気まぐれ日記 13


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[2014/7/22] 後拾遺集568/和泉式部集485 「とゞめおきて」の歌(和泉式部) の比較

「とどめおきて」の歌は 後拾遺集568 と 和泉式部集485 にありますが、表記がいろいろと違っています。すこしだけ考えてみました。

(1)詞書き

後拾遺集568 詞書き 小式部内侍なくなりて、孫(むまご)どもの侍りけるを見てよみ侍りける

後拾遺集では子の通りですが、和泉式部集にはありません。「校訂本 泉式部集(正・続)」には何も記載がないので、後拾遺集を編集したときに詞書きを付けたのでしょうか。ただし、一つ前の484番歌には詞書きがあります。

宮より、「露置きたる唐衣まゐらせよ、経の表紙にせむ」と召したるに、結びつけたる
置くと見し露もありけりはかなくて消えにし人を何にたとへむ

勅撰和歌集では、詞書きのない歌は直前の詞書きを引き継ぐ、というのが通例の様ですが、詞書きがない歌については「題しらず」と書いて、その直前の詞書きの適用が終わった事を示します。しかしながら和泉式部集では「題しらず」という表記はありませんので、「直前の詞書きを引き継ぐ」のか「詞書きがないのか」の区別ができません。

この歌の前後はこうなっています。

480 わが宿を人に見せばや春は梅夏は常夏秋は秋萩
481 (詞書きに「これを見て、一品の宮の相模」とあり) 春の梅夏のなでしこ秋の萩菊の残りの冬ぞ知らるる
482 (詞書き「内侍のうせたる頃、雪の降りて消えぬれば」とあり) などて君むなしき空に消えにけん淡雪だにもふればふる世に
483 (詞書き「同じ頃、殿の中納言うせ給へるに、とぶらひ給へるに」とあり) (歌は省略)む
484 (詞書き「宮より、『露置きたる唐衣まゐらせよ、経の表紙にせむ』と召したるに、結びつけたる」とあるのは上記の通り
485 (詞書きはなく)「留め置きて」の歌

小式部内侍の死との関係でいえば、480,481は関係なく、482で内侍の死が歌われ、483は別人の死に関する歌で、484,485はまた内侍の死が歌われます。単に時間の系列にしたがって並べたのかもしれませんが、この後の488番歌には、詞書きが「若君、御送りにおはする頃」としてあります。「御送り」とは「(埋葬地まで使者を)運び送る、葬送する」(全訳古語辞典 小学館)であれば内侍の死後間もなくでしょうから、482番歌よりは前になります。

詞書きは古今集以来、丹念に表記されてきたようです。古今集の巻第一(春歌上)では、68首のうち詞書きがあるもの(「題しらず」を除いたもの)は45首で66%になり、後拾遺集の巻第一(春歌上)では127首のうち101首で80%です。ここでは、単に「返し」というものも詞書きに含めています。

和泉式部集で詞書きは少ない、となんとなく思っていたのですが、実際によく見ると多いですね。勅撰和歌集の編集は国家的事業であり、人・物・金を十分に用意しておこなわれるのに対し、和泉式部集では編集体制はほとんどわかっていません(成立時期さえわかっていない)が、勅撰和歌集ほどのエネルギーが費やされた可能性はないでしょう。ということを考えてみると、よくのこっているなあ、と思います。和泉式部集の編集の時に参照した反故の類にはすでに書きつけてあったのでしょうか。もしそうなら、日付は書き込まなかったのでしょうか。歌が送られてきたときには、それを保存するときにその内容の説明を追記していたのでしょうか。

この様なことについて私は何も理解していません。機会があれば、詞書きについて調べてみたいと思います。

(2)和歌自身

伝本間の相違を言いだすと大変なので、以下の3本を比較しました。

「校訂本 和泉式部集(正・続)」 清水文雄著 笠間書院  正集の底本は榊原家蔵忠治文庫旧蔵本和泉式部集 上下  以下、「校訂本」と略す。
「合本 八代集」 久保田淳・川村晃生編 三弥井書店  底本は正保4年板本八代集  以下「八代集」と略す
「新 日本古典文学大系 8 後拾遺和歌集」 久保田淳・平田喜信校注 岩波書店  底本は宮内庁書陵部蔵後拾遺和歌抄  以下「大系本」と略す


校訂本   とどめおきて たれをあはれと 思ひけん 子はまさるらん 子はまさりけり

八代集   とゞめをきて 誰を哀と おもふらん こはまさるらん こはまさりける

大系本   とゞめおきて 誰をあはれと 思ふらん 子はまさるらん 子はまさりけり

漢字・かなの違いや初句のところで踊り字を使うか使わないか、については気にする必要はないでしょう。

八代集で初句の第4文字が「を」で他の二つが「お」であるのは、ア行とワ行のオ列イ列エ列が混同されるようになった影響と思われ、原文の作成時期の推定という点での関心は起こるでしょうが、あくまで表記の問題の様に思われます。

その結果、第3句の終わりが「けん」か「らん」か、という問題が残ります。大まかにいえば、「けん」では過去の事柄の推定、「らん」では現在の事柄の推定という違いになります。

第3句が「けん」の場合、死に際でどのように思っていただろうか、ということになりますが、そうなると、第4句が「らん」とはどういうことか。私の猿知恵では、"不変の真理を現在形で表現した"というくらいしかおもいつきませんね。第3句が「らん」ではあの世で現在どのように思っているのだろうか、というところで、第4句の「らん」と整合がとれます。どちらが妥当か、ということになるとさっぱり見当が付きません。作者の考え方次第でしょうね。

ただ一つ気になるのは、第3,4,5句の終わりが全て助動詞で終っていて、校訂本では「けん・らん・けり」、他では「らん・らん・けり」です。単に字面でいえば、第4,5句が結論ですから、第3句が「らん」であると第3,4句が「らん・らん」と連続して、結論としての第4,5句のまとまりが不明瞭になるような気がして、その点では校訂本の「けん・らん・けり」の方がよいように感じます。

最初の原本はどちらかだったのでしょうから、写本の観点からは、「けん」か「らん」かを写し間違えたことになります。この二つの写し間違いが起こりやすいのかどうか、についても私には全く知識がありません。

もっとも、推敲の過程で作者が書きなおした、ということも考えられますね。書きなおす前の書と書きなおした後の書が別々に二か所に残っていたかもしれません。

この辺りは分らないことばかりですね。


備考

(*1) たとえば 岩波講座 日本語 5 音韻  6 音韻の変遷 (2) pp.221  岩波書店



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