気まぐれ日記 23


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枕草子 第32段 網代ははしらせたる その9 車(まとめ) 

[2014/11/3]

釭と潤滑油

牛車が速く走ることが本当にできるのだろうか、という疑問がこの記事のシリーズのスタートでした。車輪の支持部、具体的には車輪と車軸とが滑るところが重要なポイントで、車輪側に金属の釭(かりも)を使用する、ということまでは分ってきましたが、その形状が分かりませんでした。

又、釭が広く使われたとすると、潤滑油が必要と考えましたが、これに関連する情報が全く見つかりませんでした。

最近、やっとそれらしい情報が見つかりましたので、記録しておきたいと思います。

この記事の要点

この記事が長くなるために、まず結論の要点を書いておきます。

(1) 釭とは車輪の中央の轂(こしき)に車軸を通すために作られた穴の両端にはめられたリング状のものである。穴の中を貫く管のような形状ではない。

(2) 釭と車軸は補修部品として標準化されて、銭で購入することができた。

(3) 少なくとも平安時代の乗用の牛車では、潤滑油を釭と車軸の間に入れて使用していた。潤滑油はたとえば左右馬寮では牛車を保管すると同時に潤滑油も保管していた。

(1)~(2)については、厳密にいえば、「少なくとも天平時代の荷用の牛車では」という制限条件を付けるべきですが、天平時代のやり方がその後すたれたとは考えにくいので、ここでは特に条件はつけません。(3)については、天平時代の荷用の牛車で潤滑油を使用していた、という情報は確認できていませんので、「平安時代の乗用の牛車」という条件付きとしますが、潤滑油という発想は金属製の釭を使う時点で当然出てきていたと思われます。

調査開始

出発点は次の本です。

櫻井芳昭 ものと人間の文化史 160 牛車 (*1)

この本はしばらく前に入手していて、牛車について網羅的に書かれており大変参考になる、という印象があったのですが、なぜか今一つきちんと読んでみようという気になれませんでした。その理由は、他の本を引用しているところが多数あると思われるのですが、引用部分が具体的にどの部分なのか明示されていない、また引用部分が原文通りなのか、内容を書き直しているのかがよくわからない、という点で"何となく不満足"だったためです。

そうはいっても、牛車について広い範囲をカバーしているので、とにかくきちんと読んでみることにしました。最初に興味を持ったのが、車輪の輪の部分が何個か、という件についての考察です。

下記の本が引用されています。

板倉聖宣 日本史再発見 理系の視点から 朝日選書 477 (*2)

車輪の輪(外周部分)はいくつかの同じ形の円弧の板材をつないで造ります。これが7個と奇数であるのは強度を増すための構造上の工夫であるとしている板倉著に"納得する"としています。"理系の視点から"みると、奇数個の部品で輪を構成すると強度の点で有利である、という説です。そして別の資料から、輻(や;スポークの様なもの)の数の調査結果をあげています。それによると、輻の数は、18, 21, 23, 24, 33の5種類があります。

輪の部品一つに輻3本が対応するというのが普通であり、23というのは不審で(調査対象は絵図でしょうから何かの書き誤りか?)、それを除くと、外周の部品数は6, 7, 8, 11となります。何例あったかも調査されていて、それぞれ 1, 14, 10, 2 です。つまり部品数7が52%、8が37%です。

この数字で、強度の問題があるために 7 にしているとはちょっと言えないのではないか、と思いました。奇数と偶数というように分けると、奇数が59%、偶数が41%で、これでは例外が41%で多すぎます。

資料探し(2)

この件で板倉著の「日本史再発見」に興味が出て、さっそく入手しました。

ちなみに、この様な本の多くは私が住む市の図書館にはないことが多いです。県立図書館にはあることが多いのですが、調べてみると電車代が往復で1,000円かかります。マイカーで行くとガソリン代が500円位になります。ちょっと小腹に入れる、なにか飲み物を、などを考えると更にかかります。一方、古書が買える場合、送料込みで1,000円以下で買えることも少なくありません。日数も遅くても大体は5日くらいで届きます。古書といっても大部分は新品同様という程度のものが多く、図書館で借りる本と同等かそれ以上です。遠くの図書館に出かけて2週間の期限付きで借りるより、古書を買った方が有利なことが多いのです。何かおかしいな、とは感じますが、そういう世の中になったのですね。

