気まぐれ日記 2


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[2011/11/18] 徒然草 2


前のページで法然の話が出た。法然に興味を覚えた最初、したがって仏教に興味を持った最初が徒然草の第39段だった。
大変有名な段なので、目にすることも多いところである。

この段の全文は以下である。

なお、引用文と解釈は、前ページと同じく以下による。
改定 徒然草 今泉忠義訳注 角川ソフィア文庫 角川書店


(1) 第39段

或る人、法然上人に、「念仏のとき、睡(ねぶり)にをかされて行(ぎゃう)をおこたり侍ること、いかがしてこのさはりをやめ侍らむ」と申しければ、「目のさめたらむ程念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。また、「往生は、一定(いちぢゃう)と思へば一定、不定(ふぢゃう)と思へば不定なり」といはれけり。これも尊し。また「疑ひながらも念仏すれば往生す」ともいはれけり。これもまた尊し。


「目のさめたらむ程念仏し給へ」の所だが、初めて読んだとき私は、「目が覚めるほど烈しい気持ちで念仏なさい」と解釈して感動したのだった。

ずっと後で、「目がさめているときだけ念仏なさい」という意味だと知った。

意味が全く逆である。

「目が覚めるほど」というのであれば、烈しい気持ちの念仏であり、「目がさめているときだけ」では、やさしさにあふれている。

要は、「程」が、「時間」を言うのか、「程度」を言うのかである。

古語辞典を読むと、「程」は、"時間・空間の広がりの度合い"、と、"程度"という両方の意味がある様である。時間の概念が初めにあり、その後、"時間とともに性質が変わっていく度合い"、という概念が出てきて、いわゆる"程度"の意味が加わったようだ。

このあたりは、岩波の古語辞典に詳しい記述がある。


結局、どの本にも、「目がさめているときだけ」と書いてあり、それが本当の意味なのだろう。


この一節から浄土宗の経典(いわゆる三部作の無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)を読みだし、これが私にとっての仏教への入り口だった。



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