気まぐれ日記 11


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[2014/1/7] I love you の翻訳と古今集698 恋しとは (清原深養父)

かつて、翻訳のエピソードとして、次の様な話がありました。

明治時代に外国文学の翻訳で、"I love you." という文章を「死んでもいい」と訳した人がいた。

これは、「型通りの翻訳はいけない、原文の真の意味をとらえて、日本語の表現として最適な言葉・表現を使わないといけない」、という様な論の例として引き合いに出されていたように覚えています。原文がどのような場面なのかが分らないので、この訳文が本当に素晴らしいのかどうかは分りませんが、「死んでもいい」という表現がぴったりする場面は想像できなくはありません。

誰のエピソードなのか分かりませんが、これほど大胆な訳をするというのは、相当な大家でしょう。


さて古今集ですが、この様な歌があります。

巻第十四 恋歌四

698 恋しとは誰が名づけけむことならむ死ぬとぞただにいふべかりける

以下、古今集の歌の表記は、「笠間文庫 古今和歌集 片桐洋一訳・注 笠間書院」による。

"恋しい"、とは一体だれが名づけた言葉なのだろうか、単に"死ぬ"といえばそれでいいのに

とても分かりやすくて、私にはその歌意が新鮮に感じました。

この歌があまりに印象的なので、作者の清原深養父の歌集をネットで探して印刷して読んだことがありました。「恋」と「死」の両方を歌った歌が深養父にはいくつかあり、古今集には上記の他に二つ採録されています。

603 恋ひ死なばたが名はたたじ世の中のつねなきものと言ひはなすとも

613 今ははや恋ひ死なましをあひ見むとたのめしことぞ命なりける

「恋ひ死ぬ」という言葉があるのですね。深養父以外で「恋ひ死ぬ」という言葉が使われているのは古今集に2首あります。

526 恋ひ死ねとするわざならしむばたまの夜はすがらに夢に見えつつ  よみ人知らず

654 思ふどちひとりひとりが恋ひ死なば誰によそへて藤衣き着む  よみ人知らず

同じく古今集で、「恋ひ死ぬ」という言葉ではないものの、「恋ふ」と「死ぬ」の両方を含む歌もあります。

492 吉野川岩切りとほし行く水の音には立てじ恋は死ぬとも  よみ人知らず

494 山高み下行く水のしたにのみ流れてこひむ恋は死ぬとも  よみ人知らず

517 こひしきに命をかふるものならば死にはやすくぞあるべかりける  よみ人知らず

518 人の身もならはしものを逢はずしていざこころみむ恋やしぬると  よみ人知らず

661 紅の色にはいでじかくれ沼の下にかよひて恋は死ぬとも  きのとものり

「恋は死ぬ」、またそれに類する表現は、上記の歌では全て「恋ひ死ぬ」と同じ意味で、恋焦がれて死ぬ、というものです。

実は古今集の前の万葉集に「恋ひ死ぬ」に類する表現がたくさんあります。インターネットで万葉集の語句の検索ができるサイトがあるので「恋ひ死」で検索したところ28首もありました。一部のみ以下に書きだします。

恋ひて死ぬとも

恋ひは死ぬとも

恋ひば死ぬべみ

恋ひても死なむ

我が恋ひ死なば

恋ひ死なむ

恋ひは死なずて

恋ひて死なまし

恋ひしなば恋ひも死ねとや


わが国では「恋」と「死」はすぐ近くにあるということですね。「恋しい」と思う気持ちの先に「死」が控えている。


"I love you."を「死んでもいい」と訳した人がいた、と冒頭に書きましたが、もしかするとその訳者は日本の古典文学に通じていたのかもしれない、と思った次第です。


日本の古典文学で「恋い死ぬ」というのは、恋しくて恋しくて仕方がない相手に逢うことができない、その人の訪れがない、というつらい気持ちが募って「死ぬ」という考えが出てくるのです。"I love you."と言ってもらえたなら「死」の影は現れません。その点が大きな違いでしょうか。


【備考】

「死んでもいい」という訳文ですが、翻訳者はだれか、ということが気になり、ネットで探してみると、情報がいくつかありました。たとえば、FLAMA技術Blogさんのサイトの記事によると、このエピソードについて

翻訳者は二葉亭四迷という噂が流れているが、二葉亭四迷が「死んでもいいわ」と訳した部分は英語版では"Yours"というところだった

ということです。"I love you."を「死んでもいいわ」と訳した、ということではない。ただし、このサイトでは、"Yours"を「死んでもいいわ」とした二葉亭四迷の訳はすばらしい、とコメントしてありました。たしかにそうですね。



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