板倉著の日本史再発見ですが、荷車としての牛車について詳細に書かれています。

牛車は、"ぎっしゃ"と読めば乗用のもので、"うしぐるま"と読めば乗用・荷用の両方を含みます。荷用に限定したよい言い方がないので、この記事では"荷車としての牛車"と呼ぶことにします。

それによると、人が引く荷車として力車(ちからぐるま)と呼ばれるものが奈良時代から日常的に広く使用されていた、という新しい事実が出てきました。東大寺などの大寺の建設には多数の力車が使用され、それは賃借する、というケースが多い、また車だけでなくそれを引く人も合せて雇う(このような場合、よく雇車と書かれる)、という場合もあるということでした。

荷物運搬用の車について同書は「遠藤元男著『日本人の生活文化史 5 路と車』(毎日新聞社、1980年に詳しい」とあります。

ちなみにこの本(*3) は市立図書館にはなく、県立図書館にはありました。古書としては見つからなかったので図書館から借用しました。

資料探し(3)

遠藤著の「路と車」で紹介されている最古の力車の文例は万葉集第四巻の広河女王の歌で、八世紀に詠まれたとされています。枕草子が書かれた200年以上も前のことになります。

恋草を力車に七車つみて恋ふらく吾がこころから

手元にある万葉集(中西進 講談社文庫)(*4)でこの歌を探すと、694番歌にありました。読み下し文、原文、訳文は次の様になっています。

恋草を力車に七車積みて恋ふらくわが心から
戀草乎 力車二 七車 積而戀良苦 吾心柄
恋の草を大きな車に七台も積んで恋うことよ、他ならぬわが心から

力車を「大きな車」と訳しています。脚注には「語義は力ある車。巨大なものの運搬に用いる」とあります。力車については、古語大辞典では「人力で引く荷車」、広辞苑では「物をのせて人の力でひく車」となっており、文例としてはこの万葉集の694番歌がどちらにも使われています。「巨大なものの運搬に用いる」というのはいい過ぎでしょう。単に荷車という意味だと思います。

上記の講談社文庫の万葉集(五)は万葉集事典で人名解説があります。広河女王については、天平宝字七年(763年)一月に「無位より従五下(続紀)」とありますから、8世紀後半の歌とみて良いでしょう。枕草子が書かれたのは西暦1000年前後とされていますから、200年前になります。そのころから人が引く荷車が広く知られていたようです。

遠藤著の「路と車」で書かれた内容で興味を引くのは「造金堂所解」という文書において多数の車を賃借して使用し、さらに車を購入し、その上、車の補修部品として釭と車軸を購入したという記録がある、という部分です。

資料探し(4)

「造金堂所解」という資料が「大日本古文書16」に含まれているとのこと。大日本古文書は国会図書館のデジタルライブラリで公開されています(*5)。

「この資料には年月日の記載がないが、他の資料を参考にして天平宝字6年のものとして扱」うということが最初に書かれています。西暦では762年になります。

国会図書館のデジタルライブラリで見ることができるのは昭和2年(1927年)発行のものですが、ページの多くが欠落しています。該当資料は原書のp279~305ですが、そのうち、289~304ページがありません。27ページ中の16ページがないのです。

別の方法で全ページを見ることができます。(*6)

「大日本古文書」かぁ、という気持ちでした。すでに延喜式で漢字だけの文章に当たった事がありましたが、昔使われていて今では異体字として漢和辞書に載っているか、または漢和辞書にもない漢字が出てきて、理解するのに一苦労、また漢字をパソコン上で表示するときに一苦労、となりました。理解といっても、こんな内容かな、と想像する程度でしかありませんが。とにかく漢文をまともに読むことができない私には無理、としか言いようがないのです。

でもやるしかない、と自分に言い聞かせました。

そもそも「造金堂所解」は正倉院文書に含まれるもののようです。正倉院文書とはなにか。とにかく奇跡の様なものだったのですね。奈良時代に作成された書類が東大寺正倉院に保管され、"開かずの間"ならぬ"開かずの倉"、とでもいうべき状態になって1000年以上が経過し、江戸時代後期(天保年間)に倉が開かれて解読が始まったらしいです。

しかも、元の書類(巻物)は小さく断片化していて、「どのようにつなぎ合わせるか」を解明するのについて大変な苦労があったようで、現在「大日本古文書」で復元された結果を目にできるだけでもありがたいと言うべきのようです。

