録した | 結び |
千載集 | 書き出し (歴史) | 先行歌集 (古今・後撰・後拾遺) | 編集指示者後白河院 | 編集指示 | 歴史 | 出家者の編集であること | 結び |
新古今集 | 書き出し (歴史) | 編纂の指示(5人の編者名) | 編集方針と完成した歌集 | 和歌論 | 歌集の歴史(万葉・古今から千載) | 院が編集し自作の歌を収録した | 結び |
書き出しののち、和歌の歴史に触れ、歌集編集の命が下り、対象範囲をのべ、完成形態(歌数と巻数)を言い、先行歌集に言及し、結びの言葉に至る、という大まかな構造には大きな違いはありませんが、個別の事情がそれぞれに反映しています。
【古今集】
古今集では6人の作家を批評しているところが奇異に感じられます。批評の言葉が非難の域に達してて、ここまでいくと個人攻撃ではないかと思ってしまいます。
完成したときに6人ともに故人であったかどうかについては、よくわからない人もいますが、その一人の大友黒主は延喜17年(917年)に歌を読んでいて、これは古今集完成とされる延喜5年より12年も後となります。亡くなって間もない歌人あるいはまだ活躍中の歌人に対して、勅撰和歌集という公的性格をもつ作品で非難する、という状況が全く理解できません。個人的な好き嫌いというのではないでしょうが、歌人グループの派閥対立の様なことがあったのでしょうか。
ここで、批評がひどすぎる、ということについて一例を挙げます。たとえば「大伴のくろぬしはそのさまいやし」、こんな評があるでしょうか。「そのさまいやし」とは"読まれた歌について"の評価、という可能性もありますが、「いはばたきぎおへるやま人の花のかげに休めるがごとし」となると、"歌人そのものを非難"しているレベルに達しています。
なお、ここに書かれた"6人の歌人に対する批評"の内容は、前書き・後書きの部屋 [3] のNo.28 に書いてあります。
【後拾遺集】
編集方針やどの範囲の歌を対象にし、どの範囲の歌は除外したかがいろいろと書かれています。選者に対しての疑問や反論の中で編集されたことが色濃く出ているような気がします。いわば弁明の序でしょうか。
選者自身の歌を収録したことについても、やはり弁明の様な書きぶりが見られます。古今集では「みづからのをも奉らしめたまひて」と簡単に触れているだけであるのに対し、後拾遺集ではくわしく、「みづからのつたなき言のはも、たひたびのおほせそむきがたくして」「はばかりながら所々のせたたる事あり」などと書き、「この集もてやつすなかだちとなんあるべき(この選集をわざとみすぼらしくするきっかけとなるであろう(新体系の後拾遺和歌集の脚注による))」などです。
【千載集】
ここでの特徴的なことは、後白河法皇について言葉を尽くしているところと、編集を任された藤原俊成が出家していたことについてのコメントの二つです。
前者については、「我君、世をしろしめして」で始まるところで、「かれこれおしあはせて、みそぢあまりみかへりの春秋になむなりにける、あまねき御うつくしみ、秋つしまのほかまでおよび、ひろき御めぐみ、春の園の花よりもかうばし」などとしています。天皇から院の期間を合せて33年、その間、「あまねき御うつくしみ」、「ひろき御めぐみ」と礼賛します。このように、編集を命じた最高権力者について序文で言及している例はほかにありません。
後者については、「松のとぼそにのがれ、苔の袂にしほれたるもの、これをえらべるあとなむなかりけれど」といっています。「松のとぼそ」「苔の袂」というのが出家者を意味して(新体系の千載和歌集の脚注による)、いままで出家した人が勅撰集を編集した例がない事を認めている一方、「宇治山の僧喜撰といひけるなむ、すべらきのみことのりをうけたまはりて・・・・式をつくり集を撰ぶ」という例を持ちだし、天皇または院の詔勅を受けて歌集を編集したことは、なかったわけではない、と主張しています。そして、自分は和歌の道を歩んで70年、法皇に対して誕生以来尽くしてきて60年、と主張し、勅撰集の編纂の詔を受けるのにふさわしいでしょう、と胸を張ります。後拾遺集では編者が自信をなくして低く出ているのに対して、その正反対に自信満々というところです。勅撰集編集の詔勅を受けた時期が、後拾遺集の編者藤原通俊の場合は29歳です。これに対し、藤原俊成の場合は70歳で、和歌の第一人者として誰疑うことのない状態で、そのような違いが二つの序によく現れていると思います。なお、年齢は数え年です。