「大日本古文書」にある「造金堂所解」を眺めてみます。

これを見ると、前に見た「延喜式」は法規を公(おおやけ)の立場で正確に書き記したもので、まだずっと楽ですね。「造金堂所解」には、「造金堂所解案」というタイトルがついています。「案」の文字が示すように、公式な文書の下書きで、修正の記述が追加されています。また、「造金堂所解 申請用錢并雑物等事」と題名にあるように、金堂を建築したときの費用の明細で、たとえば何々をどれだけ購入して価格は何々、という記述が並んでいます。

探していた情報

「造金堂所解」を読んで内容を理解していくことは私には無理な話で、解説資料がないか調べるといくつか見つかりました。代表的なものを参考文献(*7)~(*11)に記します。

このような参考書、論文を読むのも大変で、ほんのわずかしか理解できないのですが、併せて「造金堂所解」を読み進めていくと、探していた情報にようやくたどり着きました。原文をそのまま書き写します。以下、[]の中は割注(本文1行の中に小さな文字で2行に分けて補足情報を書き込んだもの)です。

六貫九百五十文買車十両直
  一貫四百買間車一両直 ("百買"の所に"文脱"と注記あり)
  四貫五十文買牛車四両直 [三両別一貫文 一両一貫五十文]
  一貫五百文買小車五両直 [両別三百文]
三百卅六文買小車釭四具直 [具別八十四文 員十六口]
(中略)
百八十文買車軸十四枝直 [四枝別廿文 十枝別十文]

ブラウザによって表示がどうなるのか心配ですが、第2~4行は一文字分だけ字下げされています。

上記で引用した文章は分りにくいので、次の様に書き直してみました。これが正しいのかといわれると答えることができません。あくまで私が理解した内容です。

6貫950文で車を10両購入
  1貫400文で間車を1両購入
  4貫50文で牛車4両購入 [内訳は三両が各1貫文、1両が1貫50文]
  1貫500文で小車5両購入 [内訳は各300文]
336文で小車の釭4組を購入 [内訳は1組84文、数が16口]
180文で車軸14本を購入 [内訳は4本が各20文、10本が各10文]

間車、牛車、小車の合計は10両で、価格の合計は6貫950文となり、1行目の文章の内容と一致します。[備考1]

つまり、1行目に書かれたことの内訳が第2~4行に書かれているのです。

牛車は、乗用としての牛車(ぎっしゃ)か、荷役用の牛車(うしぐるま)なのか判断はできませんが、この文書は寺の金堂(本堂と同等)の建築期間中の出費を取りまとめた文章です。寺の金堂の建築期間中に、建築に関わる用事で牛車で出かける必要があるとは考えられないので、これは荷役用の牛車(うしぐるま)であると判断します。

というのは、当時は牛車に乗るのは女性だけであると考えられるからです。これについては、下記の文献が参考になります。

蓮實重彦 車 東京大学公開講座 68 (*12)

pp.192-193で、日本後紀の弘仁6年(815)の条で、牛車への乗車が許される人は誰誰に限定する、という命令を書いた記事があり、「ここに出てくる人々はすべて女性である。つまり、九世紀のはじめには、男性が牛車に乗ってよいかどうかは判断の対象になっておらず、女性だけが念頭に置かれていた、ということがうかがえる史料ではないかと思う。(改行)九世紀の末になってはじめて、男性が牛車に乗っていたことがうかがわれる史料が登場してくる」とあります。造金堂所解は762年に作成された文書とされており、その時代では牛車に乗るのは女性に限られます。建築現場から建築の用事で女性が牛車に乗って出かける、ということは考えられませんから、荷車としての牛車であるということになります。

建築材料や工人の食糧など大量の物を各地から建築現場まで車で運搬した文章がこの資料にあります。その時の車は車貸しから借りる、というケースが多いようです。

たとえば次の様な文章があります。

三百九貫二百七十文運雑物車賃
九十八貫六十五文堂料雑材五千八百卌物自泉津運上雇車一千百卌六両賃

1行目の「運雑物車賃」は、色々な物を運ぶ車の借り賃、というような意味でしょうし、2行目は、5840個のいろいろなものを泉津から運ぶために雇い車(車とそれを引く車夫)1146両を借りた費用ということでしょう。このように、運送費がかかる場合にはその項目が書かれます。

そのほかに、わざわざ車を購入しているのですから、購入した車は建築現場内での短距離の運搬に日常的に使うものではないだろうかと想像します。木材や石材などは、遠方から工事現場の資材置き場のような決められた場所に運び込まれ、その後、使用されるところまで運ぶ必要があるでしょうから、その用途に使われるものだと思います。

それにしても、1146両という数の多さに驚きます。延べの台数でしょうが、それにしても大量の車が動員されていることが分かります。

ここで分かったこと(1)-釭の形状

釭は車輪の轂の中心の軸が挿入される穴にはめられる鉄の部品ですが、一つ前の記事で、それが円筒形をしているのか、リング状のものなのかがまだ分からないと書きました。

上記に引用した文章で、「小車釭四具・・・・[・・・・員十六口]」とあります。釭は16口で4セットである事になり、要するに車1台あたり4個ですから、車輪1個に釭が2個、つまりリング状のもので轂の穴の両端に口金のように設けられるものであることがわかります。「員16口」と書かれており、"口"という表現からも口金であることがうかがえます。

ずいぶん時間がかかりましたが、ようやく釭の形状を示す証拠の資料が見つかりました。

ここで分かったこと(2)-車軸

車軸は、20文と10文の2種類を購入しています。20文のものが4本なので牛車4両に対応、10文のものが10本なので小車5両に対し1両あたり2本という割り当てではないでしょうか。牛車は1貫または1貫50文で、300文の小車の3倍以上の価格です。それだけの大きさの違いがあり、車の幅(すなわち車軸の長さ)が違い、それが価格に反映していると考えられます。小車には1両あたり2本用意しているのは、壊れやすいという判断があったのでしょうか。これについては分かりません。

間車は牛車より高価なので、車軸も牛車より高価になると予想されますが、間車とはどういうものなのか情報がないので詳しいことはわかりません。特殊なものなので釭や車軸は他の車用のものが使えず、数が少ないことから標準部品として流通するに至らず、購入できるものではなかったという可能性が考えられます。

ここで分かったこと(3)-部品化

釭と車軸は購入しています。ということは、標準部品として扱われていたということです。たとえば、車軸を牛車用に4本用意してあるとすると、ある車軸はどの牛車の車軸が壊れたときでも使えるということになります。つまり、サイズ、形状、材質が決まっているということです。車軸の場合、少なくともそれが二種類あったわけです。同様に、釭については、ある釭が壊れたとき、予備として持っている釭の一つを任意に選んで使うことができる、つまり釭をはめ込むために轂を削った凹部のサイズ、形状が正確に決まっているということになります。

「小車釭四具」とあります。小車用の釭は買ったのですが、牛車用、間車用の釭はどうしたのでしょうか。この文書は金堂の完成後にその費用を全てまとめた報告書ですから、あるときに"たまたま"買えなかった、ということではありません。買うものではない、ということでしょう。ではどうしたかというと、鉄の鋳造を業とする所にオーダーする物だった、ということだと思います。ただし、そのような記載はまだ見つかっていません。

以前書いた記事で、延喜式内匠寮でのところで、「腰車の製作では釭工を4人採用し、牛車の製作では釭一式を手配する」という違いについて書いています。つまり、宮中では腰車では釭工に作らせるのに対し、牛車では「釭一具、絹三尺、・・・・」という表記ですから、(すでにできているものを)手配する、と読めます。宮内省木工寮の内に鍛冶部門があり、金属製品を作っていた(たとえば、(*13)の p.112)ようなので、釭はこういう部門で内製していたのかもしれません。

釭というものは、ある種類のものは一般に流通していて、またある種類のものはその都度製造する、という使い分けは宮中、一般人によらずあったものと思われます。

潤滑油について

前から思っていたことの一つは、牛車が高貴な人物の乗用のためにひろく使われたのなら、公用のものとして管理・保管されていたはずで、そうであれば記録が残っているはず、ということでした。平安時代には牛車は普及が広まったことは、文学作品に頻繁に現れることでも分かります。当然、宮中でも牛車が準備されていて、必要に応じて使われたはずで、入手・修理・保全(油をさすなど)の管理担当の部署があるはずです。