【新古今集】
これは四つの序の中で一番短いですが、他と異なる点は、後鳥羽院自身が編集に手を染めたということにあります。歌の選定は5人に任されたのですが、それで完成というのではなく、後鳥羽院が時間をかけて歌の入れ替えや配列を行ったのです。
「そのうへ、みづからさだめててづからみがける事は、とを(ママ)くもろこしのふみのみちをたづぬれば、はま千鳥跡ありといへども、わが国やまとことの葉のはじまりて後くれ竹の世々に、かかるためしなむなかりける」とあり、このようなことは我が国の勅撰集では例がない、といいます。
また自らの歌を入れたことについても、詔勅を発した天皇または院の歌が採録されたのは"前例はあるにしても10首にはならないだろうが、今回は30首を超えている"ことを明らかにしています。これに対してのいいわけが面白い。"とりたててよい歌は特にないが、かえってどれがよいのか区別できないので、なんでもかんでも入れてしまった。歌の道にかける思いが強くて、のちのちあざけられることを考えていなかった、ということだろう"と、反省ともひらきなおりとも取れる言い方です。もちろん心の中は自信たっぷりでしょう。
まとめ
ここに挙げた四つの序文は、当然盛り込まれるべきことがらを書きつつ、それぞれの事情に応じた内容が記述されているということがよくわかりました。
それにしても、古今集の序にある6人の歌人の批評は"あまりにも異様"という印象をぬぐい去ることができません。
参考
古今集の序文における6人の歌人の批評の部分がどうしても異様なので、それを除くと、序文の長さはどうなるのか、と数えてみました。この部分の文字数は354文字でした。それを除くと、次のようになります。
歌集名 | 文字数 |
古今集 | 2150 |
後拾遺集 | 2477 |
千載集 | 1599 |
新古今集 | 1189 |
こうなると、後拾遺集の序文での"弁明"の長さが目立ちます。
さらに、収録歌数との比を計算してみました。
歌集名 | 序文文字数 | 歌数 | 序文文字数/歌数 |
古今集 | 2504 | 1111 | 2.3 |
後拾遺集 | 2477 | 1218 | 2.0 |
千載集 | 1599 | 1288 | 1.2 |
新古今集 | 1189 | 1978 | 0.6 |
序文文字数/歌数の値は時代とともにだんだんと小さくなるのですね。(歌数は「合本 八代集」に基づいています。)
和歌に対するエネルギーの減退でしょうか。人々の一生に対して、次第に政治的な関与が強くなっていった時代です。後拾遺集までの時代は、一部で藤原氏の横暴があったものの、宮廷文学は確かなものでした。千載集の時期は、勅を出した後白河院は源平の戦いに深く関与したものの、武士の力を抑えることができず、新古今集を勅した後鳥羽院は鎌倉幕府に対してクーデター(承久の乱)を起して大敗し、配流となっています。それよりずっと前に新古今集は完成していますが、生涯にわたって、世の中が完全に武士の手に渡ってしまった事を実感していたことでしょう。
参照した資料
合本 八代集 久保田淳・川村晃生編 三弥井書店 平成11年3月
新版 古今和歌集 現代語訳付き 高田祐彦訳注 角川ソフィア文庫 角川学芸出版 平成21年6月
新古今和歌集 上 久保田淳訳注 角川ソフィア文庫 角川学芸出版 平成20年5月
後拾遺和歌集 久保田淳・平田喜信校注 新日本古典文学大系 岩波書店 1996年12月
千載和歌集 片野達郎・松野陽一校注 新日本古典文学大系 岩波書店 1998年4月