これがなかなか分からなかったのです。官位の解説資料(*13)を見ると牛車を担当する部署として考えられるのは左右馬寮くらいです。牛の管理は馬の管理と共通点がありますから。しかし、てもとにある「官職要解(*12)で「馬寮」の項目を見ると、「御所の御厩の馬、馬具、及び諸国の牧場の馬を掌る(つかさどる)役所である」とあり、さらに本文を読んでも、牛とか牛車については何も触れられていません。

それが、上記の遠藤著の「路と車」(*3)の中に次の様な記述を見つけたのです。

「牛車を乗り物として利用することは一般にもひろがっていった。牛車には公用のものと自家用のものがあった。公用のものは内匠寮で製作したものと(『延喜内匠寮式』)、馬寮で調達したものがあった(『延喜左右馬寮式』)。」同書pp.57-58。

やはり馬寮です。延喜式ですね。そこには「左馬寮」の項目があり(*12)、割り注で「右馬寮准此」とあります。右馬寮については左馬寮の記述内容に準じる、ということです。

凡細馬十疋。中馬五十疋。下馬廿疋。牛五頭。毎年四月十一日始飼青草。十月十一日以後飼乾草。(原書1128ページ)

やはり牛は馬と同様に扱われていたのですね。4月11日からは青草を食べさせ、10月11日以降は乾草を与える、というきまりなんですね。

凡車五両。屋形五具。鞦(しりがい)五具料。桃染調布四端。[具別二丈七尺五寸]。縫絲大二分四銖。敷茵(しとね)五枚。竝支度。三年一申官儲備。但車油一斗八升。毎年請受。(原書1133ページ)

屋形ですから牛車ですね。3年に一度役所に申請して、"儲備"はよくわかりませんが、3年ごとに新品に交換するというのではサイクルが短すぎるので、大修理を行う、という事でしょうか。日々の使用で破損したならすぐに修繕するのは当然でしょうから、現代でいう車検のように、特に問題がなくても全面チェックして必要なら修繕する、ということと推測します。

"儲"を辞書で引くと、もともとは"蓄える"、とか"備えておく"という意味だったのが、日本では利益を得る、という意味が加わった、ということが書いてあります。(全訳漢辞海)。

"車油"が出てきましたね。一斗八升。これが規定量なのでしょう。車両の方は3年間隔で全面チェック・修繕ですが、油はおそらく傷んでくるからでしょうか、"毎年請受"、毎年新品と交換するのでしょう。

以前の私だったら、車油とは、馬寮だから馬車かも、と思ったでしょうが、日本で馬車は明治の初めまではなかった、というのが定説になっている(たとえば板倉著 日本史再発見 p.135)事を知っているので、迷うことはありません。

実は、上記の延喜式の馬寮の記事は、以前に「古事類苑器用部」の「車」の部を調べている時に見つけていました。でも、それが牛車用の潤滑油と判断することができなくて、そのままになってしまったものです。やはり、基本的な事を分かっていないと、いざその文章を読んでも、それの意味するところを理解することはできないものだ、ということを痛感しました。

追記[1]も参照ください。[2015/10/23]

「輠」の文字の意味

このシリーズで、牛車の油について検討したことがありました。

そのなかで、「輠」の文字についてわからないままにしていましたが、ひとつヒントが出てきたように思います。>

「古事類苑 器用部11 車下」(*14)に類聚名義抄を引用して、次の記述があります(近代デジタルライブラリー 古事類苑の原書880ページ)。

輠[或棵棵(ただしへんは金へん)盛膏車器、アフラツキ]

「アフラツキ」は「油坏」だろうか、などと想像をめぐらしましたが、「坏」では容器になってしまいます。

「アブラツギ」つまり「油注ぎ」ではないでしょうか。これなら「油を差すための道具」で、おそらくその構造は、油をためる容器とそこから細長く伸びた管です「油を差すための道具」で、おそらくその構造は、油をためる容器とそこから細長く伸びた管です。釭と車軸の間に油を差すという作業は毎日のようにおこなうものと想像されます。車を出すように言われてその時に油を差すのでは遅いでしょうから。そのように日常的に使う道具であればそれを表す漢字があって当然です。一方、油を差すという作業は牛飼いだけが行うもので、油が差されているかどうかは乗る人には通常は気が付きません。それで歴史書や文学作品にはこのことがほとんど触れられていないのではないでしょうか。

【修正】「輠」の文字の意味  [2017/1/11]

「輠」の文字について再度調べ直しました。

倭名類聚抄での記述は以下の様になっています。

(途中略)車脂角也

その言葉の前に割り注があり、その最後に「漢語抄云車乃阿不良都乃」とあります。輠に対しては「(車の)アブラツノ」で一貫しています。

"角"が分からなかったのでしたが、漢字辞典をあたるとはっきり書かれていますね。

漢字源・・・・さかずき。もと、つの製。またはつのの形をしていた。
漢字典・・・・酒器の名。さかずき。
全訳漢辞海・・・・[つの製、あるいはつの型の]さかずき。

漢字源と漢字典には図があり、3本の足(確かに角のような形をしています)の上に、単純な円形ではない、そしてある程度の深さがある皿状のものが乗っています。つまり、"角"といえば、酒を入れる容器に角(の形)の足がついたもの、というもののようです。それに対して、"アブラツノ"というのですから、"油をいれる容器"、というわけです。

この容器は、どのくらいの大きさなのか。大きさについては今一つ確認できません。全訳漢辞海には用例があり、「卑者挙角(訳)身分の低いものは角杯をかかげる」とあります。これでは手で差し上げる程度の、いわゆる"さかずき"という印象です。

最初に書いた「『油を差すための道具』で、おそらくその構造は、油をためる容器とそこから細長く伸びた管です」と書いたなかの「細長く伸びた管」は間違いで、さかずき状の形の容器に潤滑油としての油を注ぎ、それを車軸と軸受けの間に流し込む、ということと思われます。なぜ「細長く伸びた管」が不要かというと、牛車の軸受けは太く、また木製なので油がしみこみます。したがって、ある程度大量の油が必要なはずです。油を"ポタッ、ポタッ"とかけるのではなく、"シャー"とかける様なものではないか。それで、単にさかずき(杯)のような形で十分なのではないだろうか、と考えるようになってきました。

備考

[1] この部分の記述は今回の調査ではたいへん重要な部分で、参考文献の(*1)~(*3)の全てで言及されていますが、内容に違いがあります。

一番古い資料である(*3)では、p.39で「車10台を車1台695文で、間車1台を1貫400文、牛車("うしぐるま"と振り仮名あり)1台は1貫50文、1台は1貫で、あわせて4台、小車1台を300文で5台を買っている。牛車の事はあとでみるが、荷車には車・間車・小車の3種があったようである」、としています。次に古い(*2)では、p.149で「役所で車を買う場合もあった。その値段は『大日本古文書16』に収録されている造金堂所の文書(762年)によると」として牛車、小車、古車、間車について書いています。一番新しい(*1)では、p.10で「天平宝字6年(762)の『造金堂所解』によれば、車10両を1両につき695文、間車1両は・・・・牛車・・・・合せて4両、小車・・・・5両買っている。これでみると、牛車があり、荷車は間車、車、小車の三種で」とあります。

(*1)、(*3)で車10台とありますが、すでにこのページに書いたように、10台というのは間車、牛車、小車の合計であって、このほかに車を購入したのではありません。

また、(*2)における古車は、「造金堂所解」の原文では売ったもののリストに出てきますが、購入したものとしては出てきません。売ったもののリストというのは、原文では「259貫116文院中平章売雑物価」(雑物を売った値段)の内訳の一つとして「1貫古車2両直」(古車2両で1貫)と書かれています。

(*1)では荷車に牛車を含めていませんが、乗用の牛車が建築現場で必要になるとは考えられず(上記に書いたとおり)、この解釈には同意できません。(*3)では、p.39に「牛車の事はあとでみるが」とあり、p.42で「牛車("うしぐるま"と振り仮名あり)は、牛に引かせる荷車であり」として、牛車について、乗用のものは"ぎっしゃ"、荷車の場合は"うしぐるま"と振り仮名で区別しています。最初に引用した所には"うしぐるま"と振り仮名があり、荷車として扱っています。

追記

[1] 左右馬寮における車油の記述 (2015/10/23 追記)

「古事類苑 器用部11 車下」に「車油」という項目があり、次のように書かれています。

【延喜式((三十六主殿))】左右馬寮車油三斗八升三合 (((寮別一斗九升一合五勺))

((・・・・))は割り注を示す

馬寮では「車油」を保管していたのでしょう。すでに「車油一斗八升」という延喜式の記述について書きました。数値はわずかに違いますが、ほぼ一致しているとみていいでしょう。逆に、ここでの記述で"一斗九升一合五勺"と有効桁数が4桁もあるのが不審です。左右馬寮の合計では有効桁数が3桁ですが、これでも多い。しかも、とても中途半端な数値です。

延喜式でこの部分を見ると、以下の様な記述でした。

延喜式のテキストは「日本古代資料本文データ」というサイトを参照しました。

左右馬寮車油三斗八升三合。寮別一斗九升一合五勺。飼青御馬所料。油二斗六升四合。寮別一斗三升二合。季料胡麻油三斗二升。寮別一斗六升∥〓椒油一斗六升。寮別八升∥猪膏六升四合。寮別三升二合。∥

「胡麻油」のように"油"の種類を明らかにした項目がある一方、単に"油"と書いてあるところもあり、これではどのような"油"なのか分かりません。"車油"というのは"車"に使用する特定の"油"なのでしょう。延喜式で"車油"はすでに書いた所とこの追記で書いた所の二か所だけでした。少なくとも、"車"に油を使用する事は確かです。一般に"油"といえば照明用でしょうが、牛車では屋形の内部で油による照明を用いることはないと思います。牛車はとても揺れるので危険ですから。この点でも"車油"とは軸受けの潤滑油である可能性が高いでしょう。

参考文献

(*1) 櫻井芳昭 ものと人間の文化史 160 牛車 法政大学出版局 2012年

(*2) 板倉聖宣 日本史再発見 理系の視点から 朝日選書 477 朝日新聞社 1998年

(*3) 遠藤元男 日本人の生活文化史 5 路と車 毎日新聞社 昭和55年

(*4) 中西進 万葉集(一)~(五) 講談社文庫 2009年12月 第43刷 講談社(ただし発行年月日等は(一)のもの)

(*5) 大日本古文書卷之十六(追加十) コマ番号160~165 (原本P.279-305)

(*6) キーワード検索による方法で、以下の手順です。

東京大学史料編纂所のサイトに入る。

⇒"データベース選択画面"を選択

⇒表示されるデータベース一覧から"全文の検索"の中の"奈良時代古文書フルテキストデータベース"を選択

⇒キーワード入力画面で"造金堂所解"をキーワードに指定すると、大日本古文書(編年文書)の16巻279頁と16巻306頁が検索される。

⇒"16巻279頁"の表示の右にある「画」と表示されたボタンを選択すると、"0001.tif"から"0594.tif"までのファイル名のリストが表示される

⇒"0279.tif"を選択すると279ページがダウンロードされて表示可能になる

なお、この手順の時は一度に1ページのみの表示です。画像としてみれば、(*5)に比べるとこちらは大幅に高精細です。

(*7) 栄原永遠男 正倉院文書入門 (角川叢書) 角川学芸出版 2011年

(*8) 丸山裕美子 正倉院文書の世界―よみがえる天平の時代 (中公新書) 中央公論新社 2010年

この二つは正倉院文書の研究全般について記述しています。特に写経に関する内容が詳しいのですが、そもそも正倉院文書の研究自体の中心が写経に関するものとなっているようです。

(*9) 風間亜紀子 天平宝字年間における法華寺金堂の造営―作金堂所解の検討を中心に― 正倉院文書研究9 正倉院文書研究会編 2003年11月

「造金堂所解」(造と作はどちらも使われています)に絞った論文で、この文書がどういう性格のものかが分かります。ただし内容はそこにあらわれる人物に焦点が当てられ、車に関する記述はありません。

(*10) 黒田洋子 八世紀における銭貨機能論 弘前大学國史研究 87 1989年10月

テーマから当然のことですが、財源や銭貨についての分析で、その対象に「造金堂所解」も含まれています。

(*11) 栄原永遠男 石山寺増改築工事の財政と銭貨 日本銀行金融研究所 金融研究 vol.24(1) 2005年3月

寺堂の建築に使用される物品や工人についての詳細な分析があり、「造金堂所解」の内容と共通のものも多く、大変参考になりました。この資料に関する発表についての討議議事録(下記)も参考になります。どちらも日本銀行金融研究所のホームページで見ることができます。

貨幣史研究会(東日本部会)第8回 議事録 平成13年12月19日

(*12) 蓮實重彦 車 東京大学公開講座 68 東京大学出版会 1999年

(*13) 和田英松 新訂官職要解 講談社文庫 講談社 1985年

(*14) 近代デジタルライブラリー 古事類苑 器用部11 車下



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